六門の使命

 安直に『レイニエル教会』と名付けられたその建物は、古ぼけた2階建ての廃墟だった。密閉したまま手つかず過ぎて、埃すら溜まっていないという有様。1階の礼拝堂だけでも、椅子を広げれば村人全員が寝る場所に困らないほどの面積があった。


 そんな中、俺とメルは『救世主だから』『功労者だから』と。


 2階にあった住居用スペースを、丸々全部使わせてもらうことになった――――正直、ありがたい以上に申し訳なさの方が勝つのだが。




「――――っはぁ…………随分、妙なことになっちまってんなぁ」




 恐らくはシスターが寝泊まりをしていたのだろう、ベッドが4つ敷き詰められただけの寝室。


 黴臭いシーツへ焦げ臭い身体を投げ出して、俺は盛大に溜息を吐いた。




「妙……うん、そう、だよね…………ここ、本当に異世界、なんだよね……?」



「だろうなぁ。……いやまぁ、まだワンチャン病院のベッドの上で見ている夢だって可能性もあるんだが…………いや、ないか、さすがになぁ……」




 やけに距離を詰めて設置された隣のベッドに、『ダヌヴァンタリ』を抱きながら座り込むメル。太腿で白いポットを挟んで、胸を凭れさせるようにしている彼女へと、俺は眠たい視線を送る。



 学校で昼間で授業を受けた直後、屋上から落下して、気付いたら腹に柱が刺さってて、治ったと思ったら牛乳の大津波に呑まれないよう必死で脚を動かしてたんだ。



 疲れた。さすがに、眠い。……が。



 伊達眼鏡でどうにか誤魔化している、眼つきの悪さを遠慮なくメルへ向けながら、俺はぽつぽつと言葉を紡いだ。なにしろ今は、混迷した状況を整理する必要が切実に生じているからだ。




「……まずは、認めるか。ここは異世界だ。俺たちはこの異世界に転移した」



「うん……」



「この世界はテンプレートなファンタジー世界だ。人間と敵対している魔族がいて、勇者と魔王が争い続けてる。それも5000年だ。そんな中、今は人間側の勇者が敗北して、魔族が隆盛を誇っている」



「…………うん……」



「――――そんでメル、おまえにはなにやら特別な能力が宿っている。【白の全能アムリタ】……『ダヌヴァンタリ』に入った牛乳を使って、大抵のことができちまう異能力だ。……まぁその牛乳、さっきほとんど使っちまったけど……補充とかどうなってんだ? メル」



「……うん…………」



「…………メル?」



「…………」



「おーいメルー? 聞こえてっかー?」



「…………ふぇ? あ、うん、えっと……ごめん、なに?」




 聞いてなかったのかよ。なにやら俯いて胸をさすってるとは思ってたけどさぁ。


 ……まぁ、ぼーっとすんな、不安に思うなっていう方が無理な話か。



 いきなり異世界に飛ばされて、冷静な動きができる物語のキャラが悉くおかしいだけだ。普通はメルみたいに混乱してフリーズする。俺だって、できれば一旦思考を放り投げたいくらいだ。



 メルがいるから――――守りたい奴がいるから。



 しっかりしなければと、疲れて眠い頭だってギア全開でフル回転させられる。




「おまえの異能、【白の全能アムリタ】。多分『ダヌヴァンタリ』に入った牛乳を媒介に色々できるんだと思うけど……さっき、火を消すのに大分消費しただろ? 補充とかどうなってんだ? なんか手段が思い浮かんでるとかあるのか?」



「っ……! え、と…………こ、これこれ! ほら、これ見てよセンちゃんっ!」




 ……? なんだ? 今の間。微かに仰け反るような反応は。



 ――――答えを出すより早く、メルは『ダヌヴァンタリ』の真っ白な口をこちらへ向けてきた。……全部が真っ白で見づらいことこの上ないが、覗き込んだ中にはちゃぷんと、わずかな牛乳が波を打っていた。




「……随分少ないが……自然に湧いてきてるのか? これ」



「う、うん……そう、みたい……。だっ、だからほら、多分、明日の朝には満杯になってるだろうし、安心安心……はは、は……」




 言いながらも、メルは露出した胸の上半分を頻りにさすっている。……少し離れているが、心臓に近い位置だ。きっと彼女は、不安で仕方がないのだろう。



 俺も同じだ。敢えて口には出さなかったが、最悪なシナリオがひとつある。




 牛乳を使って、まるで奇跡みたいな事象を起こせる異能力【白の全能アムリタ】。そんなチート異能のお手本みたいなものを押しつけられて転移した先で、よりにもよって勇者が魔王にやられて殺されているのだ。



 俺よりずっと頭のいいメルのことだ、とっくに察しているだろう。



 メルと俺とがこの異世界に喚ばれたのは、




「……………………」



「…………っ……は、ぁ……」




 ぎゅうっ、と白いポットを抱き締め、全身をそこへ押しつけるように座るメル。




 ――――勇者だの正義の味方だの、そういうのはこの少女から最も縁遠い立場だ。なにしろそんな奴、メルの人生にはひとりだって現れやしなかったのだから。




 見た目を理由にした虐め、迫害、差別、嫌がらせ。終いには親が離婚して、親権を得た母親は、外国人だった元夫の面影が残るメルを、酷く邪険に扱った。警察も児童相談所も、面倒臭がって見て見ぬ振り。結果として大の人間嫌いに仕上げられたメルは、自分から勇者なんてやる性質たちじゃない。。自分がしてもらえなかったことを、他人にしてやる義務はない。



 というか、俺がやらせたくない。



 奇妙な世界へ最悪のタイミングで来てしまったが、ちょうどいいとも思った。



 こんな世界でなら、メルはこれ以上、見た目の差異に苦しまなくていいかもしれない。猿共の妄言に傷つく必要もないのかもしれない。ずっとずっと痛がってきた彼女がようやく、穏やかに過ごせるかもしれない。




 そんなメルに、笛吹メルヒェンに。



 これ以上の重荷なんて、間違ってもひとつたりとも背負わせたくなかった。




「……なぁ、メル」




 もし、もし異能の源が、『ダヌヴァンタリ』とかいうあの器なら。


 俺が貰い受けちまえば、メルにはなんの義務もなくなるんじゃないかって。承諾もなしに押しつけられた異能からだって、解放されるんじゃないかって。



 そう思って、声をかけた――――そこから、数えた限りじゃ無言が20カウントは続いた。




「……………………」



「……メル? おい、メル? おまえ、大丈夫か?」



「んぇ、ふぁいっ!?」




 重い身体を起こして這い蹲り、体育座りのメルへと近付いたことにすら、彼女は気付いていなかった。



 真っ白でさらさらで、上等な絹糸のような髪を撫でると、頭がやけに熱い。



 よく見れば頬も軽く上気していて、余程心臓が鬱陶しく脈動しているのか、手が何度も何度も胸を輪郭に沿って撫でていた。




「なっ……な、に、かな……? セン、ちゃん……?」



「いや、こっちの台詞なんだが……おまえ、本当に大丈夫か? 妙に息も荒いし……胸、苦しいのか? もしかして、異能の副作用で凄い疲れてるとか――」



「ちっ、違うのっ! そういうんじゃなくて……っ、な、なんでもないっ! 別に本当、なんでもないからっ!」



「……そう言われてなんでもなかったためしがないだろうよ。正直に――」



「いっ、いいのっ!! 本当、お願いだから、気にしないで……あ、明日には、治ってるから……そ、そうっ! そうだよ明日っ!! 明日はほら! 村の復興を手伝わなきゃだしさ! センちゃんだって疲れてるでしょ!? しっかり眠って英気養わないと!」




 誰にでも分かるレベルの、露骨な話題転換。話の逸らし方。



 ……正直、かなり迷った。メルが口を噤んでいるなにかへの追及を続けるか、口車に乗って眠りに就くか。




「ほ、ほら! 牛乳まだ出せるけど……センちゃん、飲む?」



「…………要らん。なくても十分眠れそうだしな」




 結局、俺は追及を明日へ盥回しにすることにした。



 ……元の世界でだったら、彼女が泣くまで問い詰めて訊き出していただろう。それはメルの黙っていることが、彼女を傷つける誰かに関することが大半だったからだ。そんな余裕はないはずなのに、メルは加害者のことを極力俺に伝えなかった。俺にまで被害が及ぶからと、要らぬ気を回しては余計に傷ついていた。



 けれど、ここは違う。縁もゆかりもない異世界だ。



 だったらまぁ……多少秘密にしておきたいことを、黙らせておいても問題ないだろう。



 なんの見当もついてないってのもあるし、根掘り葉掘り訊いて咀嚼して理解するには、疲れも眠気も限界だった。




「そっか……あ、灯り消す、ね? ……ちゃんと眼ぇ閉じて、ぐっすり寝るんだよ? 分かった?」



「なんの確認だよ、母親かおまえは。……メルこそ、ちゃんと寝ろよ……?」



「っ……う、うん……頑張る……」




 なんだよ、頑張るって。



 そうツッコもうとしたけれど――――それより早く、天井からぶら下がっていたランプの灯が消された。部屋は一気に暗くなって、青白い冴えた月明かりが窓から差し込むだけになった。



 瞼が重い。身体が重い。メルのベッドに身体を跨らせた姿勢だったけど、動く気力すら起きなくて、俺はその場でだらしなくうつ伏せのまま眼を閉じた。




「……………………」




 ――――この異世界が、屋上から墜落した俺の見ている、儚い夢だなんて。



 そんな可能性は、腹を貫かれたあの痛みを味わった時点で消えていた。きっとここは本当に異世界で、俺もメルも見知らぬ世界に招かれてしまったのだろう。




 多分……死んだ勇者の、代わりとして。




 ……それこそ儚い望みだけど、もし、万が一、仮に、例えば。





 夢の中でこの世界の、異世界の神サマかなにかにでも会えたとしたら。





 よりによってあいつに、メルに、勇者の代わりなんて危険極まりないことをやらせようとしたその報いは、しっかり喰らわせてやらないとな――――拳を固く固く握り締めて、俺は意識を泥濘の底へと沈めていった。

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