赤は白にて空へと還る

「っ…………ぐ、ぅっ……!」




 思考を取り戻した時、想定していたような衝撃はなかった。



 代わりに、声も出せないほどの痛みが脇腹を中心に全身へ広がっていて、息をするのに口を開けるのすらやっとだった。眼なんて開けられない。自分が今、どんな姿勢なのか、どんな状態なのかも分からない。



 呼吸すら喉を焼くような激痛で、血の味が口内に充満している。



 あー……助からないな、これは――――なんて。



『痛い』以外の思考を半ば放棄していた脳は、取り戻した一片の冷静さで、現状を的確に分析していた。俺も人並みに怪我をしてきたし喧嘩もしてきた方だが、明らかにこの痛みは未経験のそれだった。外傷じゃない、中身をやられていることだけは本能で理解できた。




「ぅ、ぎ、ぃ……メ、ル……!」




 いい、死ぬのはいい。好きな女の子を守れて死ねたんだ。全男子の憧れの死に方じゃないか。



 ただ一点、気懸かりだったのは。



 ちゃんとメルを、助けられたか。守れたか。死なせずに済んだのか。



 意識が途切れている間に、滅多なことが起こっていやしないか。



 それだけは確かめたくて、痛くて痛くて仕方ないのをなんとか堪えて。




 眼を開けた。視界を得た。視覚情報を脳に送った。





 ――――結論だけ、先に言ってしまおう。





 滅多なことは起きていた――――それも、あまりにも予想外な方向に。









「……………………は?」






 俺とメルは、昼休みが終わった直後、校舎の屋上から落下したはずだ。




 なのに――――まず視界に入ってきたのは、




 日本じゃ最早望めない、満天の星空。しかしその星々の明かりを掻き消すほどの、炎、炎、炎、炎。人の悲鳴が疎らに聞こえてきて、遠くでガラガラと家屋の崩れる音がする。あぁ、気付いた途端に全身が熱くて――――その痛みよりもずっと強く、疑問符が頭を支配していた。




「……ここ、どこだ……?」




 分からない。分からない。なんにも分からないこれっぽっちも分からない。



 生まれて初めて、俺は『パニック』というものを味わっていた。最早全身を痺れさせる痛みとか、ほとんどどうでもよかった。



 とにかく、横臥の姿勢を取っているらしい身体を起こそうと、腹に力を入れた、瞬間。




「痛ぅっ!?」




 脊椎から脳へ、焼き焦がすような痛みが直通便で送られる。



 上半身を持ち上げた、その一瞬で辛うじて見えた。



 しかも服装が妙だった。まるで鎧のように仰々しい革のコート。所々に十字があしらわれていたところから鑑みるに、聖職者の恰好だろうか。無論、こんな服は俺の趣味ではないし、現代日本では自作以外に入手手段はないだろう。




 知らない土地。知らない恰好。……これは、所謂――




……? は、はは、マジ、か、マジにあるんだ、こんなこと……、ぅっ!」




 漫画でしか読んだことのない絵空事が、まさか自分の身に起きるだなんて。



 まさかの瀕死状態からのスタートで、エンドもそろそろ迫っていそうだが……けど、よかった。安心した。思わず溜息を吐き出した。




 異世界転生しているということは。



 俺は無事、メルのクッションとしての役割を果たせたということだ。メルがトチ狂って逆の状態にしていたら、こんなことは起こり得なかったはずだ。



 大した怪我をしてなけりゃあいいんだが……でもまぁ、生きていてくれるなら。



 それが、俺は、一番、嬉しい。




「……よかった、な……メ、ル――」














「――――あーっ!! やっと、やぁっと見つけたぁっ!! 大丈夫っ!? センちゃんっ!!」







 ――――声。声。聞き慣れた声。




 反射的に、痛みすら忘れてそちらへ振り向く。そして――――絶句する。









 そこにいたのは、胸元を大きく開けた白の修道服を着た、笛吹メルヒェンだった。







「っ、バ、お、ま……そ、その、恰好――」



「ちょっ!! か、身体捻じんないで痛い痛い見てるだけで痛いっ!! なな、なんで、なんでセンちゃんだけこんなことに――」




 動揺しながら俺の周りをぐるぐる回るメルだが……それは大分こちらの台詞だ。




 なんだその恰好……いや本当になんだその恰好っ!?




 被り物はいい、ローブもいい、スカートもまぁ制服と同じくらいの丈だし、靴も健全だろう――――問題なのは上半身だ。胸元だ。首元から胸の上半分をほとんど露出させたその恰好は、額の十字架がなければ修道女だとはとても思えない。悪魔の遣いがシスターに化けていると言った方が余程説得力があるだろう。




 それと……妙なものがその手に握られているのが気になった。



 真っ白な、ポット……? 陶器製で縦長で、注ぎ口のついた容器を何故か、メルは後生大事に抱えている――




「とっ、とにかく逃げようセンちゃんっ! 火の手が迫ってきてる……ここもすぐに炎に呑まれちゃうっ! っ、ま、まずは身体、身体を抜かないと――」



「っ……無駄、だ……おまえだけ、でも、逃げろ……メル……!」




 手を掴んでくるメルを弱々しく振り払おうとしながら、俺は必死に訴える。



 どの道手遅れだ。詰んでいるんだ、現状は。



 腹の傷は、致命傷であると同時に命を繋いでいる栓だ。柱から抜けてしまえば、大量出血でどの道死に至る。焼け死ぬか傷で死ぬか、ふたつにひとつだ。




 問題なのは前者の場合、この健気な幼馴染みを巻き込んでしまうという点で。




 それだけは、死んでも御免だった。




「嫌だ……嫌だよっ!! 逃げるなら一緒がいい……死ぬのだって一緒の方がマシだっ!!」


 こんな、訳の分からない世界で!


 あたしを、独りにしないでよっ! センちゃんっ!!




 ――――ぼろぼろと、泣きながら叫んで。


 メルは、俺の手を無理矢理に引っ張った。文字通りの火事場の馬鹿力、俺の脱力していた身体は、ずぼぉっ、と嫌な音を立てて命綱から引き抜かれた。




 その、瞬間。





「あっ」「っ?」




 メルの抱えていた、白いポットの中から。



 白い液体が、揺れた拍子に零れ出たのだ。



 微かに漂ってくる、苦手な臭い――――いやに嗅ぎ慣れたそれは、多分、いや確実に。




 





「えっ?」




 牧場に漂うような臭いを纏った牛乳が、腹の傷口にかかる。




 瞬間――――。それだけじゃない。傷口はみるみる塞がっていき、ほんの1秒後には消えてなくなっていた。さらに2秒後には服の穴すら塞がっていて、まるで最初から致命傷など、怪我などなかったかのように治ってしまった。




「…………」「…………」




 ふたりして目を瞠る。手持ちの常識の埒外の現象に、炎の熱にすら構えず首を傾げる。




 俺とメル、ふたりで確認した。間違いない。




 メルの持つポットに、なみなみ入った牛乳をかけた瞬間。




 明らかな致命傷が、服すらついでに治ってしまった。




 …………これ、は、所謂――





「……『ダヌヴァンタリ』の牛乳、美味しいだけじゃないん、だ……」



「……それ、容器の名前、か? ……なんで知ってんだ?」



「な、んとなく……なんか、頭に浮かんでた……【白の全能アムリタ】って名前も……」



「……それって、さぁ……」



「うん……」




 顔を突き合わせて頷き合う。身長差は腰を曲げれば一発で解決した。




 明らかに見知らぬ土地。


 記憶とは食い違う時間。


 謎の名前付きミルクポット。


 なんとなく頭に浮かんでた、明らかにそれっぽい名前。


 そして、致命傷すら完治させる奇跡みたいな能力。



 これは……異世界転生、いや、異世界転移には古今東西お決まりの――







「「――所謂、って奴だよなぁっだよねぇっ!?」」

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