[2]

 魔人館が保有する演算訓練室の一つで、梓はひとみと向き合っていた。

 四方を灰色の壁に囲まれ、床はリノリウムという無機質極まりない部屋だ。無駄な装飾を廃した分、高演度の演算手同士の戦闘訓練を想定した、高度な演算緩和技術が施されている。

 故にこそ――全力で戦う事ができる。

「――〝解を設定アンサーセット〟」

 梓の首もとに光が現れる。

 同時に梓はきゅっと音を立てて急制動。右腰に下げたオープン型ポシェットに手を伸ばす。

 都市謹製の平たく細長い金属板スローイングプレートを取り出す――と見せかけて鋭く床を蹴った。

「――〝式の完成フォーミュラ〟!」

 梓の手が届く寸前、ひとみの体が煽られたように吹き飛んだ。

 慌てて体を引き戻した梓は、床を蹴って横に跳んだ。

 ひとみが右の掌を大きく広げ、肩を視点に小さく回している。

「――〝式の完成フォーミュラ〟!」

 ひとみが、下投げのように腕を押し出した。梓の左肩と右太ももを強い衝撃が襲う。

「ぐっ……!?」

 演算が乱れた。ひとみが砲弾のように突進してくる。引き絞られた右手は、指を小さくまとめ、掌を大きく見せたもの――いわゆる掌底の形。

「〝式の完成フォーミュラ〟!!」

 梓が叫ぶと同時に、ひとみが掌を突き出してきた。

 腹部を狙った掌を、梓は右肩を引くと同時に勢いのついた左の掌でさばく。

 直後、梓は加速された意識の中で、床が陥没するのを見た。腹の底に衝突音が響き、弾力性のある床が一瞬で元に戻る。

 その間に梓は手首を返し、ひとみを投げ飛ばした。

「――ッ!」

 ひとみがその勢いを利用して体を起こす――寸前、梓はひとみの腕をひねり上げた。

「いたたたたたたた……!」

「降参は?」

「しますしますします! しますから離してください!!」

 ばしばしと反対の手で床を叩く姿を見て、梓は力を緩めた。

「ぷはぁっ!」

 梓の手を振り払うように、ひとみは床に寝転がった。肩をやんわりとさすっている。

 梓も体の力を抜き、隣に腰を下ろした。

「ずいぶんと素直な戦い方だったね」

「あー……まぁ」

 曖昧に頷くひとみの表情は気持ちが読みにくい。こんな時、梓は「目は口ほどにものを言う」という言葉を実感する。エルデに言わせれば、なら別の部分で読めばいい、という事だが。

「何か心変わりするような事でも――」

 あったの? と続けようとしたところで、梓の意識の中に、支援要請が送られてきた。

 梓は重要度だけを確認し、受領不可と返した。ひとみの伺うような気配に、「断ったから」と応える。

「……良かったんですか? 梓先輩が支援要請を断るの、あたし、初めて見ましたけど」

「重要度が高かったり、わたしでないといけないなら別だけど、今はひとみと話してるから」

「……本当に、梓先輩は、お人好しですね」

 呆れたように言われるが、梓は小さく肩をすくめるに留めた。

「それで? 何か心変わりするような事でもあったの?」

 ひとみは、人の視界やカメラの映像、地図上の動きなどから、人の考えや死角などを先読みして動く事を得意としている。相手の裏をかく戦い方が本来のスタイルなのだ。

 それなのに、先ほどのひとみからは、動きを読んで対処する以上の、そこから裏をかいて事を有利に進めようという意識は感じ取れなかった。

「心変わりっていうほどの事じゃないですけどね、っと」

 体を起こし、そっと膝を抱える。

「ちょっと、全力でぶつかったらどうなるかなぁ……って思ったんです。で、とりあえずぶつかってみたんですけど、思った通り、全然でした」

「全然って……ちょっと自信喪失しそうなくらい、ギリギリだったんだけど」

「またそういう軽口を……。自分でも分かってます。接近戦のイメージが全然できてない。だから、いつも通りの戦い方をしようとしてる。動きに無駄が多いんですよね。相手と距離があれば、それも牽制として使えるし、悪いわけじゃないんですけど、接近戦ができる自分を信じられないから、いつもの戦い方に頼ってしまう……そうですよね?」

「まぁ……」

 空気操作は、空気の動きを自ら作り出す必要がある。例えば、手を回して空気の流れを作り、指で押し出すようにして弾丸として飛ばす、といった具合だ。その動きは自然と意図を現してしまう。だからこそ、人とは異なった視点を持つひとみと相性がいいのだ。

「でも、ひとみにはそれが合ってるんだから、それでいいんじゃない? 十分すごいと思うよ。もしそれで不足だっていうなら、わたしみたいに飛び道具を持ってみるとか」

 梓が持つ金属板は、殺傷力の低い牽制用のものだ。しかし、演算による適切な身体操作から投擲された金属板は、当たろうと当たるまいと、相手の動きを制限するには十分だ。

 同じような事はひとみならそう難しくないだろうし、恐らく空気操作を主軸に鍛えたら、その高い演算能力は、遠隔操作に似た動かし方を可能とするだろう。

(……って、これ、そうなったらもう絶対に勝てない気がする)

 これ以上の武器を持たれたら、正直、どう対処したらいいか分からない。

「……梓先輩の思考は手軽でいいですね」

 はぁ、とひとみが大きくため息をつく。そのやけに沈んだ表情に、梓の中で瞬間的に膨らんだ怒りが、空気の抜けた風船のようにしぼんでいく。

「安全圏を確保して、堅実に対処する……そういうスタイルが合っているのは、分かってますし、そういう風に訓練してきたつもりです。このスタイルのまま強くなるのが一番だし、そうするためには、梓先輩の助言が正しいんだって……理屈では分かってるんですよ」

 膝に顎を押しつけ、独り言のように呟くひとみに、梓は「うん」と短く頷いて先を待つ。

「でも……あの日……気づいたら、あたしはあの炎を避けてました」

 拳を握り、それでも声に力が無いひとみが、まるで自らを傷つけるように、言葉を続ける。

「後ろに人がいるって、分かってたんです。忘れてたわけじゃないんです。でも、咄嗟の時、あたしは、避けてました。安全圏の確保に動いてたんです……守るべき人を置き去りにして」

 ひとみが語る失敗は、梓の胸にも痛かった。明らかにあれは梓の詰めの甘さが原因だ。しかし、そう言いたい気持ちをぐっと堪える。

「……ごめんなさい。こんな事言われても、困りますよね。分かってます。演算は、理想通りの自分になれるものじゃないって……」

 儚い望みをすべて乗せたように深く息を吐いたひとみは、そっと掌でまぶたを覆う。

 そんな痛々しいひとみの姿を見て、梓は「違う……」と首を振っていた。

「違うよ、ひとみ。それは、絶対に違う!」

 隣に座るひとみの肩に手を置き、真正面に膝をついた梓は、ひとみの驚きに息を呑んだ表情を見据えながら、ゆっくりと力を込めて言葉を紡ぐ。

「理想を追い求めたっていい……だって、演算って、そういうものだよ。こういう自分になりたいって、こういう事をしたいって……そういう思いが、演算になるんだから」

「梓先輩は……なれてるんですか? 理想の自分に」

「……ううん。まだ、それは遠いよ。でも、なりたい自分はある」

 梓は、ひとみが紡ごうとした言葉を飲み込んだ事に気づいた。少しだけ笑みがこぼれる。

「なに、今日はずいぶんと大人しいじゃない?」

「それは、その……梓先輩だって落ち込んでるのに……こ、これが気遣いってもんですっ」

 ひとみは、ぷいっとそっぽを向いてしまう。子供っぽい理屈をこねただけだと、自分でも分かっているのだろう。

「だ、だいたい、なんなんですか、その言い方は。人を笑顔にできる人なら、梓先輩はもうなれてるじゃないですか」

「そう言ってくれるのは嬉しいんだけど……まだまだ全然だよ」

 梓は、ひとみの優しさを嬉しく思いながらも、ゆっくりと首を振った。

「失敗して、迷惑かけて、傷つけて……わたしは、あの頃と何も変わってない。だから、まだまだ足りない。おじいちゃんとの約束を、きちんと果たさないといけないから」

「約束……?」

 梓は「うん」と頷いて、わずかに首を傾げるひとみの横に座り直した。

「わたし、おじいちゃんに合気道を習ってたんだけど……ちょっと今と違ってやんちゃでさ。いじめられてる男の子を助けようとして、相手の子達、投げ飛ばしちゃった事があるの」

「……今も大して変わらずやんちゃな気がしますが」

 ひとみの反論に、梓は「えっ?」と思わず声を上げてしまった。

「そ、そう? だいぶ大人しくなったんだけど……」

「それはもうやんちゃというより、完全に男勝りというか、男そのものというか……」

「え、えっと、まぁ、それは置いておいて」

 こほん、と咳払いをし、梓は話を元に戻す。

「いじめっ子はこらしめたんだけど、更に陰湿になっただけだった。わたしはずっと気づかなくて……いじめられてた子が転校した後にくれた手紙で、初めて知ったんだ。それなのに、その子、『助けてくれてありがとう、救われた』って……。すごく嬉しかった。自分がした事は、無駄じゃなかったんだって」

 今も梓はその手紙を大切にしている。幼い心が受けた衝撃と喜びは、決して忘れられない。

 だが、その手紙を読み終わって、何よりも強く感じたのは、もっと別の感情だった。

「けれど、それだけじゃなくて、すごくすごく悔しかった。悔しくてたまらなかった。涙も泣き声も、堪えられなかった」

 いつの間にか握っていた拳に、ひとみが手を添えてきた。わずかな震えが伝わってくる。

 梓はゆっくりと手を開き、安心させるようにひとみの手をそっと握る。

「そうしたら、おじいちゃんが飛んできてくれて……それでね、全部話して……わたしの頭を撫でながら、言ってくれたんだ」

「なんて……?」

 ひとみの呟きにも似た問いかけ。梓は祖父の言葉を思い出しながら、一字一句を自らに言い聞かせるように口にする。

「『人を守る事は難しい。いつだって不安で、それでも助けたい一心で寄り添うんだ。そうしてその人の笑顔を見て、やって良かったと思う……そういうものなんだよ。だから、その人の笑顔を想像して、守ろうとしなさい。人の笑顔を守れる人になりなさい』って」

「それが約束、ですか」

「うん。たぶん、これからもいっぱい後悔して、いっぱい不安に思って……それでも、わたしは、人の笑顔を守れる人になりたい。きっと、演算なら届くと思うから」

 梓が言い終えると、沈黙が降りた。ひとみが、考え込むように顔をつま先に向けている。

「……色々と考えさせられる話でしたけど。でも、あたしが後悔してる事に対して、何の慰めにもなってないですよね?」

「え? あれ? えっと、守るべき人がいたのに避けちゃったって話だから……あ、あれ?」

「やっぱり、どこまでいっても梓先輩は梓先輩ですね……」

 やれやれと首を振られてしまった。巻き返そうと頭を働かせるが、空回りするばかりだ。

「本当に……もう。沈んでるのがバカみたいじゃないですか。そんなまっすぐな話、聞いてるこっちの方が恥ずかしくなってきます」

「え、なにそれ? これ、結構、感動もんっていうか……むしろわたしの方が恥ずかしがる場面じゃないの!?」

「まぁ、梓先輩ですしねぇ……それより、練習、付き合って下さい」

「それよりとか、なんかひどくない!?」

「まぁまぁ。投擲のコツ、きちんと教えて下さいよ、梓先輩」

 にっこりと微笑まれ、梓は思わず文句の言葉を飲み込んでしまった。

 いつもからかわれているせいか、こう屈託の無い笑顔を向けられると、どういうわけか抵抗する気力を奪われ、押し負けてしまうのだ。

「分かったよ。まぁ、空気操作も応用すれば、ひとみならすぐにコツを掴めるはず――」

 そこまで言った瞬間、梓の脳裏にひらめくものがあった。

「梓先輩?」

 怪訝そうにするひとみに、梓は自信満々の笑みを向けた。

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