第3話


  国語の教科書の定番になるのが、宮沢賢治の「やまなし」や「雨にも負けず」、「よだかの星」などで、オレも昔はそういう古典?みたいに、そういうものかなと曖昧に考えていたが、なぜ、芸術性が高い、美しい日本語のお手本、みたいに賢治の詩や童話は教科書に載るのか? 斉藤孝さん監修のテレビ番組でも、よく「風の又三郎」の冒頭の文句とかが引用される。


 文学の目利き、国語力のセンス?そういうシロートにはわかりにくい次元のことかな? 

 高邁な思想性と、国語力のレベルの高さ? ”きわめて見識の高い人々”にしかわからない何か。


 でなければ、たとえばピカソの絵が分かり難いように、賢治のどの童話や詩も、わりと平易な日本語で、ありふれた詩情がつづられているとしか見えない…なぜ殊更に評価されるかのゆえんが分かり難い。

 批判的に考えるとそうも言える。 原爆の詩人だから原民喜という作家の名が残っているというのと、しかし賢治は違う気もする。

 

 そこが、”ヴァルネラビリティ”ではないのか、と、これはオレなりの仮説だが、ある文人がシュープリームにセンセーショナルということには、ある種の… … 同時代性や人類の共通の普遍妥当な問題を典型的に背負っている? そういう運命? 「その星のもとに生まれた」そういう因果やらカルマ? そういう要素が大きいという気がします。


 キリスト、という人をやはり連想するが、?、卓越した文才で、文名が上がる、名声を得る…そうしたことは諸刃の剣というのか、世間から非常に嫉妬を買うという現実があって、露骨にそれを書く人もいる。

 三島由紀夫はナイフを持ち歩いていたそうだし、ソクラテスやニーチェやらの偉人が大衆を殊更にののしる傾向があるのは、世間と軋轢を生じるからかな?と、小声でそう言ってみたりします。


 で、まあ、文人の声価が定まったようなところから、一方では何となく孤立もする。 そのへんから、まあ、そういうことについて、だから社会と藝術、人間というものの運命、真っ当な生き方とは? そういうような問題についてよりピュアに思索を深めていこうとする、(あたかも過酷な運命や環境に粘り強く抗うグスコーブドリのごとくに?)、非常に真摯で生真面目で、…そういう人物がいて、だんだんに、そうした特殊状況ゆえに? その人物やら作品が独特の精彩というか、特殊な聖性、天上的な輝きを帯びていく…そういう人物類型があって、


 それが宮沢賢治の場合では? と、まあ牽強付会ですが、そういう気がするんです…













 


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