交渉成立

 唯衣がその日の仕事を終えてスマートフォンの通知を確認すると、大量に香折から着信が入っていた。

 ただごとではない。折り返すとすぐに香折は出た。


「どうしたんで――」


『大変です。桐山さんが逮捕されました』


「え?」


 最初は逮捕というのは何かの暗喩かと思ったが、口調からは冗談を言っているようには感じられなかった。つまり、本当に千里が逮捕されてしまった……?


『冗談じゃありません。今すぐに来てください』


 ボイトレのレッスンを入れていたが、キャンセルして賃貸へ向かうことにした。


   ◇  ◇  ◇


 唯衣は現地に着くと、香折の部屋へ向かう前に、千里の部屋のドアの前で立ち止まった。もちろん、何か異常は見当たらない。

 ドアの横に取り付けられているボタンを押してみる。これで千里が出てくれば悪趣味なイタズラということで終了だ。しかし、1分ほど待ってみても誰かが出てくる気配はなかった。


 本当に逮捕されてしまったのだろうか。香折の部屋の前へ向かい、ボタンを押す。

 香折と一緒に千里が現れるのを期待したが、出てきたのは香折だけだった。


「とりあえず上がってください」


 部屋に上がると椅子を勧められたが、大人しく座っている気にはなれなかった。


「逮捕ってどういうことですか」


 千里が犯罪に手を染めるなんて到底考えられない。今でも全く信じられなかった。


   ◇  ◇  ◇


「……怜ちゃんは桐山さんの本当の妹ではなく、家出少女なんです」


「え……?」


 嫌悪感。最初に抱いたのはその一言だった。

 言われてみれば、確かに2人は全然似ていない。それに自分の兄を「お兄さん」呼ばわりは不自然だ。汚らわしい場面を想像してしまい、嫌悪感で表情が歪む。


「誤解しないでくださいね」


「え?」


「桐山さんはきっと怜ちゃんが本当に困っていたから家に置いていたんだと、少なくとも私は思っています。だって私たちの知ってる桐山さんはそんな人じゃないですよね?」


「……そう……ですね。ごめんなさい」


 香折の言う通りだった。一瞬でも千里のことを疑ってしまった自分が嫌になってくる。


   ◇  ◇  ◇


「いいえ。恋人が逮捕なんて冷静になれないのは当然です」


 香折は一瞬笑顔を見せたものの、すぐに険しい顔に変わり、顎に手を当てる。


「しかし解せないですね。普通に考えると、誰かが通報したと考えるべきでしょうが、今は事なかれ主義がまかり通っています。『ちょっと怪しい』くらいで通報するのは考えにくいです。誤認逮捕だったら訴えられるリスクもありますし」


「つまり、確信があって通報した可能性が高い」


「その通りです。そして、私の知る限り怜ちゃんが家出少女だと知っているのは私、そして詠さん。さすがに詠さんは除外して問題ないでしょう」


   ◇  ◇  ◇


「……すみません。私これからまた事務所に行かなきゃいけないので帰りますね」


「え? 唯衣さん?」


 香折の呼び止める声を無視して家を飛び出すと、詠に電話をかけた。


『もしもし』


「今どこにいますか?」


『家だけど』


「じゃあ今から行きます」


 詠の返事を待たずに電話を切り、唯衣は駅に向かって走り出した。


   ◇  ◇  ◇


 ドアを開けて詠が顔を出すと、唯衣は単刀直入に尋ねた。


「千里が逮捕されました。怜ちゃんのことを通報したの、詠さん……じゃないですよね?」


「私だよ」


「え……」


 全く躊躇する様子なく、あっさり詠は認めた。


「未成年を匿うのは犯罪だよ? 通報するのは当然」


 確かに、法律上では犯罪だ。しかし千里と詠は全く接点がないわけではない。せめて事情を聞いてからでも……と唯衣が思っていると、詠はスマートフォンの画面を唯衣に見せてきた。

 そこには、千里と唯衣が映っていた。


「声優を引退して。女優を続けるのは見逃してあげる」


   ◇  ◇  ◇


 つまり詠が言いたいのは、もし今後千里が逮捕されたことが報道され、この写真が流出したら犯罪者の恋人という最悪の印象がついてしまうぞ。ということなのだろう。

 しかし詠との取引に応じるということは、千里を裏切るということである。


 だが、千里に対して怒りもあった。どうしてそんな大事なことを言ってくれなかったのか。事情があるなら相談してほしかった。そしてどうすればいいかを一緒に考えさせてほしかった。


 もはや怜が家出少女だとかどうでもよくて、大事なことを内緒にされていたこと自体が腹立たしかった。

 自分だけ裏切られっぱなしなんて嫌だ。


「……分かりました」


「じゃあ、交渉成立だね」


 唯衣の心が、千里から離れた瞬間だった。

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