決着
駅前で待ち合わせしていた唯衣の目の前に、スマートフォンを手にした怜が現れた。
「ずいぶんと久しぶりな気がしますね」
「うん、そうだね」
怜から『わたしの正体を教えます。お兄さんがなぜ誤認逮捕になったか知りたくありませんか?』という好奇心をそそられるメッセージが送られてきたのは4日前のこと。1日悩んだ末、唯衣は怜と会うことに決めた。
久しぶりに会った怜は以前と比べて、なんというか頭身が増えたかのようで、初めて会ったときとは別人のように静かだ。
挨拶を交わした後は沈黙が訪れ、怜はこちらをじっと見てくる。話すことがないというよりは、タイミングをはかっているように見えた。
こちらから話を切り出すべきだろうか。怜がメッセージで言っていたことは確かに気になるが、いきなり切り出すのも気が引ける。
「――お兄さんとはいかがですか」
「……色々あって別れたの」
明確に別れを告げたわけではないが、第三者から見れば事実上別れたようなものだ。
「もしかしてお兄さんが逮捕されたからですか」
「……そうだね」
「そうですか。その程度で恋人を見捨てるなんて、速水さんって思った以上に血も涙もない人だったんですね。私の父の方がまだ温情がありますよ」
「声優業界は弱みを見せたら生き残れないからね」
挑発しているようだが、その手には乗らないと皮肉で返す。
「しかしお兄さんは誤認逮捕です。つまり書類上は何も罪を犯していません。そして事実上もわたしとお兄さんの間にはいかがわしいことは一切ありません。そもそもお兄さんはそんなことするような人じゃないって知っていますよね?」
「どうかな? 怜ちゃんを家に置いちゃう時点でどうかと思うけど」
「ですがもしわたしがお兄さんに断られていたら、他の人の家に転がり込んでいたかもしれません。その場合どうなっていたか。つまりわたしはお兄さんに救われたも同然です」
「こじつけだよ」
「まあ、お兄さんも男ですから100%善意で助けてくれた訳ではないでしょう。ですが家に置いてくれたのは、つまるところわたしが困っていたからです。お兄さんのことを信用していないんですね」
上手に揺さぶってくるな、と唯衣は内心感心していたが、これ以上長居するつもりはなかった。怜の正体だって正直もうどうでもいい。これから事務所に行かなければならないのだ。
「それ、答える必要ないよね? 私は怜ちゃんの正体を知りにきたんだけど」
「……やっぱりわたしのせいなんですね。それならば、やはりわたしはお兄さんに理由を伝える義務があります。答えてください」
「言ったら帰ってくれるの?」
「はい帰ります」
即答だった。
「じゃあ教えてあげる。怜ちゃんが本当の妹じゃないことを言ってくれなかったから。きっと何か理由があるのは分かってるけど、そんな大事なことを隠してるなんて許せなかったの」
「なるほど」
無表情で言う怜の態度は、到底納得しているようには見えなかった。
「本当にそれだけですか? きっとなにか理由があると分かっているのに、それだけで嫌いになるとは考えにくいです」
「……」
怜と会おうとしたのは間違いだったかもしれない、と唯衣は思った。見抜かれてしまっている。しかし、言うわけにはいかない。
「話してください」
「それ以外に理由はないよ」
「分かりました。ではわたしがお兄さんをもらっていきます。お兄さんが弱っているのに何一つ役に立たない速水さんは、せいぜい声優業に逃げ帰らないでいいよう頑張ってくださ――」
「怜ちゃんは何も分かってない」
雑踏でも減衰することなく耳まで届く凍りつくような声に、怜は一瞬体を硬直させ、目を丸くする。
「……裏切ったのは、私の方だから」
唯衣は視線を落とす。
「どういうことですか」
「怜ちゃんのことを通報したのは詠さんなの」
「え……」
「追求したら、私と千里が写った写真を見せてきて、『声優を引退して』って脅してきた」
「究極の二択を迫られて、仕事を取ったということですね」
非難めいた口調が続いていた怜だったが、今は打って変わって同情的だ。
「後になって後悔した。私、なんて嫌な女だろうって。理由はいくらでも後付けできるけど、私は千里を裏切った。だから、千里は私のことなんて嫌いになって、忘れるべきなの」
今度こそ、偽りのない本心だった。
「なるほど。……お兄さん、速水さんの重すぎる愛、一字一句逃さず聞いていましたよね?」
「え……?」
怜が手にしたスマートフォンは通話状態のままになっていて――千里が物陰から現れた。
千里は唯衣の前へ歩いていくと、前触れなく頭を下げた。
「ごめん」
5秒経って頭を上げると、拒絶の色はないものの、困惑した表情の唯衣が視界に入った。
とりあえず話は聞いてくれそうだ。何から話すかを考え、言葉を発する。
「……怖かったんだ」
「怖かった?」
「唯衣に嫌われるのが怖かった。正直に話したら、軽蔑されると思った。面と向かっては何も言われなくても、距離を取られるんじゃないかって怖かった。唯衣の隣にいられなくなるのが怖かったんだ」
「千里」
「だから、ごめん」
もう一度頭を下げると通行人が視線を次々に向けてくるが、千里にはどうでもよかった。
「困ったことがあったら隠さず唯衣に相談する。だから、唯衣も悩み事があったら何でも相談してほしい。俺には分からない世界の話でも、頑張って理解するし頑張って力になる。だから、もう一度、俺の彼女になってください」
着飾った言葉とは無縁の、しかし千里の心からの言葉だった。
「……千里、顔上げて」
恐る恐る顔を上げると、唯衣がこちらを見ていた。いつものように何を考えているのか掴みづらい涼し気な眼差しは、心の奥まで覗かれているように感じる。
「ばか」
「え……?」
予想外の発言が唯衣の口から放たれ、困惑の声が漏れる。
「私がそれくらいで千里のこと嫌いになると思ったの?」
「……怖かったから」
「怖いってことは、なると思ってたってことだよね」
「ごめん」
もう一度、頭を下げる。
「私、千里が思ってるほどクールなキャラじゃないから、すぐ頭に血が上っちゃうの。覚えて」
「分かった。絶対覚える」
「だから」
唯衣は千里を見つめた。
「約束は守ってね」
千里の中で答えは決まっていた。しかし即答しては言葉に重みがない気がした。一度息を吸い、唯衣をまっすぐ見つめて言葉を発する。
「……もちろん。一生死ぬまで、何があっても絶対守る」
「ふふ、やっぱり千里はオーバーだね」
唯衣は呆れたように笑った。
「もう一度、よろしくお願いします」
瞬間、時が止まったような気がした。世界が、自分と唯衣だけになったような気がした。
そして、これから一千度、一万度と唯衣に見とれるのだろうなと思った。唯衣が美人だからではない。唯衣が愛おしいからだ。
「……ありがとう」
唯衣に向かって手を伸ばすと、唯衣は千里の手を取った。
小さくて、冷たくて、滑らかで、触れているだけで、心が暖かくなってくる。不思議だ。
「千里」
唯衣は何か決意を固めたような眼差しで千里を見つめた。
「付き合ってほしいところがあるんだけど」
いつの間にか、怜の姿は消えていた。
◇ ◇ ◇
千里をビルの前に残し唯衣が事務所へ入ると、あすかと詠がいた。唯衣が声優業を引退後は詠が大半の役を引き継ぐ予定で、今日は引き継ぎの場が設けられていたからだ。
「唯衣、遅刻よ」
「遅くなってすみません。今日は、声優業引退の取り消しに来ました」
「……それ、どういう意味か分かってる?」
「千里なら誤認逮捕で釈放されました」
脅しのつもりで発したであろう詠の発言は、唯衣を動揺させるには全く効果がなかった。
「誤認? でも、写真があるだけで十分困るよね?」
「何の話をしているの?」
1人蚊帳の外のあすかは、剣呑な雰囲気の2人を交互に見る。
「どうぞ。好きなところへ私が幸せそうにしている写真を持っていってください。詠さんは盤外戦術でしか私に勝てない人なんだなと軽蔑します」
その一言に詠の顔が引きつる。
「本当にしちゃうよ。本当にいいの?」
「はい」
即答だった。
「本当は怯えてるんでしょ? 仕事を失ったら、声優を続けられなくなったらとか、殺害予告されるんじゃないかとか、内心は怖くてたまらないに決まってる」
「私を脅している時間があるなら、どこかにその写真を持ち込んだらどうですか」
唯衣はまるで他人事のように答える。本当に怖くなかったからだ。
2人は無言でにらみ合い始め、先に目をそらしたのは詠だった。
「……唯衣はずるいよ」
詠は視線を落とし、床を見つめながらつぶやく。
「ずるい?」
「ずるいよ。私より美人で、私よりも演技が上手くて、私よりも人気で、私よりも楽しそうに仕事をして、私よりも幸せそうだから。私は何一つ唯衣に勝てるものがない」
「それはあくまで今の話です。10年後はどうなっているか分かりません」
「……はぁ」
詠は不機嫌の塊を吐き出すようにため息をついた。
「唯衣のそういうところ本当に嫌い。余裕で生き残れるに決まってるでしょ」
「詠さん?」
10年どころか、3年も持つはずないだろう、と悪態をつかれるなら分かる。しかし詠の口から出たのは、唯衣に対して好意的? な発言だった。
「速水唯衣みたいな声優が毎年現れるはずがないでしょ。だから10年後も生き残れるに決まってる」
唯衣は詠が自分のことをどう思っているか理解した。ただの嫉妬心だけではなく、実力を心から認めていて、そして近くにいたからこそ辛かったのだろう。
「……詠さん、今まで私のことが好きじゃないのに仲良くしてくれてありがとうございます」
詠に向かって頭を下げる。
「別に……唯衣のことは嫌いじゃないよ。素直でいい子だと思ってるから」
詠は唯衣から視線を外し、きまり悪そうに左手首を右手で掴んだ。
「ありがとうございます。私は、今言うのもどうかと思いますが、これからも詠さんと一緒に仕事がしたいです。本心は違っていたとしても、私にとっては親切な先輩なので」
「……」
詠は無言でスマートフォンを操作し始めたかと思うと、またポケットにしまった。
「クラウドからも消したから」
「……あなたたち、何があったの?」
2人の間の空気が変わったのを察したからか、あすかが再び会話に入ってきた。
「お母さん。私やっぱり声優の仕事続けたい。だって私を待ってくれて、必要にしてくれて、応援してくれる人がいる。それに、声優の仕事が好きだから」
あすかの目をまっすぐに見て言う。
「女優の仕事はどうするの? いまさらキャンセルなんてできないわよ」
「もちろん両方続ける。私は、お母さんの夢も、自分の夢も諦めたくないから」
沈黙が訪れ、あすかはため息をついた。
「分かったわ。でもやっぱり無理なんて言わせないから、覚悟しておきなさい」
「もちろん」
唯衣はあすかに向かって微笑んだ。
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