[2]

 お昼まで保健室で休み、午後の授業をきちんと受けた梓は、ひとみが目を覚ましたという連絡を受けて、病院へ足を運んでいた。

 静かな廊下を進み、ひとみの病室の前で足を止める。

 ノックをしようとした直後、手が動かなくなった。中から話し声が聞こえてきたのだ。

(エルデ先輩……)

 会話の内容までは分からないが、中にいるのは、ひとみとエルデで間違いない。

 放課後、念のためにと保健室に寄っていた梓よりも、一足早く到着していたのだ。

(……少し時間潰してこよう)

 逡巡してから、梓はそっと扉から離れる。

「梓先輩、どうしたんですか?」

 だが、中から呼びかけられてしまい、梓は思わず天を仰いだ。

 一瞬、そのまま知らんぷりで立ち去ろうかとも思ったが、再び中から「見えてますよー早く入ってきたらどうですかー?」と声をかけられてしまった。

 梓は、諦めとともに扉を開けた。

「お疲れ様です、梓先輩」

 ベッドの上で身体を起こしたひとみの声は、思ったよりも元気だった。まだ頭や入院着の袖下には包帯が巻かれているが、顔色はだいぶ良くなっている。

「もう起きて大丈夫なの……?」

「ええ。見た目は大けがですけど、思ったほど深刻ではないそうです。まぁ、ちょっと演算を控えるように言われちゃって。視点数が少ないから、見え方が微妙なところですけど。でも、それも怪我が治るまでの辛抱ですし。ご心配をおかけしました」

「ううん。ひとみが無事で良かった。もうあんな無茶、絶対にしないでよ」

「はい。さすがに反省してます」

 ぺこりと素直に頭を下げるひとみだったが、顔を上げると、ふと不思議そうに首を傾げた。

「ところで梓先輩、なんでこっち来ないんですか?」

「あ、えっと……」

 ちらりと、視線をベッドの脇に向ける。そこには、エルデとネイがいた。

「……何かあったんですか?」

 梓とエルデの間に漂う空気に、ひとみが首を傾げたままわずかに眉間にしわを寄せた。

 梓が思わず視線を逸らすと、ひとみは「……ふむ」と顎に指を添える。

「……ぐす」

 静寂の中に響いたその声が意味するところを、梓は、一瞬、理解できなかった。

「……は?」

 そんな間抜けな声を出して、声を発したひとみへと視線を戻す。

「え……?」

 ひとみが、泣いていた。小さな肩を儚げに震わせ、目元にやった手で涙を拭いながら、声を抑えるようにしゃくり上げている。

「ちょ、ひ、ひとみ!?」

 跳び上がるほどに驚いた梓は、思わずベッドの横に駆け寄った。

「な、ど、ど、どうしたのよ、いきなり……!? え、あ、なに、傷が痛むの!?」

「ちが……ふえ、ますぅ……ぐす……」

 ひとみはふるふると首を横に振る。

「ふたりが……ケンカ、ぐす、してる、から……」

「え、ちょ、そんな事……いや、別にケンカしてるとかそういうわけじゃ!? ですよね!?」

 思わず助け船を求めると、エルデは「どうかしらね」と重々しく呟いた。

「やっぱりそうなんだ……!」

 わっ、と火がついたように声を大きくして泣くひとみに、梓は「ああ、ちょ、どうしたら……どうすれば……」となだめる事もできず、ひたすらおろおろとしてしまう。

「謝って、ください……! 梓先輩が、悪いに、決まって、るん、ですぅ」

 泣きながらつっかえつっかえひとみが訴えてくる。

 反射的に謝ろうとして、ふと何かが引っかかった。

「……」

 じっとひとみの様子を見てから、梓はすっと目を細めた。

「あんた……嘘泣きでしょ?」

 抑揚を殺した問いかけに、沈黙が降りた。

 ひとみが、ふっと顔を上げる。

「バレちゃいましたか」

 ひとみは小さく鼻をすすり目元をこすった。

「おかしいなぁ……なし崩し的に謝らせて、仲直りさせられると思ったのに」

 ひとみは小さく首を傾げる。梓は唇が引きつるのを隠せなかった。こめかみがぴくぴくと震えているのが、触らずとも分かる。

「どういうつもりよ、あんた……?」

「いや、別に他意はないですよ。事情はよく分かりませんけど、どうせお互いに引っ込みつかなくなったんでしょうし、そういう時はまず間違いなく梓先輩が原因ですから、とっとと謝って気まずい空気は無くして欲しいな、と」

「なんでわたしだって決めつけるわけ!?」

「そりゃ、エルデ先輩の方が大人ですもん」

 疑問を差し挟む余地もない、とその真顔が語っていた。さすがにそれには反論できなかったが、このまま言われっぱなしでなるものかと、梓は半ば意地で口を開く。

「あんた、ホントにわたしのこと好きなの……?」

「もちろんです」

 ひとみは、先ほどと同じ真顔で、しかも今度は胸を張って堂々と言いはなった。

「好きな子ほど、イジワルしたくなるじゃないですか。あたし、梓先輩以外には、こんな子じゃないですよ?」

「全然嬉しくないわ!」

「なんで理解してもらえないんでしょうねぇ……まぁ、でも、今はそれはいいんです。それより、ほら、早く謝っちゃって下さいよ。さっきからエルデ先輩が待ちかねてますよ」

「断る!」

「そんな子どもみたいな……」

 はぁ、とため息をつかれた。梓は本気でこいつどうにかしてやろうか、と殺意のこもった視線で睨みつけてやったが、ひとみはわざとらしくにこりと笑みを浮かべた。

「ひとみ、そろそろやめておきなさい」

 呆れたような声でエルデが間に入ってきた途端、ひとみは「はーい」とまるで小学生のような態度で口を閉じ、表情を引き締めた。それがまたやけに面白く無い。

「今回の事、悪いのは私よ。言い過ぎたわ。ごめんなさい」

 エルデが、噛みしめるような声で言い、深々と頭を下げた。

 梓は一瞬息を呑み、「え、あ、いや、その、だ、大丈夫ですから!」と口走ってしまった。

「えっと、だから、その、わたしも、その言い過ぎましたし……その、ごめんなさいっ!」

 勢いのままがばりと頭を下げる。

 しばらくそのままでいると、「ぷっ」と笑いが降ってきた。

「あはははははははは、二人してずっと頭さげてて……あはは」

「ちょ、笑う事ないでしょ!?」

「いや、だって、端から見てるとすごく間の抜けた光景ですよ?」

「間の抜けたとか言うな!」

 梓は、今度こそ勘弁なるか、と素早くひとみの両頬を掴んだ。

「けが人だと思って人が優しくしてれば……!」

 うりうりと引っ張ると、ひとみがなにやら抗議めいた言葉を向けてくるが、何を言っているかはまったく分からなかった。



 エルデは、梓とひとみのじゃれ合いをほどよいところで止め、長居するのはよくないと梓を促して一緒に病室を後にした。

 そのまま並んで廊下を歩き、特に会話も無いまま病院の外に出た。

(……本当に、ひとみはすごいわね)

 エルデは、改めて感嘆の念を覚えずにはいられなかった。

 例えば、今、エルデが、どこかでお茶をしていこう――とでも誘えば、梓は宿題の量とか、夕飯の買い物とか、そういう用事と秤にかけて、きっと頷くだろう。

 それは、慣れ親しんだいつもの空気だ。

 問題は何も解決していないのに、なぜか前に進んでいる気がした。たぶん梓も同じように感じているだろう。

 隣には、穏やかな表情で歩く梓の姿がある。その事に、安堵の気持ちが広がる。

「お嬢様」

 ふと、ネイが声をかけてきた。同時に差し出される携帯電話を、エルデは手に取る。表示には、『館長』とあった。

「エルデよ」

『魔人館まで何分だ?』

 前置きもない問いかけ。重く渋い声は、緊張に強ばっていた。

「十二、三分といったところね。正確な時間が必要?」

 答えながら、エルデはわずかに表情を厳しくする。

『いや。すぐに来て欲しい』

「何があったの?」

『……聖人という言葉に、心当たりはあるか?』

「聖人? 都市伝説の?」

『……いや、いい。来たら話す』

 館長との通話は、それで切れた。

 電話を畳んだエルデは、ネイにタクシー乗り場へ向かうように告げた。

「あの、エルデ先輩、聖人って……?」

 並んで歩く梓が、どこか緊張を孕んだ表情で問いかけてくる。

「私にもよく分からないわ。館長が言っただけで……あなた、まさか何か知ってるの?」

 それは、まさに思いつきとしか言いようがない問いかけだった。梓の態度に、焦りのようなものが混ざっている気がしたのだ。

「……」

 顔を強ばらせ口をつぐむ梓。

「梓」

 威圧的にならぬよう、しかし甘えを許さぬ声音で、エルデは大切な後輩の名を呼んだ。

「……三上涼人という人物が、その名を口にした、と思います」

「はっきりしないわね」

「独り言のようなものが、そう聞こえたかも、という程度なので……」

「分かったわ。私は魔人館に向かう。あなたは……連絡がすぐに着くようにしていて」

「分かりました」

 固い声で頷く梓の足が止まる。

 背中に向けられた梓の視線を感じながら、エルデはそれを意識から追い出す。

 頭の内側を撫でるような演算領域のざわつきが、いつの間にかより鮮明になっていた。


◆       ◆       ◆


 とある週刊雑誌が、その日、瞬く間に都市中で売り切れとなった。

 スキャンダルやうわさ話などを、おもしろおかしく書き連ねる、いわゆる三流ゴシップ誌だ。だがその書き筋に根強いファンは多く、それなりに人気のある雑誌である。

 異例の増刷対応となったその号の見出しは、こうだ。

『演算都市 国と決別か!? 演度による市民選別の可能性も』

 曰く、かわはし市が一つの国として独立する〝らしい〟。その際、演度の高い者に優先的に国籍を与え、演算で国を運営する方針の〝ようだ〟。また、発売の数日前にある区画で起こった演算の短期的な不調は、その選別のため〝と考えられる〟――そう執筆者は述べている。

 内容はほぼすべて推測であり、具体的な根拠や例示は一つもない。

 だが、演算の不調に遭った住人の間で、不安がじわじわと広がりつつあるのは事実だった。

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