イデアの影は同質か?
「はぁぁ……美味ぇ……沁みるぅ……」
暑苦しい鎧のような法衣を脱いで肩にかけ、汗みどろなシャツを晒しながら。
これから家々の柱になる予定だろう丸太へ腰かけて、木の器に入ったスープを啜る。干しシイタケの出汁がよく利いた、シンプルで深みのある味。削り入れられた岩塩が細胞の隅々にまで塩っ気を行き渡らせ、無闇に水分と塩分を排出していた身体を潤していく。湯気立つ薄茶色のそれを口に含むごとに、もっともっとと涎が溢れてきた。
――――家が倒壊したという事件は、皮肉にも、作業にひとつの区切りを入れるのにお誂え向きだった。
メル曰く、わざと逃げ道が残されていた炎上。火の手を免れた家も多く、村人たちもどこか、家屋の残存について楽観視していたのだろう。……だからこそ、平気に見えた家が突如として崩壊したことへのショックは大きかったようだ。炊き出しの大鍋が構える教会からは離れた場所で、男たちが再建する家の数について額を突き合わせている。慣れた復興計画も、多少は変更を余儀なくされるかもしれない。
悪いとは思うが、俺はその点、てんで素人だ。
異世界の大人たちの議論に交じって、建設的な意見を出せる自信もない。なので今は、こうしておとなしく休憩を味わわせてもらっている。疲れた身体に、具の少ないスープは飲みやすくてむしろありがたかった。
「あ、あの……神父様」
「…………ん? あ、あぁ、俺か……どうした?」
気を抜いていた俺は遠く青い空をぼーっと眺めていて、だから呼ばれ慣れない役職名には咄嗟に反応できなかった。
視線をすぐ目の前へ戻すと、数人の子供たちが立っていた。……えらく砂埃にやられて汚れている。話しかけてきた最前列の男の子なんて、シャンプーの泡みたいに砂粒たちを髪に引っ付けていた。
さすがに放っておけず、スプーンを放った右手で彼の頭を払う。
……よく見ればこの子たち、さっき家の下敷きになりそうになっていた奴らか。それも正面のこの子、昨日の火事で母親を助けようとしていた子だ。……つくづく災難だな、こいつ。
「ひゃうっ。し、神父様、くすぐったいよ」
「ははっ、そりゃあ悪い悪い。早く風呂にでも入れればいいんだがなぁ。……で、雁首揃えてどうしたんだ? おまえらも食べた方がいいぞ? 作業、まだ続くんだろ?」
「そ、それはそうだけどさ……お礼、言いたくて…………ありがとう、神父様。助けてくれて」
「…………」
あー……成程、成程ね、うんうん。
昨夜のメルもこういう感じだったのか……なんというか、こそばゆいっつーかむずむずするっつーか……背中が妙に痒いんだよなぁ。汗疹とは違う、嫌ではない掻痒感。
『ありがとう』なんて、メルから言われ飽きて慣れてると思ってたんだけど。
どうやら俺も、そこまで肝が太い奴ではなかったようだ…………頭を下げてくる子供の群れってのは、破壊力デカいな……。
「っ、い、いいって、別にそんな、仰々しく礼なんか言わなくていい。俺はその、一応は神父だぞ? 人を助けるのは仕事だ。やって当然のことをしたまでなんだから――」
「……昨日は、聖女様がすごかった」
と。
誰よりもメルの異能を、奇跡を目の当たりにした少年が、顔を上げてそう呟いた。
真っ直ぐ、俺の顔を見ながら。
「そんで今日は、神父様がすごかった。……あんなすごい魔法、リナ姉ちゃんでもつかえなかった。村中の火を消したり、倒れる家を支えたりなんて…………神父様と聖女様は、勇者なんかよりずっと強いんじゃないの?」
「…………ま、ぁ……腕がそこそこ立つ自信はあるが……」
……嫌な予感がして、つい明言を避けてしまった。
直接は知らないんだからなんとも言えないけど……俺とメルは、あの糞アロハから『勇者の代わりに魔王を倒す』ために喚ばれた異邦人だ。なら押しつけられた異能は、勇者のそれを凌駕していてもおかしくはないだろう。
牛乳を媒介に奇跡を起こす異能【
その奇跡を数倍に増幅する異能【
……けど、これじゃあ――
「っ……神父様おねがいっ! 勇者の代わりに、魔王をたおしてっ! っ……リナ姉ちゃんの、仇を取ってよっ! おねがいだよっ!」
――必然、こういう話になっちまうって。
そんな予感が当たってしまって、俺は頭を抱えないよう右手を押さえるのに必死だった。
「……リナ姉ちゃん、っていうのはその……勇者についてったっていう、魔法使い、だったな。……
「ちがうけど……村中みんな、リナ姉ちゃんのことが大好きだったんだ! 魔法がすごくって強くって、何度も村を魔族からまもってくれて……でも、ふだんはすっごく優しくって、いつも遊んでくれたんだ! なのに…………っ、ぼくらみんな、魔王が許せないんだ! リナ姉ちゃんを殺して、村が燃やされる原因になった魔王が! ――――ねぇ、神父様と聖女様なら、魔王をたおせるでしょうっ!?」
「――――その子の言う通りです、センリ神父様」
おいおい……勘弁してくれ。子供からの泣き落としだけでもキツいっていうのに。
ぞろぞろと、村人たちが俺の元へ集まってきてしまった。真剣に会議していた男衆も、鍋を掻き混ぜていた女性陣も、老人も子供たちも、文字通りに老若男女全員が。
……意味合いの違う汗が額を伝い、ただでさえ濡れているシャツをじっとりと湿らせていく。
「おれたちも、リナを殺した魔王を許せない。……なんなら、連れてった勇者にだって怨み節を吐きたいくらいだ。でも……せめて、仇を取ってもらえるなら――」
「それに、勇者がいなくなってしまった今、天敵のいなくなった魔族はやりたい放題です! 昨日のイフリートだけじゃない……魔王がいる限り、この村は、いいえ、人間はもう、いつどこで襲われるか、分かったものじゃありません!」
「我々にリナのような力はありません……魔族の脅威にただ怯え、それでもなにもできずに暮らすしかない……情けないが、恐くて夜も眠れないのです……」
「お願いします神父様! 聖女様にも是非お伝えください! 魔王を……この世界の諸悪の根源を! どうか討伐してください!」
「頼みます、この通りです! 我々に安寧を……勇者なきこの世に奇跡をどうか……!」
――――例えば、これが元の世界での出来事だったなら。
急に悪の魔王が発生して、俺とメルとが異能に目醒めて、その魔王を倒せる唯一の存在だと持て囃されて頭を下げられるという展開だとしたら……性格が悪いのは百も承知で言うが、当然の如く蹴っていただろう。『勝手に絶滅しろ』と吐き捨てて、異能を全力で引き籠るために使っていただろう。
奴らはメルに、それだけのことをしてきた。見捨てられて当たり前の所業をしてきた。
けど……ここは、違う。まるっきり別の異世界だ。必死に手を合わせ懇願する村人に、メルを差別したとかって罪はない。
…………だから、だからこそ、俺は、押し黙るしかない。
「……………………」
糞アロハこと創造神ネーデルは、確かに異能をくれた。だがそれは、俺が望むものじゃなかった。素質がないとは言われていたが、俺は予想以上のポンコツだったらしい。
【
昨夜、俺は言ったはずだ。要求したはずだ。突きつけたはずだ。主張したはずだ。――――大前提として俺は、メルが危険な目に遭うのが嫌なのだ。
だから、魔王を倒すのが求められる役割なのなら、俺ひとりでそれを成せる異能が欲しかった。
だというのに、俺が異能を発動するには、メルが傍にいなければいけないという縛り付き……ならばじゃあ、なんの意味もないじゃないか。俺が異能を持った意味は、単なる戦力増強でしかなくて、下手すると過剰戦力を増やしただけだ。
あいつを。
メルを、危険から守りたいって目的は、微塵も達成できていない。
「お願いします! センリ神父様!」
けど、じゃあ、だからといって。
こんなにも頭を下げてくる村人たちを、無碍にできるかといったら……さすがの俺だって、なけなしの良心が痛む訳で……。
どう、したもの、か――――
「いいよ。それ、承った」
どよめきが、波のように伝播する。声のした方へ一斉に村人の目がいき、俺も反射的に振り返る。
白い髪、白い肌、真っ赤な瞳。胸元の大きく開いた修道服。
そして、右手にはちゃぷちゃぷと牛乳を湛えるポットを、左手には…………ぼこぼこのボロ雑巾と化した、創造神(マスコットの姿)を握り締めて。
メルが――――笛吹メルヒェンが。
眉間に皺を寄せた強い表情で、怖いほどに強い口調で、短く言いながら歩いてきた。
「っ、ほ、本当ですかっ!? 聖女様っ! シスター・メル様っ!」
「うん。魔王、退治すればいいんでしょ? ……いいよ、やったげる」
――――歓声が上がる。涙すら混じった喜色満面が一気に伝染し、まるで祭のように村人たちは甲高い喝采を叫び始めた。
「お、おいメル! おまえ、どういう意味か分かって――」
「分かってるよ、センちゃん。……心配ありがと。けど、ただの本懐でしょ、これが」
スープの器を地面に置いて、駆け寄った俺にメルは、不敵に微笑んだ。
とぷとぷとぷとぷ、『ダヌヴァンタリ』から牛乳を落としていく――――しかし黄色味を帯びた白は地面に墜落せず、中空で球となって丸まり、集まっていった。
「魔王を斃す――――……多分、それが、あたしたちがこの異世界に喚ばれた理由だ。……なら、さっさとそれはこなさないとね。知ってるでしょ? あたし、夏休みの宿題は7月中に終わらせるタイプなんだよ――――ねぇっ! ちょっと訊きたいんだけどっ!?」
意識の刈り取られた不細工牛を俺へ押しつけながら、メルは村人たちに声をかける。
……さすが、頭がいい。この世界に喚ばれた理由を、既に察していたか。……けど、だからこそ少し、違和感がある。
理不尽な暴力を飽きるほど浴びて、即断で反撃に移るほどに人間嫌いなメルが。
魔王討伐なんていう典型的な人助けに、こんなにも積極的なのが…………違和感。
「その斃すべき魔王は、一体どこにいんの? 場所さえ分かれば、すぐにでも行ってぶっ殺してくるけど」
「……それは……我々のような一市民には……」
歓声が静まり、弱気な声が聞こえてくる。
まぁ、そりゃそうか。居所が分かるなら、魔法使いで軍隊作って乗り込めばいい話だ。それをしないのは、なにか理由があるからのはず――
「古い文献で、読んだことがあります」
老人のひとりが手を挙げて、嗄れた声を張り上げてくる。メルは禿頭の老爺へ鋭い視線を向けつつも、牛乳を零し続けるのをやめなかった。
膝の辺りで大きな球となり、蠢動するそれを後目に。
メルは、老翁へ向けて再び口を開いた。
「……なんて書いてあったの?」
「はい。曰く、魔王の居城は人間の眼には見えない場所にあり……発見して侵入するには、『鍵』と呼ばれるなにかが必要だとか……しかし……」
「しかし……なに?」
「……勇者一行は、魔王に殺されたとのことです。つまり、魔王城へは一度侵入しているということ……ですが、肝心の『鍵』がどうなったかは、我々の元へは伝わっていません……。最悪、魔王が回収して隠しているかも――」
「――――ちょ、っと待ってくれ。いや、ください。えっと……おじいさん。勇者一行が魔王に殺されたっていうのは、そもそもどこからの情報なんです?」
慌てて神父ムーヴを取り戻し、きょとんとする爺さんに質問を投げる。
そうだ、冷静に考えればおかしい。
人間には見えない魔王城にて、勇者が魔王に殺されたのなら……それは、人間には知られないんじゃないか? なんか、当然のように受け容れていた前提知識だけど、細かく話を聴いてみた感じ、そもそも情報が欠けているような気が――
「――魔王に殺されたと分かっているのなら、それはつまり、勇者たちは人間たちの生活圏内で死亡したと受け取れますが……どうなんです?」
「は、はい……その通りです……。すみません、てっきり知っているものかと……」
――――あぁ、そっか。俺たちはこの村に派遣された神父とシスターって役どころだったな。異世界人と知られていないのなら、前提知識は当然共有されているものだと思っちまうか。
「勇者たち4人は、最期の力で人里……ここから50kmほど離れた、レーウェンフック村へと転移魔法でワープして……そこで、力尽きたと聞いています。……それ以上のことは、遠く離れたここまではさすがに――」
「ふぅん……じゃあ、そこになんかあんだろうね。その『鍵』の手掛かりが」
そう、メルが唱えた瞬間――――牛乳の球が、一気に膨張した。
細く長く、そしてやたらと尖った形へと変形していく牛乳は……元の体積なんか当然のように無視をして、際限なく増えて膨らんで増して大きくなって。
数秒後には、全長数十mにもなる身体を浮かせ、優雅に
屏風にでも描かれていそうな、乳白色の龍が出来上がっていた。
「【
「あ、あぁ……う、うん……」
……やたらと、甘い匂い。牛乳のはずなのに不快感を催さないそれは、不思議と惹きつけられるようで、俺は龍へ跨るメルの手を自然と取っていた。
――――それに、まぁ、なによりさ。
メルが前向きで積極的なのに、俺が尻込みしている訳にもいかないだろう。
こうなったら、腹を括るしかない。メルが魔王退治に乗り気だというのなら、俺は、あらゆる危険からメルを守る。彼女の言う『本懐』を遂げるために、たとえ死のうが彼女を守る。
そう決めちまえば、なんてことはない。
向こうの世界で誓っていたのと、なんら変わったところはないのだから。
「っ――――神父様っ! 聖女様っ!」
空へと昇っていく龍の尾へ、追い縋るように子供たちが手を伸ばす。
隆起した牛乳の鱗へ、サドルみたいに跨った俺は、身体をめいっぱいに捻じって彼ら彼女らへ顔を向け、親指を立てた左手を翳した。
「ちょっと待っててな! 魔王退治、一丁こなしてくるからよ!」
「――――っ、うんっ!! 頑張ってっ!! 神父様ぁっ!! 聖女様ぁっ!!」
「……飛ばすよ、センちゃん。掴まってて」
「へっ――――おぉっ!?」
宣言から急加速までは、あまりにも間がなかった。突然のGに耐え切れなくて、咄嗟に目の前のメルへ抱きついてしまうくらいには。
村が、どんどん見えなくなっていく。人影なんて芥子粒ほどにしか認識できない。
……まったく。まぁ分かるよ、俺たちみたいな輩にゃあ眩し過ぎる。慣れるなんて当分無理だろうさ。
うっかり絡めた腕を離す、その一瞬でさえ感じ取れる。火傷しそうなほどに高まった、メルの熱。上がり過ぎた体温。
あれだけ真っ直ぐな期待は。感謝は。応援は。
茹だっちまうくらいに照れちまうよな――――けどまぁ、照れ隠しの方法くらいは少し考慮してほしいなって、俺は自分の頬が融けるほど熱いのを煽ぎながら考えた。
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