第1章 真摯に牛乳を持つ女

黒は空なる色の寄せ集めなれば

「箭波。オレはな、おまえのことが非っ常に妬ましいんだ殴らせてくれねぇか?」



「……………………」




 昼休みも半ばを過ぎた頃。ようやく購買から帰ってきた両津りょうつの妄言は、賑々しい教室の喧騒に掻き消され、周りの誰も目くじらを立てなかった。酷くナチュラルに犯行予告を吐かれたことがあまりにバカバカしくて、俺は弁当箱から唐揚げをひとつ、口へ放り込みながら目の前のバカを見つめた。



 ……拳は飛んでこない。右手は焼きそばパンで埋まってるが、左手が空いてるのに。



 まぁ……口だけならそれで結構だ。男に殴られて悦ぶ趣味はない。




「…………っくん、はぁ……。あー…………なんだ、話聴いてやった方がいいのか?」



「当たり前の如く上から目線っ!! おまえのっ! そういうっ! ところがっ! 持ってる奴の余裕を感じられて非常に腹が立つんですグーのっ! 頼むからグーの許可をっ!!」



「あぁ? ……俺、おまえに殴られるような謂われはないんだが? なんだったらたった今、弁当分けてやったよな? なんだ、卵焼きがお気に召さなかったか? それじゃあ妹たちに言っとくよ、改善の余地ありだぞって」



「そこだよそこぉっ!! なんでだよぉっ!! 神様って不公平だよぉっ!!」




 椅子に前後逆に跨ったまま、俺の机をバンバン叩き出してしまった両津。


 ……情緒不安定か? あと食いかけの焼きそばパン上下させんな、麺のカスが飛ぶ。




「箭波ぃっ! なんで……なんでおまえの元には女の子が寄ってくるんだよぉっ! なんでオレのところには女子のひとりすら寄ってこないんだよぉっ!! 顔面偏差値は大して変わらないはずなのに、この差はなんなんだよぉっ!!」



「……はぁ」




 桜田附さくらでんぶの乗ったごはんを掻き込みながら、咀嚼の間に首を捻る。



 女の子が寄ってくるって……ぐるりと教室を見回してみたが、別段親しい女子の影は見えない。進級して間もないこともあってか、男子は男子、女子は女子で固まっている印象だ。部活で女の先輩と付き合いがないことはないが、別に仲良しってほどでもない。


 まぁ。


 約1名、心当たりがいるにはいるが――――いや、それでも。




「……寄ってくるってほどではないだろ。両津、おまえと大して変わんねーよ。普通に女子共から眼中に入れてもらえてねぇ」



「自然とオレをアウトオブ眼中にしないでくれませんかねぇっ!?」




 いや自分で言ってたし。


 頑張って明言を避けてた事実を、俺が明文化しただけだろ。




「まったく……そんな妄言で俺の食事を邪魔すんなよ。あいつらが料理の実験を兼ねて作ってるもんで、バカみたいに量多いんだから俺の弁当……」



「オレが購買のおばちゃんから面倒臭げに投げ渡された焼きそばパンを食ってる目の前で、おまえは可愛い妹に作ってもらった愛妹弁当を口にしてんのかよぉっ!! うがぁああああああああ妬ましい妬ましい妬ましい妬ましいぃっ!!」




 頭を掻き毟りながら上半身をぶんぶん振り回す両津。なんだろう、ここまで来ると一周回って面白く見えてきた。古文の授業で出てきた気がするわ、こんな奴。




「いいじゃねぇか、焼きそばパン。購買のって一個100円しないだろ? 経済的じゃん」



「不敬罪で訴えんぞてめぇっ!! ヤニ臭ぇババアと可愛い妹たち、どっちから貰った飯が美味いかなんて考える意味もねぇだろうがぁっ!!」



「……妹に幻想を持ち過ぎだろ、一人っ子」




 ようやく2/3を食べ終え、完食の兆しが見えてきた弁当を睨んで溜息を吐く。



 妹、それも双子のあいつらにとって、兄である俺なんか格好の玩具で実験台だ。普段は邪険にしてるくせに、漫画やアニメにすぐ影響されては無駄にレパートリーを増やし、こうして弁当を山盛りにしてくる。感想は根掘り葉掘り訊いてくるし、寝ている間に忍び込んで家探ししてくるし、気付けば人の部屋で勝手にゲームしてるし、起きて文句言ったら10倍になって返ってくるし。



 具体例を挙げろと言われれば、軽く1時間は語れるその面倒さを。




「あんな奴ら――」



「黙れうるせぇ口を慎めっ!! 持ってる奴の愚痴に需要なんざねぇっ!!」




 ……両津は、思ったより強めに制してきた。


 これは……多分、似たようなことを他の奴に言われたことがあるな。或いは、俺が前に言ったのを忘れているか。まぁどうでもいいが。




「っ――――だ、大体よぉ」




 と、両津は急に小声になって、鼻の毛穴が見えるくらい顔を近づけてきた。




「妹ふたりを抜きにしたって……おまえには、がいるじゃんかよ」



「…………」




 そう言ってこっそりと、壁際のこことは真逆の位置、窓際の机を指差す両津。



 ……燦々差し込む日光を、全反射して煌めく髪。血のように真っ赤な瞳に、透き通るような肌。全員が同じ制服を着ているはずなのに、窓際最後尾に座る彼女だけは、雰囲気も世界観もなにもかもが違って見える。



 まるでそこだけ、童話の世界を切り取って貼りつけたような。



 ある種幻想的な雰囲気を纏って――――笛吹メルヒェンは、静かに文庫本を開いていた。



 時折、思い出したように紙パックの牛乳をストローで啜っては。



 ぺらり、ぺらりとページを手繰る――――その指先すら、雪のように白い。




「…………美人、ねぇ……」



「んだよおまえ、笛吹さんが美人じゃねぇとでも言うのか!? 幼馴染みで慣れちまったのか眼球取り出して掃除した方がいいぞ!? どっからどう見ても超絶美人だろうがっ!!」




 荒々しく焼きそばパンを齧りながら吼える両津だが……俺も美人だとは思うよ。



 本当、びっくりするくらい綺麗だと思う。小学校からの付き合いだし、あの頃から可愛いと思っていたけれど、ここ最近は本当に、美しいとさえ思うようになったさ。




 けど……なんだろう、なんだかな。




 ……こいつに『美人』って言われるのが、なんか嫌だ。腹が立つ。




「ちょっと小柄だけど、その割に凄ぇ胸でかいしスタイルいいし、雰囲気も凛としていて素敵だよなぁ。なによりあの真っ白な髪! 漫画やラノベのキャラみたいでさぁ、最初見た時は面食らったけど、慣れると凄い綺麗で――」



「それ、本人には言うなよ。コンプレックスだからな」



「言わねぇよ。ってか言えねぇよ。そもそもあの娘に話しかけられねぇんだ普通の男子は」




 焼きそばパンの最後のひと口を、ぽいと放り込みながら両津は言う。




「あんな可愛い顔してんのに、口調荒いし当たり強いしさぁ。今年入ってもう5人から告白されたけど、うち4人が不登校になるレベルの振り方したらしいぜ? あの娘とまともに話せる奴なんて、箭波、おまえくらいしかいないんだって」



「……まぁ、色々あったからな」



「そういうところも含めて妬ましいんだよなぁ……! 分かった、本体は殴んないから眼鏡だけ殴らせてくんねぇ? 確かそれ伊達眼鏡だろ?」



「おまえが代わりに10倍の値段する眼鏡を買ってくれるなら考えてやるよ」




 ……不思議と気分がよくて、残った弁当をさっさか口へと詰め込めた。


 これで『笛吹さんとお近づきになりたいから口利いてくれ』なんて言われた日には、クソ不味い実験作であるずんだミートボールを口いっぱいに押し込んでいたところだったが……性格が悪いのは百も承知で言うけど、人からの嫉妬もなかなかに甘露だ。



 まぁ、さすがに高校生ともなれば、分別もつくだろうさ。



 未就学児や小学生みたいな、行動原理が猿そのものな愚行には及ばないだろう――――そう、俺は思っていた。



 そう、思いたかったのかもしれない。




「んお?」




 両津が不思議そうな声を上げて、俺は反射的にあいつの方へ目をやっていた。



 にやけて弁当箱を空にしている間に、あいつの元へ、女子が3人、並んで近寄っていて。







 ――――ぼとぼとと音を立て、ひとりがメルの頭に墨汁をぶちまけた。






「っ、ちょ、おいおい……!」



「――――」




 教室中に広がる墨の臭い。騒めきは瞬く間に伝染するが、それは事件現場から人を遠ざける役割しか果たさなかった。



 女共の隙間から、まだらな黒に髪を染められたメルが、無言で俯いているのが見える。




 ――――まずい、と、理論ではなく経験が脳に告げていた。




「笛吹さぁ、あんたなにひとり髪色目立たせようとしてんの? 生まれつきかなんか知らないけど、染めりゃあいいでしょ? そんなことすらしないとか、マジ生意気なんだけど」



「いっつもひとりで本読んで牛乳飲んでさぁ、キャラ付けかなにか? キモいんですけど」



「いるよねー、こういう自分大好きなナルシストって。もっと周囲との調和とか考えてくれませんかぁ? ほら、髪染め手伝ってあげたんだしさぁ、お礼くら言いなよ。常識でしょ? はぁ、これだから片親は――」




 地雷。地雷。地雷。地雷。


 どうすればここまで的確に踏み抜けるんだと、怖気すら覚える命知らずなタップダンス。



 あぁ、俺が浅はかだった。どこまでいこうと猿は猿だ。どうしようもない愚者はいる。




 そして――――を、彼女はもう、



 だから――




「っ、伏せろ両津っ!」



「えっ? うぉっ!?」




 ゆらり、笛吹メルヒェンが立ち上がった、その瞬間。



 両津の頭を押さえ、俺も一緒に頭を下げた。――――悲しい哉、その甲斐はすぐ訪れる。




「ひっ!?」




 誰の悲鳴だろうか。少なくとも紛れる一瞬前に、それは微かに聞こえて、すぐ消えた。




 なにしろ、俺と両津のすぐ横の壁に。




 メルの奴が、




 ――――轟音を響かせ、床に転がったのだから。





「きゃああああああっ!? あ、あんたなにを――」




「――――」





 無言だ。パニック状態の教室において、メルは数少ない冷静な側だった。




 冷静に、冷徹に、冷酷に――――椅子の次は




 脚を握ってハンマーのように、





「いやぁああああああああっ!!」




 床との激突で、天板が割れる。脚がひん曲がる。木片と残骸とに分離したその武器を、メルは両手に握り締める。




 真っ赤な瞳は、色と裏腹に冷めていた。怯えて尻餅をついてしまった女子たちを睥睨しては、誰の頭からカチ割ろうか、それしか関心事はなさそうだった。




 額から垂れてくる墨汁を、不味そうに舐めては吐き捨てて。




 再び机を振り上げて、女子のひとりの脳天めがけて――








「そこまでだ、メル。それ以上やると、おまえが悪者になる」







「――――……セン、ちゃん……」




 赤の眼に感情が戻る。小さく振り向いた彼女は、髪も顔もべたついた墨色で、黒々と汚されていて、見るに堪えなかった。




「頭と顔、洗いに行こうぜ? せっかくの綺麗な髪が台無しだ。……な? メル」



「…………ふん」




 掴んでいた手首から、ぽろりと力が抜ける。音を立ててかつて机だった残骸が転がり、割れた木片は床へ倒れ伏した。



 辛うじて引っ掛かっていた鞄だけを拾い上げ、彼女はこくりと頷く。



 教室から最寄りの水飲み場まで、1分もあれば着くはずだ。墨汁は乾いてしまうと取れにくいし、早く水で流してしまうに限る。俺は彼女の手を引いて、さっさと教室から出ていこうと――




「……なんだよ、あんた……頭おかしいよっ!! なに考えてんだよっ!?」




 ――女子のひとり、顔も名前も印象に残っていない誰かさんが、不意に吠えた。


 尻餅をついたままだというのに、首だけこちらへ回して、随分とまぁ、威勢がいい。




「ちょっと、ちょっと揶揄っただけじゃんっ! それでいきなり、あんな暴力振るうとか……イかれてるよっ! 頭おかしいっ!! あんた、精神病棟にでもぶち込まれた方が――」







「頭がおかしいのはテメェだよ、クソブス」




「――」





 ぐい、と後ろへ引っ張ってくる力を強引に制して、俺は吐き捨てた。


 いい。なにも言わなくて、なにもしなくていい。おまえはもう、十分に抵抗したろ、メル。無駄だと分かり切ってる抵抗を、精一杯に。



 だったら後は、俺がやる。




「っ……!? や、箭波……!? あんた、今、なんて――」



「なんだ、耳が遠いのか? だったら何度でも言ってやるよ、頭のおかしいクソブス女狐が。……いや、野生動物以下か。おまえの人生はなんともつまらねぇな、クソブス。徒党を組まなきゃ少数派虐めもできない、無理矢理理由をつけないと差別を正当化できない、自分より優れた奴を引き摺り下ろすことにしか必死になれない――――本当、なんの意味もない人生だ。動物の方が有意義に生きてる」




 本来なら、こんな猿に言葉をくれてやる時間も惜しい。乾き切る前に墨汁を洗い切ってやらなきゃいけないのだから。



 だから、教室から出る間際にこんな言葉を吐く羽目になって。



 捨て台詞のように見えてしまうことだけが、唯一の心残りだった。







「こんなに綺麗で可愛くて美しいメルを貶めたところでなぁ、テメェらクソブス共が底辺である事実は微塵も揺るがねぇんだよ。あーあ……本当、ダッ、サ」





 教室を出る。薄緑の廊下を歩く。メルでもついてこれる程度の早足で。



 後ろからなにやらぎゃあぎゃあと、言語の体を成していない喚き声が聞こえたけれど。



 生憎俺には猿の言葉は分からないもので――――俯いたままのメルを引っ張って、ひたすら廊下を歩くことにだけ邁進することにした。

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