気持ちだけは逸般の方だから
1年半後――。
21時8分。
机の前に座り仕事をしていた千里は、体を伸ばし、背もたれに体を預けた。
首と背中の骨がぽきぽきと鳴る音がする。
「疲れた……」
部屋には誰もいないので、当然千里を労う声は返ってこない。
連日遅くまで働いたおかげで、若干遅れ気味だったスケジュールも今日で取り戻すことができた。予定通りの機能リリースができそうだ。
チャットツールで現在仕事を請けている会社の社員へ作業が終わった旨を送ると、ノートパソコンを閉じる。
あの後、千里は会社に戻ったものの、結局フリーランスとして働くことにした。
唯衣とは違う業界だが、実力が全ての世界に身を置いて、少しでも唯衣に近い立場にいたいと思ったからだ。
夕飯を買いに行こうと立ち上がり、ふとベッドに視線を向けた。かつては怜の定位置だったが、無論誰もいない。
きっと彼女に会うことはもうないだろうと思うと寂しくなってくるが、元気にやっているはずだと前向きに考えることにする。
何を食べようか考えながらドアへ向かおうとしたところで、電話がかかってきた。
「もしもし? ……駅まで来てる? この時間じゃ駅前の飲食店すぐ閉まっちゃうと思うけど」
『ファミレスなら23時半までやってるよ』
声の主はちゃんと調べていたようだ。
「分かった。今から行くよ」
電話を切って外へ出ると、自然と速歩きになる。途中信号で捕まってしまうことを考えると意味はないのだが、逸る気持ちが自然と歩く速度を上げていく。
案の定信号に捕まってしまい、時間つぶしにスマートフォンを開くと、香折のインタビュー記事がおすすめに表示されていた。
当初は色物扱いされていた『パワード声優』だったが、奇跡のような豪華スタッフが集まった結果、オリジナル作品としては前代未聞の大ヒットを記録し、香折も都内に住んでいたほうが便利だと出て行ってしまった。
1年と少しで色々と変わってしまったが、変わらないものもある。
駅舎が視界に入ると千里は走り始め、改札を出てすぐのところに立っていた最愛の人のもとへ駆け寄った。
「唯衣!」
千里の声に唯衣が振り向き、何を考えているのか掴みづらい表情に花が咲いた。
「お腹空いた」
「これでも急いで来たんだけどな……」
ファミレスまではすぐだが、どちらからとなく指を絡め歩き始めた。
無意識のうちに隣を歩く唯衣の横顔へ視線が行く。愛しさが胸からあふれ自然と手に力が入り、唯衣も無言で握り返してきた。
これからもずっと唯衣と一緒にいたい。それが千里の願いで、できるかどうかは自分次第だとも分かっていた。
だから、もう絶対に何があっても離さない。唯衣の手の温もりと柔らかさを感じながら、心の中で改めて決意を固めた。
気持ちだけは逸般の方だから アン・マルベルージュ @an_amavel
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