[3]

 雲一つ無く晴れた午後は、日差しが適度に降り注ぎ、時折吹く風が優しく肌を撫でていく。

 だが、学校のテニスコートへ向かうエルデの機嫌は、お世辞にもいいとは言えなかった。

「まだ博覧会の事後処理が終わっていないのに、あの子は……」

 エルデが、なかなか校門に来ない梓を教室へ呼びに行くと、すでにその姿はなく、テニスコートに向かったという話が聞けただけだった。

「もう泊まり込む必要は無くても、仕事は山ほどあるっていうのに」

 トントンと肘掛けを叩いて、テニスコートへの到着を待つ。

 やがて、テニスボールを打ち合う音が聞こえてきた。フェンスの側で、車いすが止まる。

 ジャージ姿の梓が、ユニフォーム姿の女子生徒と軽快なラリーをしていた。審判が席に座り、得点ボードが出ているので、練習試合だろう。

(四十対十五……梓が優勢ね)

 順当な結果だと思ったが、ゲームカウントが接戦を示していた。

 エルデは眉をひそめ、梓の動きに集中する。エルデの疑念は、時を経る毎に確信へと近づいていき、梓の勝利でゲームが終わった時には、揺るぎないものになっていた。

「ネイ」

「はい」

 ネイが、車いすをテニスコートの裏手にある水飲み場へと進める。

 テニス部員達と話していた梓を待っていると、コートから出てきた梓は、一瞬、驚きの表情をしてから、慌てたように「すぐに着替えてきます」と言って更衣室に向かおうとする。

「待ちなさい」

 エルデの制止に、梓は気まずそうな表情で肩を丸める。

「えっと……その、本当にすみません……テニス部、公式戦が近くて……それであの子、結構強くて上の方目指してて……どうしてもこの時期に、部員同士じゃなくて、外の人間と打ち合っておきたいって、強く頼まれちゃって……」

「手を抜いたわけじゃないわね?」

 最後まで聞かずに鋭く問うと、梓が息を呑んだ。

「あのテニス部の子は、演度二の上の方。それでも外に出れば、全国レベルは堅いわね」

 外の大会で演算は使えないが、鍛えられた思考力や感覚は、本人に蓄積された経験だ。それは高度なトレーニングと同等の効果をもたらす。

「でも、身体操作能力の向上を基本演算として持ち、魔人館賦活課に所属する演度四のあなたが、経験者とはいえ演度二と互角?」

 あり得ない、とエルデは首を振る。

 今の試合が指導的な意味を持つなら、それ相応のゲーム運びとして動きに現れたはずだ。

「答えなさい。何のために演算領域を使ってるの? 誰と《演助契約》をしたの?」

 エルデの詰問に、梓が息を呑んだ。

 まるで呼吸の仕方を忘れたように酸素を求めて唇を震わせている。思い出したように喉を鳴らしてから、梓は声を絞り出す。

「な、なんで……」

「他に理由がない」

 エルデは、一言で梓の疑問を切って捨てた。

 演助契約とは、ある人物が、対象者の演算を専属的に補助する事だ。この場合、対象者の演度を越える演算の処理を、梓が肩代わりする形になる。

 ただし、梓は意識の一部に対象者専用の領域を作る事になるため、自身の演算に対する処理能力は低下してしまう。

 つまり、演度が下がるのだ。

 梓の現状は、演度四から二つ下がって、演度二。よほど精神の安定を欠くか、脳にひどい損傷を負わない限り、そこまで急激に演度が下がる事はない。

「答えなさい」

 再び強く促すと、梓は、ぽつりと「ひとみです」と白状した。

「ひとみに、もっと高い演度の世界を見て欲しいと思って、演助契約をしました」

「それで、自分の演度を削ったの?」

「そうです」

 エルデは激しい頭痛を覚えた気がして、思わずこめかみを押さえた。

「ひとみにあれより上は、まだ早いわ」

「そんな事はないはずです。ひとみは演度四の演算をきちんと使っています。あの子はもっと上に行けます」

「ずいぶんとあの子を買ってるわね……ひょっとして、魔人になれると思ってたりするの?」

 やや躊躇いつつも、梓はしっかりと頷いた。だが、エルデは「無理よ」と突き放す。

「あの子は、遅くても四年で演度六に届くと思うわ。けど、それ以上は無い」

「な、なんで言い切れるんですか……!?」

「私が魔人だからよ」

 エルデは、一瞬の遅滞もなく言い切った。梓が言葉を失う。

「でも、はっきり言えば、それでいいと思ってる。魔人になるだけが演算の行き着く場所じゃない。むしろ、行き着くというなら、梓、あなたの方が、魔人になる可能性がある」

「なっ……!?」

「信じようが信じまいが勝手よ。ただ、どちらにしてもあなたの行動は、間違ってる」

「で、でも! ひとみは苦しんでたんです! 守るべき人を危険にさらしたって。自分の意思を自分が裏切ったって……このままじゃいけないって! もっと強くなりたいって、本気で思ってるんです! それを手伝ってあげたいって思ったらいけないんですか!?」

「思うのは自由よ」

 端的な答えに、梓の顔が赤く染まる。だが、その熱はエルデの冷静さに、水滴一つ浮かばせられない。

「でも、あなたが本当に都市の治安を担う責任を理解しているなら、正しい判断ができたはず」

「間違っていたとは、思いません」

 梓は、絞り出すような声でそう反論してくる。エルデは「思うのは自由よ」と繰り返した。

「でも、現実は現実。目標と理想は違うと、理解しなさい」

「後輩を見捨てなくちゃならない現実なんて……そんなエルデ先輩の現実なんて、理解したくありませんッ!」

 梓は非難の叫びを上げて、更衣室へ駆けていってしまった。

 エルデは、耳に痛い静寂の中、息を吐いて背もたれに寄りかかった。

「私の現実……か」

 ちくりと胸に痛みが走る。しかし、エルデは、小さく首を振って自らの内にある弱気を追い出し、しっかりと背筋を伸ばした。

(そう。それが私の現実よ。私は魔人だもの。演算で理想を語ったりしない)

 梓の姿を追いかけるように、エルデはしばらくの間、更衣室の扉をじっと見据えていた。

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