《演算6》
[1]
バシン、と鋭い音が響き、ネットを越えて白いバレーボールがコートに入り込んでくる。
見事な連携で切り返すが、ブロックでボール戻ってきた。
「あっ……!?」
一瞬の判断ミス。梓が伸ばした手は届かず、ボールは無情にもコートの内側を跳ねた。
「ドンマイ、進上さん!」
「大丈夫大丈夫、まだ巻き返せるって!」
「次こそお願いね!」
チームメート達の励ましと期待の笑顔に、梓は、「ゴメンね!」と声を出すが、笑顔がうまく作れない事に、内心でひやひやしていた。
(ほとんど寝ないで出てくるのは……さすがに辛いな)
一晩中あちこち歩き回って、空が明るくなってからこっそり寮に戻った。そのまま最低限の身支度だけを調えて登校。ほとんど休息を許されなかった体は、しきりに睡眠を求めている。
だが、サボリや居眠りができるはずもなく、梓はひたすら体の要求に抗っていた。体育は目が覚めてちょうどいい……とも思ったが、むしろ体が言うことを聞かず辛いくらいだった。
それに、ふとした瞬間に、やはり考え込んでしまうのだ。
(わたし……どうしたらいいんだろう)
何度問いかけても、答えは出てこない。
(憂鬱だなぁ……)
昨日は仕事を休ませてもらったが、今日は行かなければならない。だが、そうなれば確実にエルデと顔を合わせ事になる。
「進上さん!!」
鋭い注意の声。梓が意識を戻した時には、バレーボールが目の前に迫っていた。
「ッ!!」
咄嗟に演算を起動――しようとして、梓は硬直してしまう。
直後、ボールを顔で受けた梓の眼前が、真っ暗になった。
● ● ●
「進上さん。あなた、現場配属になって、初めての出動だったかしら?」
車いすに座った銀髪の少女が、鈴の鳴るような声で問いかけてきた。その声に、焦りや動揺は一切含まれていない。
「は、はい」
それに対して梓の声には、緊張と恐怖と寒気を足したような背筋の震えが伝播していた。
人垣をかき分けた先に待っていたのは、壮絶な光景だった。
六階建てビルの五階。その外壁に引っかかったフェンスと、宙づりになった子ども。
屋上のフェンスが外れた時に服が絡まったらしく、最悪の事態だけは避けられたようだが、このままだといつ地面に叩きつけられてもおかしくない。
「う、ウトーピア先輩。や、やはり、この場合、屋上からロープを降ろして……」
「そんな事してる間に、落ちるわよ、あの子」
だが、エルデは、マニュアル通りの対処法を、躊躇いもなく切って捨てた。頬杖をついたまま頭上を見上げる視線には、微塵の揺らぎもない。
「こういう場合は、何よりもスピードを重視なさい」
そう言い背筋を伸ばしたエルデは、そっとまぶたを閉じた。
「〝
呟くと同時に、エルデの正面に、小さな光の粒子が渦を巻くように現れ始めた。小さな渦はだんだんと小さな竜巻へと成長し、同時にその内側に、一つの像を結んでいく。
実際にはほんの数秒。だが、数十秒にも感じられた時間の中で、車いすに座るエルデの前に、寸分違わぬ姿で立つもう一人のエルデが出現していた。
「……
初めて見るその独自演算に、梓の口から思わず声が漏れた。
魔人と呼ばれる、最高峰の演算手の一人、エルデ・ウトーピア。
その出現に、周囲からもどよめきが起こっている。
だが、エルデは心乱された様子も無くビルに歩み寄り――ふわりと、外壁に足をつけた。
「え……?」
困惑と衝撃と疑問で、空間が埋め尽くされた。
何をしているのか――その答えは、すぐに示された。
エルデが、壁を垂直に駆け上がっていく。
(ウソでしょ……!?)
正気を疑うような光景に、梓は呼吸すら忘れていた。
エルデは、前傾姿勢で地面を走るように、両足で壁を昇っていく。
あっと言う間に五階にたどり着いたエルデは、スピードを落さず子供を右手で抱き上げ、その衝撃で落下しそうになったフェンスを左手で掴んだ。
フェンスをそのまま屋上に放り投げたエルデの姿勢がわずかに崩れ、周囲から悲鳴にも似た声が上がるが――エルデは、子供をしっかりと胸元に抱えたまま、空中で姿勢を整えた。
(でもこのままじゃ……!)
梓は、咄嗟に二人を受け止めようと、演算を組み立て始める。
だが、次の瞬間、エルデは左手と左足を、ビルへと押しつけた。
(摩擦で落下速度を落とすつもり……!?)
そのあまりに無謀な行動に、梓は己の血の気が引いていく音を聞いた気がした。何かがこすれ削れる音が梓の耳に届いてくる。
耐えられるはずがない――そう思った梓だったが、エルデが地上に近づいてくるにつれ、その手がビルの壁に五本の溝を刻んでいる事に気づいた。その事に息を呑んでいる間に、エルデの右足が、トンと軽い音を立てて地面を踏んだ。
エルデは、誰もが状況を理解できていない中で子供を降ろし、何か声をかけた。
子供が「お母さん!」と声を上げて駆けていく。女性が一人、足に力が入らない様子で前に出てきた。子供がその腕の中に飛び込むと、女性が途端に声を上げて泣き出した。
それをきっかけに、時間が戻った。警察や消防が動き出し、見守っていた人々が歓声を上げる。誰もが無事に解決した事を喜び、感動している。
だが、エルデだけは――いや、エルデとネイだけは、ちょっと道案内をしてあげたくらいの様子で、平然としている。
(すごい……)
エルデにとっては、当たり前の事を、当たり前のようにやって結果を出しただけなのだ。
(この人は、こんなにもたくさんの人を、何でもない事のように笑顔にしてしまうんだ……)
誰もが困難だと思う事でも、エルデの前では、誰も不幸になどならない。
それが、当たり前。
梓の理想が、目の前にある。希望の光であり、目指すべき道筋だ。
まぶしく、そして美しい背中。
梓は、目を細めてただただ見入っていた。
● ● ●
まぶしさに起こされた梓が目にしたのは、見慣れない天井だった。
「ん……」
ぼうっと天井に視線を這わせながら、梓はもぞりと右腕を毛布から出し、両目を覆った。
(懐かしいなぁ……)
一年前の記憶。
梓の方向性を、決定的なものにした出来事。
この人のようになりたい――心からそう思った瞬間。
その時の事を思い出すと、自然と力がわいてきて、笑顔になれた。
けれど今は――確かに笑顔を浮かべていると分かるのに、胸の内側が締め付けられる。
(本当に……遠いなぁ……)
エルデの揺るぎないまなざしも、向けられる純粋な賞賛と笑顔も、今の梓には遠すぎる。
(わたしは、何を守ってるんだろう……)
怪我をしたひとみの姿とエルデの言葉が、繰り返し脳裏に浮かぶ。
「はぁ……」
思わずため息が漏れたが、体の中に巣くったけだるさは、消えてくれなかった。
(もう少し寝てようかな……)
そう思ってから、梓は、ベッドや毛布の感触が、いつもと違う事に気づいた。今更ながらに、天井が部屋のものと違った事にも思い至る。
梓は、まぶたを覆っていた腕をどかし、目を開く。
息がかかる距離に、誰かがいた。
「うわぁっ!?」
跳ねるように起き上がると、その人物はひょいと梓の頭突きを避けた。
「いきなり起き上がったら危ないじゃない」
けらけらと笑う三十代半ばの女性。その見覚えのある姿に、梓は胸をなで下ろす。
「エレナ先生……びっくりさせないで下さいよ」
「ごめんねぇ。様子が気になったのよ」
口調こそ軽いが、まっすぐに梓を見るその目には、強い気遣いの色が見える。
彼女は、演算やその元となった文明の歴史を教える非常勤講師だ。週に一、二度しか出勤しないが、気さくな人柄から生徒教師を問わず人気が高い。
「えっと……?」
「倒れたの、覚えてない?」
そう問われた梓は記憶を辿り、自分がボールにぶつかって気を失ったのだと理解した。
「すみません、ご心配をおかけしたみたいで……」
「ええ。まさか顔面でボール受けて後ろにばったりなんて……さすがにビックリしたわね」
「うあ……」
梓は、告げられた己の間抜けさに、思わず頭を抱えた。
「ま、演算で少し加速されてたみたいだし……あんなの無防備に食らったら、脳しんとうの一つも起こして当然よね。まぁ、みんなは大慌てだったけど」
「うぅ……穴があったら入りたい……」
「まぁまぁ。たまにはそういう隙を見せるのもいいんじゃない? もっとも、私はみんなとはもう少し違う方向で心配しているんだけどね」
エレナの声のトーンが落ち、真面目な雰囲気に変わる。
「私には、演算の起動に失敗したというよりも、演算の使用を躊躇ったように見えたのよね」
「それは……」
「どちらかと言えば、あなたは演算を積極的に使う方でしょう? だから妙に気になってね」
エレナの言葉に、梓は視線を落とす。
「……先生のおっしゃる通りです。演算を使うのが、今、すごく怖いんです」
「怖い?」
「はい。わたしの行動が、大切な人を傷つけたから……」
その言葉を皮切りに、梓は一連の事を――守秘義務に違反しない範囲で――語った。
あふれ出した言葉は止まらず、梓は話し終わった時、思わず大きく息を吐いていた。
「……ねぇ、進上さん」
そう呼びかけながらベッドに腰掛けたエレナが、そっと梓の肩を抱いた。
「演算は、都合良く願いを叶えてくれるものじゃないわ」
それは、梓にとっては厳しい言葉だった。エレナは、優しく撫でるように梓の肩を叩く。
「誰かを傷つける事もあるし、大きな失敗をする事もある。それは避けられない事よ」
「やっぱり……そうなんですね……」
「ええ。でも、それは普通に生きていたって同じでしょう?」
「え?」
梓が驚きに顔を上げると、苦笑いを浮かべたエレナと目があった。
「演算を使ってると、なんだか忘れる人が多いみたいなんだけど……誰かとぶつかって傷つけたり、自分が傷ついたり……そんな事、当たり前にある事じゃない」
そうでしょう? と問われて、梓は小さく頷いた。
「だからね、大事なのは、常に追い求めていく事だと思うの」
「追い求めていく……?」
「そう。理想はね、あなたの中にあるの。演算は、その実現を手伝ってくれるだけ」
エレナは、梓の髪をすくように、頭をそっと撫でる。
「確かに、あなたは大切な人を傷つけたのかもしれない。けれど、人を助けてもいる。彼らは、そう思っているんじゃないかしら?」
「彼ら……?」
エレナの指が示す方に視線をやってみると……
「えっ……」
何人もの生徒が、扉の隙間から保健室をのぞき込んでいた。梓が気づいたとみるや、バタバタと保健室に入ってきて、あっという間に囲まれてしまった。
「進上先輩、大丈夫ですか?」
「倒れたって聞いて……」
「あのあの、何か飲み物とか……」
十数人にいっぺんに話しかけられて、梓は視線をあちこちさまよわせる。
彼らの顔に、梓は見覚えがあった。上級生から下級生、運動部に文化部、委員会など所属は様々だが、全員、梓が手助けした事のある生徒達だ。しかもここにいるのはあくまで有志らしく、梓の無事をメールで知らせたら、即座に返信があったという声があがっていた。
「あなたのやった事は、誰かに感謝されてもいる。それは、忘れたらいけない事よ」
エレナの呟きに、梓は小さく頷いた。ぐっとあふれてくるものを堪え、顔を上げる。
「ご心配をおかけしました。もう大丈夫です」
梓の言葉に、歓声が上がる。
そんな状況が気恥ずかしく、どうしたものかと思っていると――人垣の向こうに、いつもと変わらず悠然と車いすに腰掛ける姿を見つけた。
視線が合った瞬間、その顔に安堵の色が浮かんだのは、梓の思い込みだろうか。
エルデがふいと視線を外し、車いすの車輪が回る。
それはほんの数秒のお見舞いだったが――とても嬉しかった。
「……声をかけなくてよろしいのですか?」
ネイの問いかけに、エルデは、「ええ」と簡潔に答えた。視線が合った瞬間の、梓の不安と怯えをない交ぜにした表情が、頭から離れない。
「あの子には、演算を何のために使うのか、きちんと考える時間が必要よ」
周囲の反応に一喜一憂しているだけでは、ダメなのだ。期待を力に変える事と、流される事は違う。
「あの子は、良くも悪くも周囲に影響され、影響する。だからこそ、どんな結果でも受け止めて前に進む、確固たる意思を持たないといけない。そうでなければ、人から否定された時、あの子は自ら演算を封じてしまう。そんなあの子を、私は見たくない」
それは、エルデの心から自然と漏れた言葉だった。
梓の笑顔は、人を惹きつける。そうして梓の周りには、人が増えていく。
しかし、その輪が広がっていけばいくほど、梓から本来の笑顔が失われていっている――エルデには、そう思えてならなかった。
一年前、梓と初めて出動し、エルデが子供を救出した時。梓が浮かべた笑顔には、期待と憧れと興奮と夢が、すべて詰まっていた。
エルデは、そんな笑顔を自分が向けられている事に不思議と喜びを感じた。そのあまりのまぶしさに目を細めずにはいられなかった。
(あの笑顔は、梓が、純粋に自分のために浮かべたものだったのかもしれないわね)
周りに人が増えれば増えるほど、梓の笑顔は、エルデの記憶に刻み込まれたものから遠ざかっている――そんな気がしてならないのだ。
「……珍しいですね」
ネイの驚きを含んだ声に、エルデはやや失言をしていた事に気づいた。
「そうね……今回の事は、私も少し堪えたみたいね」
エルデは、早朝、寮からこっそりと登校していく梓を見かけていた。活力に満ち、胸を張って歩く普段の梓とは真逆の、憔悴し疲れ切った姿に、胸が詰まるような思いだった。
「……やはり、お休みになられた方がよろしいのでは?」
「大丈夫よ。少しは寝られたから」
非難の気配をエルデは受け流す。実際は、神経が高ぶって休めるような状態ではなかった。
(今朝から、ずっと演算領域がざわついている……月也の推測が正しい、という事?)
ひとみが阻止した〝事件〟は、まだ終わっていない――月也は、そう言外に含めていた。
何をするつもりなのかは、分からない。だが、間違いなく都市にとっての脅威だろう。
今も魔人館では、確保した実行犯の尋問が行われているはずだ。そこから何か掴めるか、それともそれより早く次の事件が起こるか。
(……どちらにしても、立ち向かうのが、私の役目)
どんな危険からも逃げず。
どんな脅威にも退かない。
都市を守る者として立ち続ける事が、エルデが自らに課した責務。
(私は、魔人なのだから)
表情を動かさないまま、エルデは自らの動かない足の上で強く拳を握りしめていた。
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