取引

 東京都港区赤坂。

 怜は一軒家の『自室』にあるベッドの上で横になっていた。

 千里や唯衣たちといたときとは打って変わって、不機嫌そうな表情を浮かべている。


「奈々子」


 ドア越しに声が聞こえた。父親の声だ。

 あまり自分の『本当の名前』が好きではなかった。今どき『子』なんておばあちゃんの名前みたいだ。


「……はい」


 ベッドから起き上がり、ギリギリドア越しに聞こえる声で返事をすると、60代前半と思われる男が入ってきた。


「なんですかお父さん」


 父親の名前は宇部義和(うべよしかず)。この国の首長だ。

 一般人ならばそんな大物を前にすれば萎縮するものだが、怜――本名:宇部奈々子の態度は、世の中のお父さんに接する娘となんだ変わらなかった。


「娘のことが気になって様子を見に来るのに用も何もないだろう」


「その割には長い事わたしの好きにさせてくれていたようですけど」


 奈々子会心の皮肉だった。


「この国は女の子一人を探すには広いんだ。指名手配犯を何十年も探し続けることだって珍しくもないくらいだからな」


「指名手配犯、ですか」


「例え話だ。他意はない。お前を自由にさせたくないからではなく、心配だから探させたんだ」


 奈々子の挑発に動じた様子もなく、淡々とした態度だ。


「その割にはわたしが帰ってきてもすぐに顔を見せてくれなかったですけどね」


「私の立場をわかっているだろう」


「また家出しましょうか?」


 宇部はため息をつくと、


「よく考えてみろ。声優と一口に言っても、その実態はタレント……実力主義の世界ではなく、人気商売だ。演技の仕事だけで食べていける人間はほんの一部で、大多数はバイトやタレント活動が収入の大半を占める。それは果たしてプロの役者と言えるのか?」


 思いのほか、業界のことを知っているような発言が飛び出した。


「今声優に求められているのはそのようなタレントなんです。それにいくら人気だけあっても、結局実力がなければ生き残れません」


「しかし人気……乱暴に言えば若さがものをいう世界なのは変わりないだろう。いつか賞味期限がきて、ファンたちはお前を見向きもしなくなってしまう。そんなしょうもない世界のために、お前の人生をつぎ込む価値があるのか」


「見向きもしなくなってしまうかどうかはやってみないと分かりません」


 無理解100%で反対しているわけではないことは分かった。

 しかし失敗前提で話されるのは癪に障る。


「そうだな。やってみないと分からない。しかしお前くらいの年頃はみな『自分ならできる』という根拠のない自信を持っているもので、それは無知から来るものだ。そして夢破れ、後悔する。私の言うことが間違っているのならば、根拠を出せ」


「それは……」


 痛いところを突かれ、口ごもる。


「政治家の子供は政治家になるものだ。世襲議員がなぜいるか分かるか? それが最良の選択だと親の背中から学ぶからだ。 この国をよくするために働ける。それは人生をつぎ込むに値することだ」


「政治家なんかより、クリエイターの人たちのほうがよっぽどたくさんの人を救ってます」


「一部の人間だけだ。大半のクリエイターは食っていくのも精一杯か、自分でなくともできるような望まない仕事をこなす日々を送っているんじゃないか」


「分かってますよそんなこと」


「それでも私の言うことが聞けないか。……居着いていた家の男に何を吹き込まれたんだろうな」


 宇部の目が鈍く輝く。


「……! おに――桐山さんは、どうなるんですか」


 喧嘩腰な態度から一転、ベッドから立ち上がり、不安を抱えた表情で尋ねる。


「もちろん相応の報いは受けてもらう」


 その一言に、奈々子は肉食獣に睨まれた子鹿のように体を硬直させた。

 父親が今の地位に就くまでに真っ当な手段のみで来たとは到底思えない。

 千里が自死を選ぶまで社会的に苦しめ続けるくらいはやるかもしれない。


「……」


 奈々子は視線を落とした。

 千里には迷惑をかけないと約束したのに、今思いっきり迷惑をかけてしまっている。


 心が冷えていく。

 今父親としょうもない言い争いをしている場合ではない。


 千里の厚意に甘えていた。唯衣とも引き合わせてくれた。

 千里、唯衣、香折、そして自分の4人でいるのは楽しかった。

 千里が家に置いてくれなければきっと得られなかった体験だろう。


 自分だけ、のうのうと日々を過ごしていていいのだろうか。


「……分かりました。お父さんの言う通り、政治の道へ進みます。だから、桐山さんをなんとかしてください」


「三権分立を知っているか?」


「本当はどうにでもなるんじゃないですか」


「……まあ、いいだろう。約束は守ってもらうぞ」


 宇部が部屋を出ていくのを見届けても、奈々子は立ち続けていた。

 仕方なかったとはいえ、結局父親の力を借りるしかなかった事実に、悔しさが湧いてくる。


 しかし、政治の道に進むと言ったが父親の言いなりになるつもりはなかった。

 唯衣や香折のような人たちを手助けできるような道に進む。

 奈々子は、ひとり決意を固めた。

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