すべてを失ってしまった
千里が目を覚ましたのは4畳の部屋だった。
畳敷きで、トイレや洗面台は仕切りがなく同じ部屋の中にある。ドアには外から鍵がかけられ、自由に出ることはできない。
一瞬自分はまだ夢の中にいるのかと思ったが、覚醒から遅れて動き出した脳が送ってくる情報が「現実だぞ」と告げてくる。
取り返しのつかないことをしてしまった。唯衣を、最愛の人を犯罪者の恋人にしてしまった。
今頃になって後悔の念が湧いてくる。なんとしてでも怜を帰すべきだった。怜に脅迫されてはいたがどうにかできたはずだ。
しかし、しなかった。できなかった。
怜、香折、そして唯衣。彼女たちと知り合ってからの日々は楽しくて、いつしかこのままでいいと思ってしまっていたからだ。
そしてこのザマ。
怜がなぜ家出をしたのか聞くべきだった。
何も聞かずに家にただ置くのではなく、心に踏み込んで解決方法を一緒に考えるべきだった。
しかしできなかった。怖かったからだ。
怜のことを知ったら唯衣はなんと思うのだろうか。きっと裏切られたと思うのだろう。
結局、自分は久美との一件からまるで変わっていない。
他人を知って、自分を知ってもらって関係が変わってしまうのが怖いまま。
情けない。
「ハハハ」
なんだかおかしくて、笑いが出た。
人間はどうしようもなくなると、どうやら笑うしかなくなってしまうようだ。
◇ ◇ ◇
ひとり情けなく笑っていると、ドアが開き、制服を着た男が入ってきた。刑務官だ。
「278番。面会だ」
「面会……?」
立ち上がり、刑務官に連れられて通路を歩く。
真っ先に脳裏に浮かんだのは唯衣だった。顔を見たいという感情がありつつも、合わせる顔がないという相反する感情を抱きながら面会室へ向かうと、アクリル板を挟んで反対側に座っていたのは本木凌だった。
「やあ、君が逮捕されたって聞いてね」
「……誰に聞いたんですか」
椅子に座りながら尋ねる。
「まあ、声優仲間だよ。あ、速水さんじゃないよ」
「そうですか」
正直どうでもよかった。
ただ、何をしにわざわざ面会に来たのかは気になる。
「君は犯罪に手を染めるような男には見えなかったんだけどね」
「人は見た目によらないものですから」
「まあいいや。君は速水さんとはどういう関係なんだい」
顔は笑っていたが、回答次第ではアクリル板越しでも殴られるのではないか、という威圧感があった。
「……」
すぐには答えられず、視線を落とし考え、答えを出した。
「ただの、友達です」
「そうか。じゃあ、仮に出所できたとしてももう速水さんとは会わないでくれるかな? 理由は言わないでもわかるよね」
「はい」
弱々しい声だったので凌に聞こえていたかは分からなかったが、凌は椅子から立ち上がると、千里を一度も見ようとせずに部屋を出ていってしまった。
◇ ◇ ◇
翌日。今度は上司の世良が現れた。
気まずくて視線を合わせられず、膝の上に置いた自分の拳へ視線を落としていると――
「正直がっかりだ。桐山がこんなことする奴だなんてな」
「……」
文字通り返す言葉がなかった。
「こんなことになった以上、懲戒解雇にせざるを得ない。悪く思うなよ」
「……はい」
ほとんど口を動かさずに返事をする。
「君尾には感謝しろ。退職するつもりだったらしいが、もう少し残ってくれることになった」
「そう……ですか」
罪悪感から、とりあえず返事だけした。
世良はため息をつくと、千里をじっと見つめる。
「それにしても、本当にやったのか? 桐山が罪を犯すような人間だとは思えないんだが」
「逮捕されたのが証拠です」
「……そうか。じゃあ、元気でな」
世良が一切冗談を言わなかったという事実が、自分がしたことの重大さを再実感させた。
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