第2章 天悶の愚者

掌を踏み躙りし方舟

「うわぁああああああああああああああああっ!! うわぁあああああああああっ!!」




 子供の声は、既に嗄れ切って切れ切れだった。炎熱で喉も焼けているのだろう、何重にもがさついて響いていて、その叫びすら炎のうねりに掻き消されそうだった。




「っ……無理、よ……逃げなさい、あなただけ、でも――」


「いやだ! いやだぁっ!! おかあさんっ、おかあさんも一緒に――」




 ……その健気な望みが不可能なことは、誰の目にも明らかだった。


 少年の母親は、焼けた柱の下敷きになっていて、服にも髪にも、炎が燃え移っている。圧死を免れたのは幸運だったのか不運だったのか――――懸命に引っ張り出そうとしている少年の努力と違って、一瞥ではその判断はつかなかった。




 ――――だが。






「『白き巨象よ自由を歌えAiravatas Freude』」







「っ、えっ!?」「……!?」




 少年も、その母親も、あり得ざる事象に瞠目していた。……無理もない、なにしろやってみた俺たちでさえ、これが現実なのか夢なのか、未だに半信半疑なのだ。



 メルがポット『ダヌヴァンタリ』に入っていた牛乳を、母親を押し潰していた柱にぶっかけて、そして念じてみた。



 そうしたら、、今もふわふわと浮遊し始めたのだ。……なんか、白いオーラまで纏って。




「…………できたんだけど」



「あぁ、できたな……どこまでできるんだろうな、このチート能力……」




 呆然と、浮いた柱を眺める俺たち。そんな視界の端っこで、ついでのように傷まで治っていたっぽい母親が立ち上がり、子供を抱き締めるシーンが見えたのだが、ごめん、ぶっちゃけそれどころじゃないわ。




 傷の治癒に、物を動かす。




 このふたつは明らかに、完全なる別系統の能力だ。それが牛乳ひとつでできてしまうということは……おいおいまさかとは思うが、今まで読んだ漫画やラノベが可愛く思えるレベルのチート異能の可能性が出てきたぞ……?



 これ、下手すると文字通り、なんでもできる異能なんじゃ――




「あ、ああっ、ありがとうございますぅっ!! 神父様! シスター様っ!」




 がしっ、と手を握られて、俺たちはようやく我に返った。



 さっきまで柱に潰されていた母親が、涙を流しながら俺たちに近付いていたのだ。【白の全能アムリタ】という名前らしきチート異能に意識が割かれて、まったく気付かなかった。メルなんてあまりに唐突過ぎたのか、反射で手を振り解いてしまっている。



 だが、母親はそんなことで気を悪くする様子はなく、手を組んで何度も何度も頭を下げてきた。




「神父様たちが新しく派遣されるという話は聞いていましたが……まさかこんな、こんな凄い魔法まで使えるだなんて……! 助かりました、本当に助かりました! ありがとうございます! ありがとうございますぅ……!」



「っ……ぁ、ぅ……」




 困ったようにメルが俺の方を見てくるんだが……ちょっと待ってくれ、現状を整理する。




『神父様たちが新しく派遣される』……成程、俺たちはそういう設定でここに転移してきた訳か。そして、この世界には『魔法』がある。真っ先に出てこなかった辺り、どうやら『異能』という概念は薄いようだ。なら説明も面倒だし、メルの【白の全能アムリタ】は一旦魔法ということで通した方が好都合だろう。




「――――いえ、礼には及びません。それより無事でよかった。……一体、この村でなにが起きているのですか?」



「魔族だよ! 魔族が襲ってきたんだ! 突然だ!」




 手持ちのボキャブラリから精一杯に神父っぽい言葉遣いを選んで訊いてみたが、答えは怒り混じりの子供の声で返ってきた。




、魔族が調子に乗ってるんだ! だからこんなところまで……っ、は、早く逃げなきゃ! 神父様もシスター様も、早く早くっ!!」



「え、えぇ、早く逃げた方がいいです! この炎は火を司る魔族、イフリートが放火して回ったもの。ただの水では消えません、だから早く――」




 そう言って、子供も母親も、俺たちの手を引いてくる。四方八方が炎に巻かれてはいるが、それでもわずかに退路はある。熱さえ我慢すれば、確かに炎の外へ逃げることは可能だろう。



 魔法、魔族、勇者、魔王――――これまたこってこてなファンタジー系異世界だ。今や氾濫し過ぎて、本棚を見るだけで食傷気味になるレベルの。



 さて、チート異能を持って魔族と相対した時の主人公の気持ちといやぁ、義憤か打算、或いはカモを見つけたという嘲笑、変わり種なら魔族を仲間にするって手もあるか。




 だが、この少女は。




 笛吹メルヒェンは、そんなありきたりな反応ができるほど、真っ当な人生を歩んじゃいない。








「……






「へっ?」




 メルが力任せに母親の手を振り払うと、微かに困惑の声が上がった。




『気に入らない』か……まぁ、確かにそうだ。俺もそう思う。隣にいただけの俺がそう思うんだから、メルなんてその何倍も強く強く思っているだろう。




「し、シスター様……?」



「魔族、ね……要するに、? ……せっかく、あのクソッタレなゴミ山世界から出てこれたのに、こっちの世界でも同じとかさぁ――――ふざけてんのかなぁ……?」




 俺の手首を掴む子供の、腕をぽんぽん叩いて手を離させる。危ないから離れていろと、指先だけでサインを送る。




 ――――さっきまでいた世界。俺たちで言うところの現実世界。あそこじゃあ『力』ってのは『数』のことだった。常に少数派であることを強いられた、人と少し違うだけのメルにとって、人数差でマウントを取って押してくる圧政は、何度も何度も何百回も味わってきた苦難であり屈辱だった。



 この異世界じゃあ、『力』はそのまま『能力』のことで。



 現状は『力』を持つ魔族って存在が、力なき人々を苦しめている――――そういう図にしか、理解ができない。




「ざっけんなよ……こっちがいつまでも、なんの力もない弱者でいてあげる義理なんかねぇんだよボケがぁっ!!」




 キレて、叫んで、メルは『ダヌヴァンタリ』を逆さに引っ繰り返した。



 当然、中の牛乳は全て地面へと落っこちてしまう――――だが、それはただの牛乳じゃない。『全能』とまで銘打たれたチート能力の源泉だ。





「『敬虔を選別せし大津波Noahs Arche』っ!!」




 即興で付けただろう技の名前を叫んだ途端――――牛乳は、




 元の体積の何百倍、何千倍、いやそれでもなお足りないレベルだろう。文字通りの大津波と化した牛乳は、俺やメル、離れていた親子すらも呑み込んで、10m以上の高さにまで膨れ上がった。視界全てが白く染まるほどに氾濫した。




「ぷはっ――――お、おぉ……っ!」




 立ち泳ぎしながら見下ろすことで、ようやく転移した場所の詳細が分かった。




 ここは、村だ。家屋が、畑が、井戸が、牧場が、そして教会が点々と存在する閑散とした村だ。



 そのほとんど全てが炎に呑まれていたのだろうけど――――今やその赤は、白に呑まれて消え失せていた。




「すっ、ご……――――い、いやいやメルっ! こんな大規模に牛乳を広げちまったら、村人が溺れて――」



「ねぇ、センちゃん。なんで今の親子、逃げ道へ向かおうとできたんだと思う?」



「は? ……そりゃ、そこに燃えてない場所があったから――」



「これだけの村を燃やせる力があるなら、最初から全部燃やせばいいじゃん。。……そういう手合いがよくやる手だ。用意した退路を袋小路にして、閉じ込めて遊ぶんだ。……あぁ、思い出すだけでムカつくなぁっ!!」




 叫ぶと、牛乳は細波さざなみの音を無数に立てて蠢いた。



 ただひとり、牛乳の上に立っているメルは、まるでサーファーのように真っ直ぐ前を睨みつけている。向かっている先は、村の端にぽつんと立っている尖塔の目立つ建物……恐らく、教会だろう。




 近づいて分かった。多くの人間が、示し合わせたようにそこへ集まっている。




 そして、震える彼ら彼女らの前で。




「ど、どうなってるっ!? なんでオレの炎が消えてるんだっ!? なにが起こってるっ!?」




 オレンジ色にまで熱された炎が、そのまま人の形を取ったような。



 先程の子供よりなお小柄ななにかが、焦ったようにきょろきょろと辺りを見回していた。




 ……明らかに、人外。恐らく、魔族と呼ばれる存在。




 なら、あいつが――








「ねぇ。あんたがイフリートだよね? この村に火ぃ放った、犯人の魔族」






「あぁっ!? っ……な、なんだオマエぇっ!? っ、臭っ……これ、牛乳……!? は!? 牛乳でオレの炎を消したのかこのシスターっ!? どういう魔法だぁっ!? 聞いたことねぇぞこんなの――」







 巨大な牛乳の津波に乗っている修道女――――言葉にすると意味不明度は段違いだ。そりゃあ魔族だって困惑するだろうさ。




 その困惑が、一瞬の隙が。




 地雷を斬新な角度で踏まれて怒り心頭なこの美少女相手には、致命的だった。




「あたしさ、思うんだよね。弱い者虐めするような脳味噌劣等野郎に、生きる資格とかないだろってさ――――精々、反省するといいよ。『名を呑め貪欲な壺よGeheimnisvoller Kürbis』」





「はぁ? なに言って――――えぇえええええええええええええええええええっ!?」




 イフリートの断末魔は、ここまでの大悪を成した者とは思えないお粗末なものだった。




 メルが『ダヌヴァンタリ』の口を正面に構えると、まるで。ゆっくりと俺たちは降下していって――――そのついでとばかりに、イフリートの炎でできた身体も引き摺り込まれていった。




 何度も何度も、宙を泳ごうと藻掻いてはいたが、全て無駄。




 明らかな指向性を持った吸引は、俺や先の親子が柔らかく湿った地面へ下りるまで続けられ。





 光源としては優秀だったイフリートが容器に呑み込まれてしまったことで――――教会の前は、月明かりで青白く照らされるだけになってしまった。

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