[3]

 梓が走り去った後、エルデは重苦しい雰囲気を引きずりながら、ひとみの病室へ戻った。

 館長が向けてくる渋い表情を黙殺し、ひとみの規則正しい呼吸音と、医療機器の駆動音だけが示す時間の進みに、身を委ねる。

 そんな沈黙を破ったのは、規則的な振動音だった。

 ネイが携帯電話を差し出してきた。表示された名前を見て、エルデは通話ボタンを押す。

「首尾は?」

『……なんかもう何度目になるか分からないけどさ、やっぱり『もしもし』くらいは言った方がいいんじゃない?』

 電話の向こうで、月也が呆れ混じりの笑みをこぼす。

「単独犯だと考えにくい以上、悠長にしている時間はない。分かっているでしょう?」

『まぁ、確かにそうだけどね……それで、報告だけど』

 エルデは、素早くハンズフリーの機能をオンにする。

『とりあえず、発光器にされていた妙な細工は全部直したよ。この辺りの演算運用には影響ない。けど、やっぱりオーバーホールはした方がいいだろうね。これから戻って、書類作るつもり。明日の昼には、代替機の設置ができると思うよ』

「そう……それで?」

『目的は不明だね。いや、細工としては演算光の出力をいじくっていたんだけど、どうにも稚拙で、少し下げる程度の効果しかないんだ。これじゃ事故も起こせない。そもそもあの辺りにあるのは衣料品の倉庫だからね、流通管理の目を誤魔化してまでやる意味が無いと思うんだ』

 何がしたいんだろうね、と月也は不可解そうに言う。

 エルデは、少しだけ沈黙してから、問う。

「あなたが見逃した可能性は」

『……それ、お願いだから僕以外に言わないでよ。みんな頑固な職人なんだから』

「プライドで都市が守れるならそうする」

『君は本当に手加減を知らないなぁ……。はっきり言えば、可能性は十分にある』

 月也は、普段のどこか柔らかい雰囲気をぬぐい去り、力強く言い切った。

『でも、僕はダミーじゃないかと睨んでるよ』

「根拠は?」

『言っただろう。流通管理の目を誤魔化してまでやる意味が無い細工なんだ。他に意図があると思うのは当然じゃないか』

「そうね……意図は解析できる?」

『現物を分解していいなら……可能性はあるかな』

「分かった。許可しよう」

 それまで黙って話を聞いていた館長が、唐突にそう告げた。

『……え?』

「月也。すぐに動いて」

『いや、ちょっと。今の声、誰?』

「館長よ」

『なっ……!?』

「急ぎなさい」

 そう言って、エルデは通話を切った。ネイに携帯電話を渡すと、なにやら気むずかしそうな顔をしている館長と目が合った。

「……何か?」

「いや……本当にお前は、容赦がないなと思ってな」

「……電話の話ではなさそうね」

「ああ。進上の事だ」

 一瞬、エルデは息を呑み……しかし、すぐに心を落ち着ける。

「見て来たように言うわね」

「見てはいない。だが、お前の顔を見れば、大体の想像はつく」

 館長は、ちらりとひとみに視線をやってから、パイプイスを引き寄せ、腰を下ろす。背中を丸め、エルデを下から見据えてくる。

「樫見屋は、都市を守った。確かに無謀な行動だったが……自らの出来うる範囲で、最大限の成果を上げた。誰が敵で誰が味方かも分からない中で、被害を最小限に抑えるため、たった一人で戦った。犯人を逃がしはしたが、それ以上の行動を抑止した。そして、それだけで力尽きず、信頼できる者に事後を託すまで、決して自分の意識を手放そうとはしなかった。それは樫見屋の戦果だ。それが分かっているからこそ、お前は、私に直接連絡を取ってきたのだろう? ならば、それを助けた進上の行動は、一方的に責められるようなものではない」

「……けど、誰かが指摘しなければならない事よ」

 エルデは、館長の視線を真っ向から受け止めながら、はっきりと反論する。

「自分の信念を貫くならば、痛みを受け入れる覚悟を持たなければならない。それが力を振るう責任だと。そう教えてくれたのは、あなたよ」

「そうだ。覚悟を持たない力は、自分だけでなく、周りも不幸にする。例えその自覚が無くとも、必ず不幸を招く。お前は、それをよく知ってる。だからこそ、樫見屋や進上の行動を許せない。なぜなら、自分の過去を、あの二人に重ねているから……違うか?」

「それ……は……」

 痛みすら感じるほどに握り混んだ拳に、じわりと汗がにじむ。

 体が熱い。ずきりずきりと心臓が痛いほどに鼓動を打っている。

 エルデの脳裏に蘇る炎。

 それは、エルデの内側に封じられた――エルデ自身を絡め取る鎖だった。


●       ●       ●


 小学校への進学記念に、両親に連れて行ってもらった旅行。

 普段、忙しい両親との時間を満喫したエルデは、心いっぱいの喜びと同時に、楽しい時間が終わってしまう寂しさを抱えながら、帰りの飛行機の中で眠りについていた。

 起きたらきっともう朝で、楽しい時間は終わったのだと、噛みしめて――それから、両親とおはようと挨拶を交わす。

 そう思っていたエルデが、目覚めて最初に感じたのは――両足を襲う強烈な痛みだった。

 声も出せない混乱の中、がらがらと音を立てて何かの塊が落ち、火の粉がぶわりと舞ってエルデの顔に吹きかかる。

 痛みと熱さ。

 エルデは、意識を占める苦痛から助け出してくれる存在を求めて叫ぶ。手を伸ばす。

 しかし、誰も来てくれない。この世で一番信じている両親の姿も、声も、側には無い。

 燃える音。苦痛の声。痛み。熱さ。恐怖。

 むき出しの感覚が、エルデの意識の底にどろりと流れ込んでくる。

 もうろうとした意識の中、エルデの半開きの唇が、小さく動く。

 ――死にたくない。

 そして、エルデの意識は一気に弾け、次の瞬間、巻き戻るように収束。

 気づくと、エルデは自らの足で立っていた。まるで重力から解き放たれたように体が軽い。

 そして、腕の中には、傷だらけでぐったりをした自らの体があった。

 何か起こったのか、エルデは正確に理解したわけではない。ただ、心の中にある思いだけは、明確に意識の内に根を張っていた。

 ――死にたくない。

 それは心の奥の奥から漏れてきた、純粋な思い。エルデがエルデとして発したものではなく……生物そのものが持つ、何よりも強く純粋な自己保全。

(行かないと……)

 心の中にわき上がった思いに従い、エルデは地を蹴って闇空の中へ飛び立った。


●       ●       ●


 急激に顔色を悪くしたエルデに休息を命じた館長は、エルデ達の気配が完全に去ってから病室を後にした。

 音も立てずドアが閉まる。最低限の照明に落とされた廊下は、病室に比べてやや薄暗い。

 だから、すぐ側に人の気配を感じて視線を向けても、一瞬、それが誰だか分からなかった。

 いや、正確には、本当にその人物がいると信じられなかった。

「市長……なぜこのような所に?」

「演算テロの話を直接聞ければと思って来たのだけど……まだ意識が戻っていないのね」

 気まずそうな市長の告白に、館長は、自身の醜態を知られたのだと察した。

「情けない限りです……かえって悪影響を与えてしまいました」

「そうね……あの子、私がいる事にも気づいていないみたいだった」

 館長は、衝撃を隠せなかった。そこまでエルデを追い詰めてしまった己の無力さが、苦みとなって胸の中で渦巻く。

「もう、十二年になるのかしらね。あの事故から」

「……はい」

 館長は、かろうじて声の震えを抑えて首肯した。

 都市郊外の無人区画で、着陸態勢に入っていた飛行機が墜落した事故。そこでは魔人館賦活課の課長職に就いていた館長が、対策と救助の陣頭指揮をとった。

 乗客の生存が絶望視される中で、唯一見つかった生存者が、エルデだった。

 だが、賦活課は、誰一人として助けていない。魔人として覚醒し、演算体を手に入れたエルデは、自らの手で自身を救出したのだ。

「私は、エルデを歪めてしまいました。私の言葉が、エルデに贖罪という動機を与えてしまった。なぜ、あのような言葉をかけてしまったのか……未だにそう自問せずにはいられません」

 当時の記憶は、館長の中に鮮明に根付いている。

 誰一人助けられず、両親すら見捨てて、逃げるように助かってしまった――己を責めているエルデの、自らを切り刻むような言葉は、忘れようとしても忘れられない。

 そんなエルデを見ていられず――否、見ている事に耐えられず、館長は言ったのだ。

 ――君の演算を、都市のために役立てて欲しい。都市と人を守って欲しい。君は逃げたんじゃない。君は生きるために演算を手に入れたんだ。だから、これからこそ逃げたらいけない。

 それは、当時の彼が苦悩に苦悩を重ねた上で、確かにエルデのためにかけた言葉だった。

 しかし、結果的にエルデは、〝都市のため〟という贖罪を自らに課した。そのために演算を使う事でしか、自身を肯定できなくなってしまった。

 私は魔人だから――そう繰り返し口にするのは、他に自身を肯定する術を知らないからだ。

「悪いけれど、私に言える事は、何も無いわ」

 市長はやんわりと、館長との距離を置いてきた。

 館長は、はっとなって「失礼しました」と頭を下げた。

 何かを変えたいならば、行動する。それが演算都市のあり方だ。

「ただ、あの子を見ていて……いえ、今の都市を見ていて、思うところはあるわね」

 館長が己の不明に恥じ入る前に、市長は押し殺したような苦々しさを打ち明けてきた。

「今の都市では、演算が人より優位に立つための手段、道具でしかなくなっている……でも、誰も疑問に思わない。それは競争とは違うわ。演算は、人と人の理解を助け、理想を共に追求していくためのもの。今のままでは、国と変わらず産業と利益の視点しか残らない……そんな気がしてならない」

 憂いを帯びた口調には、これからの都市の行く末を案じる強い気持ちが表れていた。館長もまた、同じ理想を追う者だ。市長の気持ちは、痛いほど理解できる。

 まるで遅効性の毒のように、安易な現実が演算を蝕んでいる。理想を現実に近づけるのが演算であるはずなのに、現実のために利用しようとする動きが、徐々に加速を始めているのだ。

 未だ下準備の段階とはいえ、国が都市を独立商政特区に指定しようと動き出したのも、破綻寸前にまで追い詰められた財政や、低迷し続ける経済、空洞化する産業基盤などの諸問題を打破する起死回生の手段として、演算を欲しているからに他ならない。

「でも、理想を示せていない、私達にも問題があると思うの」

「それは……」

 否定しようとして、館長は口をつぐんだ。市長が、ゆっくりと首を横に振ったのだ。

「演算を性急に確立させようとして、大事な部分を置き去りにしていたのかもしれない。だから、今、演算が何なのか……その理想を、きちんと示したいと思うの」

「まさか……あの話を受けるつもりですか……?」

「ええ。危険があるのは分かってる。けれど、国の庇護から離れて、改めて、自分達がどうしていくべきか……それを、都市に住む人々それぞれが考えるきっかけにしたい」

 市長の強い思いがこもった言葉に、館長は悩みながらも「賛成できません」と言い切った。

「相手は博覧会の開催時期を狙ってきました。期限こそ来ていませんが、今受ければ、どんな譲歩を迫られるか分かりません。それに、複数の職員から、博覧会の期間中に演算領域で不穏な気配を感じたという報告もあります。その上、このテロ未遂……表立ってはいませんが、何か不穏な動きが起こっています。既に時機を逸したと考えるべきです」

「でも、そういう時期だからこそ、こちらが動けば……相手も、派手に動かざるを得ない。違うかしら? そのための上等な釣り餌もある」

 市長が言外に含んだ意味に、館長はすぐに気づいた。だが、諫める言葉は、市長の力強い瞳に抑え込まれ、ついには口から出てこなかった。

(……まったく、相変わらず、我が身の危険を顧みない人だ)

 内心でため息をつきながら、館長は都市にとって最善の策に、思考を巡らし始めていた。



 時折吹く風が、不快に火照った体をゆっくりと冷ましていく。

 病院を後にしたエルデが向かっているのは、自室がある寮。

 状況の進展があるまで休め――という館長の命令で、病室を追い出されてしまったのだ。

(……無理もない。きっとひどい顔をしていたわね)

 ここ数年、まったく思い出さなくなった――しかし、決して忘れられない記憶だ。

 飛行機の墜落事故で、エルデが唯一の生存者となった日。

 それは同時に、演算体という新たな肉体を手に入れ、魔人として産声を上げた日でもある。

 被害者全員の〝死にたくない〟という思いと、都市と演算によって、エルデは生かされた。

(無自覚の力は、自分も他人も不幸にする……そうよ、私はそれを誰よりもよく知っている)

 エルデは、唯一の生存者だ。他の誰も助ける事なく、一人で生き延びた。

 演算を使う度に、エルデは背負った死の恐怖を思い出す。エルデにとって、演算体は死の象徴であり、同時に生きる手段だった。

 演算を失う事は、死から逃れる術を失うという事。

 だからこそ、エルデは演算体を持ち続けなければならない。都市を守る者としてあり続けなければならない。例え何を犠牲にし、誰を傷つけても。

(私の気も知らないで……)

 息も絶え絶えのひとみを抱き留めたのは、誰だと思っているのか。

 後事を託す誇らしげな顔を直に見たのは、誰だと思っているのか。

 過程など関係無い。ひとみの生存をどれだけ喜びたかったか。その手助けをした梓をどれだけ褒めたかったか。

 だが、都市を守るための存在であるエルデに、そうした甘さは許されないのだ。

「お嬢様、風が障ります」

 その言葉に、エルデの思索は止められた。ふわりと毛布が掛けられる。

 エルデは、毛布の端を整えるネイの横顔に、視線を向けた。普段なら無言でこなすのに、あえて声をかけてきた事――それがエルデを気遣っての事だとは分かる。

 しかし、ネイの表情に乏しい顔が、何かを堪えるような雰囲気をも含んでいる事に、エルデは気づいた。

「……ありがとう」

 エルデは、できるだけ力を込めないようにしながら、そっと呟いた。

 ネイが、わずかに目を見開いてそんなエルデを見ている。やがて、安堵か諦めか判断に迷う息を吐いたネイは、「お嬢様が」と堪えていた言葉を吐露し始める。

「お嬢様が、どれほど都市のために働いておられるか……それは、あなたの体に刻まれた傷が、物語っています」

 その言葉に、エルデは少なくない衝撃を受けた。

 それから、自分でも意図せず小さな笑みをこぼしてしまう。喜びなのか、珍しさによる興奮なのか……自分でも、よく分からなかった。

「…………初めてね。あなたが、私を認めるような事を口にしたのは」

 再び進み始めた車いすの上で、エルデは、わずかに顎を逸らして「慰めてくれるの?」とやや挑発気味に問う。

「覚えていらっしゃいますか? あなたが、私に言った言葉を」

「――謝罪はしない。私に、あなたの両親を助ける力は無かった。ただ、そのお陰で守れた命がある。私はこれからもそうやっていく。だから、私が憎いと思うなら、あなたが私を見張っていなさい。私が自分の信念を違えないように」

 余韻のような沈黙を挟んで、エルデは、小さく息をつく。

「途中のあなたの言葉を抜きにすれば、こうだったかしらね」

「はい。私よりも年下の、まだ小学生くらいの女の子が、被害者かと思うほどの痛々しい姿で現れて……そんな事を言ってきたんです。何を開き直っているんだ……という思いもありましたが、それ以上に、私は、圧倒されていました。この子は、この事故の被害者と遺族の思いを、全部背負っていくつもりなんだろうか、と。だから、憎いという気持ちももちろんありましたが、それだけではなくて、私の手で、一人でも多くの人を救わせたい、絶対に逃げさせてやらない、と思ったんです。そんな事を言うなら、両親の死を、絶対に無駄にはさせない、と」

「そうね……あなたのお陰で、私は、何かが起こった時、そのまま現場に向かう事ができるようになった。それまでは、魔人館に一度行かないと、無防備な体を置いておく事になるから」

 もちろん、それで都市の治安が劇的に良くなり、死傷者が急激に減った……というわけではない。エルデ一人ができる事には限界がある。

 しかし、早期の犯人逮捕や、早い段階での救助など、より多くの貢献が可能となった。それは、何を置いても、ネイがエルデの身の回りの世話をしてくれるお陰だ。

「本当に助かってるわ」

「いえ。助かっているのは……助けられたのは、私の方です」

 少しだけ、ネイの声が遠くなった。恐らく、視線を上げたのだろう。その口調には、わずかだが何かを懐かしむような響きが込められている。

「私は、お嬢様に救われました。もしあなたに声をかけられていなければ、私は、ただ両親の死を嘆き悲しみ、あなたを憎み続ける事しかできなかった。けれども、私は、今、あなたを手助けする事で、人を救う事ができている。両親を失った悲しみは忘れられませんが、それでも、両親の死が、誰かの命を助けているのだと……そう考える事もできるようになった」

「それは、あなたが強いからよ」

「そうかもしれません。でも、そうだとしたら、その強さは、お嬢様がくれたものです。私は、あなたが何を成してきたのかを、知っています」

「……そう」

 エルデは、充実感と寂しさと痛みとが渦巻く胸中を、その一言に含めた。

(……救われたのは、私の方よ、ネイ)

 八年前に起こった、タンカー衝突による倉庫街の大火災。今ほど演算が整っておらず、管制にミスが発生した事が原因だった。

 エルデは、魔人となってようやく独り立ちした時期だった。一人でも多くの人命を救助し、都市を守ろうと奮闘したが、死傷者は消防隊や魔人館職員を含めて数百人に及んだ。

 目の前で消えた命もある。ネイの両親がそうだった。他の救助を優先した結果、戻ってくるのがほんの少しだけ遅かった。

 全体を見れば、そんな事例は、いくつもあった。だが、エルデには、目の前で起こった出来事が、何よりも重かった。

 自分の未熟さに絶望し、逃げたくなった。だから、両親の亡骸にすがりつくネイに声をかけた。自分への楔として。

 そうして己を奮い立たせ、エルデは、今日までやってきたのだ。

「ありがとう、ネイ」

 一緒にいてくれて――伝わらないと分かっていながら、エルデは胸中でそう付け足した。

 ネイは、ただ無言でいつも通り、車いすを押している。

 そっと、エルデは視線を上に向ける。

 何となくだが――同じものを共有しているような気がした。

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