第8話

目の前のものに太陽のような眩しい光を当てると

全てが明らかとなり平面に見える

そこに影ができると立体的に見えてくる

人生も憂いがある故に大切なものがはっきりして深まっていく

でも 影ばかりだったとしたら?

人生の大切なものは 欠落していく



「林 凛香ちゃん、あの場では言えなかったんだけど、私が凛香ちゃんの父親の宮下 賢です」

「えっ?」

 状況が飲み込めずにいる私を、まず席に座るよう宮じいが促した。

「会えなくなった娘を思い出しながら子供食堂を始めてね、それだけでは金銭的に厳しいから、運送の仕事もしているんだ」

 小学生を相手に食事のサポートをしながら、最近は中学生が体験に来るのを楽しみにしていたところ、今年の名簿には、自分の娘と同じ名前が記されていた。まさかと思いながら当日を迎え、会ってみると、娘に違いないと確信をしたのだという。でも、あの場では打ち明ける訳にもいかず、迷った末に母に連絡を取って場を設定するよう懇願したということだった。


「離婚したことで苦労を掛けてしまってすまなかった」

 父は立ち上がって、頭を深々と下げて詫びた。私はこれまで父に対して「許せない感情」を抱えてきた。しかし突然、その相手が宮じいだと知って怒りの矛先を失ってしまった。

「夢にまで見た我が子が突然、目の前に現れてね、涙が出そうなのを堪えて、あの日を過ごしたんだよ」

 宮じいの目は涙で潤んでいた。

「気立てのいい、賢い子に育ててくれて、母さんには本当に感謝しているんだ」

 あの日の感想を聞いて、照れくさかった。何でも食べたいものを注文して欲しいと、食べ切れないくらいのものを頼んでくれた。父は、言葉を選びながら、当時のことについて話し始めた。

「凛香ちゃんは音楽が好きな子でね、母さんがピアノを弾き始めるとどんなに泣いている時でも、ピタリと泣き止んだんだよ」

 初めて聞く話だった。

「それで母さんに、費用は出すからどうかピアノを習わせてやってくれと離婚するときに無理をお願いしたんだ」

「だから・・・・・・」

 子供の頃、ピアノだけは習わせてくれたことが不思議だったのだ。裕福ではなかったのに。


 ようやくチョコレートパフェが届いた。パフェを食べながらだと、緊張しないで話すことができた。メリーゴーランドの写真を携帯で撮影したものを見せた。

「これって覚えてますか?」

「ああ、勿論。覚えているよ」

 その顔はとても嬉しそうに見えた。

「東部遊園地というところが昔あってね、母さんとの関係が良かった頃に三人で行ったんだよ」

「じゃあ、これはお父さんが撮影した写真なんですよね」

「勿論だよ。この日はお母さんの機嫌も良くてね、とても楽しかったんだ。父さんは凛香ちゃんとずっと一緒に過ごしたかったから、本当は離婚したくなかったんだよ」

「えっ?」

 初めて聞く父の気持ちに動揺してしまった。

「どういうことでしょう?」

「凛香ちゃんがお母さんから聞いている話と違うのかもしれないけど・・・・・・」

 そう断りを付けてから父は離婚について語り出した。当時、社会全体が不況だった関係もあり勤めていた会社が倒産した。行き先をなくした父は、母方の祖父母が営む食堂で働くことになった。ところが父は料理も接客もしたことがなかったから食堂の足手まといとなり、祖父母から毎日ひどい叱責を受けるようになったのだという。

「食堂で仕事をした後は、どうしても母さんに八つ当たりしてしまって、ひどい言葉を言ってしまった。傷つけてしまったんだ。無職になった父さんに食堂の仕事ができるように話を付けてくれた母さんには感謝をしているのに、押さえ切れないイライラをぶつけてしまったんだよ。母さんのことを大切にできなかった」

 私はギュッと唇を噛んだ。やっぱり父さんは、私と同じで「不器用な人」だった。

「だけどね、あの頃、食堂の仕事をやっていたから今『子供食堂』を開くことができたんだよね。義母ちゃんにおいしい出汁の取り方も教えてもらったし。この年になってようやく義理の両親への感謝が芽生えているんだ」

 「子供食堂」で鍋を食べた時のことを思い出した。懐かしさを感じたのは、家庭的な雰囲気だったからではなかったのだ。義母ちゃんの出汁だった。


 夫婦間がうまくいかなくなっていたところへ、倒産した会社で部下だった女子社員から連絡が来て、夫からのDVについて相談を受けるようになった。父さんも、食堂での義父母からの仕打ちや母さんとの関係がうまくいっていないことを誰かに聞いて欲しい気持ちもあり、何度かその女子社員と会ったのだ。或る日、食堂の仕事に行く前に、喫茶店でその女子社員の相談に乗っているところを、母の親友が目撃し、こっそり撮影された写真が母に送信されてしまったのだという。

「それで誤解されてしまったんだよ」

「じゃあ、浮気ではなかったんですか?」

「喫茶店で会ったことは事実だけど、いわゆる男女の関係ではなかったんだ。かつての上司と部下として私生活で埋まらない溝を誰かに聞いてほしかったんだよな、お互いに。でも事情を説明してもお母さんとの溝は埋まるどころか、関係は悪化し続けたんだよ」

 二人が喧嘩をしていた記憶は、私の中に残っている。

「結局、一緒に居られないくらい溝ができて離婚に至ったんだ。女子社員との誤解がなかったとしても、僕たちの関係はきっと悪化の一途を辿っていたのだと思う・・・・・・」

 宮じいは、冷めた珈琲をすすった。険悪な関係のまま一緒に暮らし続けるよりも離婚の道を選んだ。私と一緒に暮らすことをあきらめたのだという。理解ができていない部分もあったけれど、父と母の関係が崩れてしまったことが離婚の原因だとわかった。


「お話が聞けて良かったです」

 私はぎこちなく微笑んで、父さんが頼み過ぎたりんごジュースを飲んだ。

「凛香ちゃんは、今でもお野菜は好きなのかな?」

 ほら、やっぱり勘違いしてる。父さんが喜んでくれるから、無理して野菜を食べていただけなのに、全然分かってない。

「野菜は、当時、あなたが褒めてくれたから食べていただけで、特別好きだったという訳ではありません」

「そうだったんだね」

 驚きの声を上げ頷いた宮じいは、少しがっかりしているように見えた。

「昨日、公立高校の入試を受けてきました」

「そうそう。公立高校入試の話をテレビで見て、気になっていたんだ」

 北星高校を受験したことと、試験結果に自信がないことを伝えると、宮じいは父親らしく励ましてくれた。

「ところで、今日、来てもらったのは実は渡したいものがあって」

 鞄の中を、がさがさと探し始めた。

「はい、これは凛香の高校進学準備の足しにしてください」

 手渡されたのは通帳と印鑑だった。中を開いて見せてくれた。九十五万円という金額が印字されていた。受け取ってもいい額なのか戸惑った。

「これは、養育費とは別に、少しずつ貯めていたんだよ」

 私の成長に思いを馳せながら、毎月少しずつ貯金をしてくれていたことが嬉しかった。

「離婚していても、凛香の父さんだからね」

「はい」

 いつしか私の瞳にも涙が溢れていた。宮じいは、私の手を握って

「会いに来てくれてありがとう」

 と繰り返した。


 しばらく言葉が出なかった私は、追加で頼んでくれたホットチョコドリンクを、ゆっくりと口に含んだ。カカオの甘い香りにようやく気持ちが落ち着いた。

「お祝い金、ありがとうございます」

 私は通帳と印鑑を受け取ることにしたのだ。

「凛香ちゃん、何もしてあげられなかったから。自分のために役立ててね」

 最後にもう一度握手をして別れた。父の手は、想像していたよりも大きくてあたたかかった。


 帰りのバスに揺られながら、今度「子供食堂」を訪ねる時はどんな顔をして会ったらいいだろう? ちょっとだけ隙間が埋まった心の中で、宮じいのことを思い出していた。

「離婚するつもりはなかったんだよ」

「大人って勝手だな」という感情と「やっぱり不器用な父親だった」という感情が心の奥で混じり合った。不器用なところが私と似ているのだろうか?

 高校入試の結果が出て落ち着いたら、宮じいの秘密を春翔に伝えてみよう。また一緒に、会いに行ってくれるに違いない。


 家に戻ると母に通帳と印鑑を受け取ったことを伝えた。

「凛香ちゃんのことを、今でも大切に思っているのね」

 母はそう言うと目に涙をうっすらと浮かべていた。通帳と印鑑は母に預けた。通帳の表紙には「凛香ちゃん用 毎月貯金」とマジックで書かれていた。初めて見る父の字だった。積み立てが始まったのは離婚をした年からだった。


「父さんはね浮気じゃなくて、元女子社員の相談に乗っていたって言っていたのだけど・・・・・・」

「リストラされて、食堂の仕事もうまくいかなくて、凛香をちゃんと育てなくてはいけないのに大丈夫なの? って父さんを責めてしまったの。ママは自分の不安が大きくなりすぎてね・・・・・・。それで信じられなくなっちゃったところもあるのよ。存在しない、形のないものに嫉妬したというか」

 母の言葉を聞いて、父の言葉はどうやら事実だったのだということが伝わってきた。母は自分の不安に押し潰されそうになり、耐えられなくなったのだろうか? 優しくて大好きだった祖母や祖父は、父にとって苦手な存在だったのだろうか?

 父は、ずっと心残りを抱えて生きてきたのかもしれない。



 公立高校試験の結果が出る日は休校となり、各自でホームページに結果がアップされるのを見たり、高校の昇降口前に掲示される結果を見たりして自分の合否を知ることになる。合格者は各自で高校を訪ね「合格証」を手に入れることになっていた。


 バスに揺られながら春翔と一緒に北星高校に向かう私の足取りは重かった。午前十時となり、昇降口前に掲示物が用意された。

 私は自分の受験票と見比べながら確認をした。私の番号は三百二十九番だ。三百二十一番の次が三百三十になっている。つまり、私は落ちた。ショックでその場に座り込んでしまった。

 春翔は何も言わなかったが、合格している様子だった。私は正門横のベンチに春翔に抱きかかえられながらようやく移動をした。うなだれるように座った私に春翔は優しく声を掛けた。

「凛香ちゃん、ちょっとここで待っていてね。すぐ戻ってくるから」

 春翔は、校舎内へ合格証をもらいに行った様子だった。一人になった私は「帰りのバスで春翔に気を遣わせたくない。同情されたくない」という気持ちが湧いてきた。一本早いバスに乗りたくて、一人でバス停に向かった。


 バス停に到着すると、ちょうど「自宅方面行き」が来て乗車することができた。一番後ろの窓際の席に座った。後から後から涙が滴ってくる。窓に写る自分の顔が惨めで許せなかった。私がこれまでやってきたことは何だったのだろう? 全て無駄だったのではないのか? そう思うと余計に涙が止まらなかった。


 最寄りのバス停で下車したのだが家に帰る気持ちにもなれず、バス停脇の公園に寄ることにした。誰もいない公園でブランコに乗った。ブランコは、私の気持ちに呼応するかのように揺れた。

「明日から学校へ行きたくない」

 そう思った。合格している人たちに混じって学校生活を送ることが苦痛で仕方なく思えたのだ。無心でブランコを漕ぎ続けた。ブランコから普段ならいろいろな景色や空だって見えるはずなのに、何も視界に入って来なかった。ブランコが揺れる度に、私の涙は冷やされていった。


 どのくらい時間が経ったのだろう? 誰かの声が聞こえる。その声はだんだん大きくなった。春翔の声だ。

「凛香ちゃーん」

「凛香ちゃーん、ブランコに乗っているのが見えたから」

 心配する気持ちが声に滲んでいる。私はブランコを漕ぐのを止めた。でも春翔の顔を見ることはできなかった。

「凛香ちゃんの気持ちを想像すると、僕もとても辛いんだ」

 私は下唇を噛みしめた。落ちたことが悔しくて、悲しくて。春翔が合格したことは嬉しくて、でも悲しくて。まだ気持ちの整理がつかなかった。本当は黙っていたかった。春翔を、前みたいに傷つけたくなかった。


「春翔くんみたいな恵まれた環境の人に、私の気持ちなんてわかるわけがない」

 思い掛けず口から出た本音を、自分でもどうすることもできなかった。

「凛香ちゃん、恵まれた環境ってどういう意味?」

 春翔は優しい落ち着いた声で問い掛けてきた。

「うちは、ひとり親家庭で、塾にだって特待生でなかったら通わせてもらえなかったくらいなの。高校だって本当は公立に行って欲しいってお母さんからも言われていたし。でも、あんなに勉強をがんばったのに受からなかった。私には才能なんてないのよ」

 感情的になる私には取り合わず、春翔は隣のブランコに腰掛けた。体をこちらへ向けて、心配そうな視線を送っているのが分かる。


「凛香ちゃんにはまだ言っていなかったけど・・・・・・。実はね、うちの母さんは病気で小学校三年生の時に亡くなったんだ。子宮癌でね。だからうちもひとり親家庭なんだよ」

 私は、言葉を失った。小学校の参観会の時に、春翔の家はお父さんが来ていたことを思い出した。言われてみると、夫婦で参観していたのは低学年の頃だったのかもしれない。私は、春翔の話を聞いて余計に涙が止まらなくなった。


「母さんが亡くなってから、もう何にもやる気にならなくて。毎日、毎日、けんかばかりしてたんだ」

 涙を拭きながら隣のブランコに座っている春翔の顔を見ると、春翔も目が赤く、潤んでいるようだった。

「ある日、友達とけんかして怪我までさせちゃって、先生や父親からひどく叱られた。むしゃくしゃした気持ちでちょうどこの公園の前を通ったら、凛香ちゃんが一人でブランコに乗っていて。そう言えば凛香ちゃんとこもお父さんいなかったなって思い出した」

 春翔は遠いところを見つめながら話を続けた。

「その時、保育園の時に鉄棒から落ちて、凛香ちゃんに『春くんのお嫁さんになりたかったのに、死なないでぇ』って心配されたこと、小さかった僕が凛香ちゃんを守ろうって思っていたことをひとつずつ思い出したんだ」

 思いがけない言葉に、私は春翔の顔を見上げた。

「この子が困っていたら助けてあげようって思った。その気持ちが僕を支えてくれた」

 思い掛けないところで自分が役に立っていたと知ることになった。

「だけど、中学生になってからは、なかなか凛香ちゃんに話し掛けることが出来なかった。このままだと中学校生活が終わってしまうって焦ったんだ。それであの時、図書館で凛香ちゃんに話し掛けた。中三の四月に同じクラスになって、話し掛けるのに十二月まで掛かったんだよ。勇気が出なくて」


 確かにその頃の私は、男子に対して冷たい言葉しか返していなかった。お母さんが亡くなっていたことや春翔の意外な面など、一度に聞いて混乱していた。でも、その話はとても心に響くものだった。恵まれていると思っていた春翔がうちと同じひとり親家庭だったなんて、気付かなかった。なぜこれまで打ち明けてくれなかったのだろう? 一瞬のうちに様々なことが頭をよぎる。


 ひょっとしたら、聞いて欲しかったけれど、言えなかったのだろうか? 泣きたいのは、私ではなかったのだ。


「春翔くんも、いろいろとあったんだね。気付かなくて、いつも自分のことばかり言ってごめん。泣きたかったのは・・・・・・」

 春翔は私の言葉を遮った。

「凛香ちゃんは悪くない。僕がそういう話をしなかったのは、凛香ちゃんに頼りになる人だって思われたかったからなんだ」


 私から見た春翔は、いつも落ち着いて自信に満ちていた。けんかばかりしていたことや、勇気がないと思っていたことが信じられなかった。

「だから凛香ちゃんのいろいろな気持ちがわかるような気がして、力になりたいって思ったんだ」

 春翔の優しさがどこからきているものなのか、私にも理解できるような気がした。私はブランコから下りて、春翔の前に立った。

「だから・・・・・・。私のことをこんなに理解して、親切にしてくれていたんだ。ありがとう」

 ブランコに腰掛けてチェーンを握る春翔の左手に自分の右手を重ねた。ささくれた気持ちを溶かしてくれるような温かさだった。春翔がゆっくり立ち上がると、二人の視線は重なり、唇が触れた。冷たかった唇は熱を帯び、気が付くと春翔の腕が私を優しく包んでいた。「好きだよ」とささやく声が聞こえた。



 やっぱり涙は止まらなかった。



 春翔の親切が心地良いのは、彼もまた光の当たらない人生を歩んで来たからなのかもしれない。春翔の優しさは、哀しみでできている。あの時一緒に見た満月のように、白くて優しい光で私を照らしてくれていた。進学する高校は違っても、この先もずっとずっと春翔との関係が続けばと心から願う。



 ひとりきりでは超えられない過去も、ひとりきりでは哀しすぎる過去も、もうひとりで超えなくてもいい。もうひとりでこらえなくてもいいんだ。







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