オファー
千里は部屋の隅々を掃除したうえで、唯衣がやってくるのを待ち構えていた。
怜は香折と詠とで遊びに行っているため、今家には千里しかいない。
先日のこともあって、一人でいるとネガティブなことを考えてしまう。あぐらを組み、瞑想の真似事をしてみるが、特に効果はない。
それでも呼吸に意識を集中していると、約束の5分前に唯衣がやってきた。
前回とは違い、『唯衣らしい』雰囲気だったが、スカートが短い。黒タイツを履いた足が描く曲線を、何度も目でなぞってしまう。
「なにか落ちてるの?」
唯衣は千里の視線の先、つまり唯衣の足元を見る。
「あ、いや、埃が落ちてるかと思ったんだけど違ったみたい。上がって」
唯衣は部屋に上がると、以前家に来たときと同じようにベッドに腰掛けた。以前とは違って今は恋人同士だ。変に意識してしまい、みるみるうちに心拍数が上がっていく。
「これはまだどこにも発表されてない情報だから絶対に内緒にしてほしいんだけど」
「え? うん」
「『ベクタースター』のリメイクが作られることになって、ヌルの声は私なんだ」
「え……?」
ベクタースターはどちらかというとマイナーな作品で、放送されてからまだ5年しか経過していない。だからリメイクというだけでも驚きなのに、メインヒロインのヌルの声を唯衣がやるというのだから、千里は一瞬唯衣が自分を騙しているのではないかと思ってしまったほどだ。
「それで、一回一緒に見返したいなって思って」
今日は唯衣の提案で『ベクタースター』を一気見する予定で、千里は理由を察した。
「なるほど……それならこれだね」
千里は『ベクタースター 完全初回生産限定盤 Blu-ray BOX』を収納から取り出した。
1話が収録されているディスクをプレイヤーにセットし、唯衣の隣に座る。
ベクタースターのあらすじは、記憶喪失のヒロイン――ヌルが巨大ロボット――ベクタースターに乗って主人公――裕一の前に現れ、2人はヌルの後を追って現れた宇宙人との戦いに巻き込まれていく――というものだ。
裕一とヌルが少しずつ惹かれ合っていくなか、終盤にヌルは記憶を取り戻し、ヌルの正体は地球侵略先遣隊の1人であり、宇宙人の仲間ということが判明する。
ボーイ・ミーツ・ガール、そしてセカイ系のエッセンスを含んだ作風で、千里や唯衣のように刺さる人には刺さる作品だが、商業的には失敗に終わった。
『――つまり、君は宇宙人ってこと?』
画面の中では、主人公の裕一が巨大ロボットの中から現れたヌルに正体を尋ねていた。
『違います。私は宇宙人ではありません。私は縺医?縺ェ縺ェ縺倥e縺??縺。縺帙>縺?sからやってきた繧「繝です。そのような総称的な呼び方は……あれ、うまく翻訳できていませんね』
『やっぱり宇宙人じゃん』
「ふふ」
「フッ」
唯衣と千里は同じシーンで笑い、無意識にだろう、2人はお互いを見ていた。視線が合い、唯衣が微笑み、千里も笑みを返す。
その後は視線も会話も交わすことなく無言でベクタースターに見入り、休憩を挟むことなく最終話の後半に差し掛かっていた。
ベクタースターは強敵との戦いに勝利したものの、片腕はもげ、全身に亀裂が入り、どう見てもまともに戦える状態ではなかった。しかしレーダーは数える気をなくすほどの大群が接近していることを告げている。
出撃してもしなくても、未来は変わらない気がしたが、ベクタースターに乗り込もうとした裕一をヌルが突き飛ばした。
『ヌル!?』
『地球人ってのはみな知能指数が低いんだね。縺医?縺ェ縺ェ縺倥e縺??縺。縺帙>縺?s人の私が地球人に心を許すわけないでしょ』
『そんな……』
『さようなら。そこで地球最後の日を見てなさい』
『ヌル! 待ってくれ!』
裕一の呼び止める声をかき消し、ベクタースターは飛び去っていく。
しかしヌルの言葉はすべて嘘で、裕一、そしてこの地球に対してヌルは愛情を抱くようになっていた。そんなヌルが取った行動は、ベクタースターに搭載されている自爆装置を作動させること。ヌルは自分の命を賭け、裕一以外には知られることなく地球を守ったのだった。
「ずっ……」
「ぐすっ……」
最終話を見終えた千里と唯衣の顔は涙が氾濫していた。
唯衣の前で恥ずかしいという思いはありつつも、涙が止まらない。
千里はベッド脇に置いてあった箱ティッシュを手に取り、2人の間に置いた。
しばらくの間、お互い無言で涙を拭い、鼻をかみ続ける。
「……そういえば前に無心でキーボード叩いてるところ見て裕一みたいって言ってたよね」
気まずさをなんとかしたくて発した、脈略のない一言だった。
「うん」
「今の仕事してるのも裕一がきっかけなんだよね」
裕一は天才プログラマーという設定で、作中でヌルの持っていた翻訳機を使用してベクタースターのOSを改良してしまったほどだ。
それは遅れてやってきた中二病だった。千里は作中の裕一を見てかっこいいと思ってしまい、最初はマイコンから始まり、気がつけばWebの世界へ来ていたのだ。
「……私たち、ベクタースターで人生が決まっちゃったんだね」
その時見せた目を赤くした唯衣の笑顔を、千里は一生忘れられないだろうと思った。
唯衣は雲の上の存在で、今一緒にいられるのは異常事態。いつかきっと唯衣はヌルのようにいなくなってしまう。そう思っていたが、自分たちの間にはベクタースターがある。
唯衣に触れたい。唯衣と一緒にいてもいいと許された気がして、唯衣のことが愛おしくてたまらなくなってきた。
練習の成果を見せるとき。おずおずと手を伸ばし、唯衣の手をつかもうとしたものの。
「ねえ」
「あ」
唯衣が体を動かし狙いが外れてしまい、手が着陸した先は、唯衣のふとももだった。
黒タイツの手触りと、唯衣のふともものやわらかさ。そして体温。
無意識のうちに、揉み、さすってしまっていた。
「あ、や、あ、ごごごごごごめん!!」
熱いヤカンを触ってしまったかのように勢いよく手を離す。
「……やっぱり、黒タイツが好きなんだね」
「やっぱり……?」
「怜ちゃんが『お兄さんは黒タイツが大好きなので足を出したほうがいいですよ』って言ってたから」
そういえば以前怜に FAN●A と D●Site の購入履歴を覗かれていたことを思い出した。
「え、いや、なんていうんだろう。その、性的な欲求をもよおすというより、やはりなんていうか、黒という色のおかげで足の輪郭が際立つことでより足の曲線が強調されるというか、『透け』のグラデーションのおかげで足を曲げ伸ばしするだけで視覚的な変化が起きて……いやこれも違うな」
弁解どころか、むしろ余計気持ち悪いことを口走ってしまう千里。
「よく分からないけど、ホントに好きなんだね」
「いや、人並みっていうかなんというか男ならみんな目が行ってしまうといいますか?」
「じゃあ千里も好きじゃないの?」
「はい、好きです……」
本当は好きどころではないのだが、そこは千里なりの意地だった。
「じゃあ、膝枕してあげようか? 怜ちゃんも『膝枕してあげたら喜ぶと思います』って言ってたし」
弱みだけでなく、性癖まで握られてしまっている事実に思わず苦々しい顔つきになってしまうが、当然してもらいたい。
「じゃ、じゃあ、お願いしようかな〜」
「うん。はい、どうぞ」
唯衣がわずかにスカートをまくり上げる。程よく肉の付いた2つの山に、視線が吸い込まれていく。
抗うすべはなかった。千里が唯衣に背中を向け、横向きでふとももに頭を乗せた次の瞬間。頭を始点として、体が溶けていきそうなほどの快感が全身に走った。
ふとももは千里の頭を抱きかかえるかのように優しく受け止め、黒タイツ越しに伝わってくる体温は、意識が遠のいていきそうな温かさだ。そしておそらく香水と思われる甘い香りが漂ってくる。
桃源郷はこの2つの山あいに存在していたようだ。
「大丈夫? 硬かったりしない?」
千里が無言だったからか、頭上から不安そうな唯衣の声が聞こえてくる。
「……一生こうしていたい」
「そう。だったらよかった」
千里が至近距離にいるからか、唯衣は『だ行』が『た行』に聞こえるようなささやき声だ。
それが耳を撫でられているかのように心地よく、「それいいかも」とつい本音がダダ漏れになってしまう。
「千里」
「オッ」
恋人であり、人気声優速水唯衣の生(?)ASMRだ。快感でおかしな声が出てしまった。
「大丈夫? やめたほうがいい?」
「いや……むしろお願いします」
「素直だね」唯衣は千里の頭を手ぐしをかけるようになで始めた。「よしよし」
これは以前購入した音声作品と同じシチュエーションだ。もしかしてこれも怜の入れ知恵だろうかと思っていると、
「これじゃ兄さんが弟みたいですね」
セリフまで再現してくれた。こんなの知ってしまったら、もう物足りなくて音声作品は聴けないかもしれない。
もはや『人生あがり』という気までしてくる。もうこのまま死んでしまっても構わないかもしれない。
気がつけば千里の意識は闇に落ちていった。
「……ねえ」
千里は唯衣に体を揺すられ目を覚ました。
「……こかぁ、天国?」
「現実。ちょっと足が痛くなってきたから」
「そんなに寝てた?」
「30分くらい」
「ごめん、もう起きるよ」
人間の頭は重い。そんなものがふとももに30分も乗っていれば当然痛くなってくる。
千里は地に張った根を引き剥がすような思いで起き上がった。
横で足を揉む唯衣を見てマッサージしようか、と言おうと思ったがさすがに気持ち悪いのでやめた。
それにしても頭がボーっとする。
「そんなによかった?」
「もうこの世に悔いはないかも」
「オーバーだな」唯衣は苦笑を浮かべる。「でも、この世には私がいることを忘れないでね」
唯衣は体を横に傾けると、千里に体を預けてきた。
反射的に千里は背筋を伸ばし、唯衣の体を支える。
膝枕をしているときも思ったが、唯衣と触れ合っていると、自分の存在が許されたような気がしてくる。世の中の彼女持ちはこんな感覚を毎回味わっているのだと思うと、そりゃどいつもこいつも自信ありげに見えるはずだと納得だ。
千里は手を唯衣の肩に回し、抱き寄せる。
ふと、今唯衣はどんな表情をしているのか気になり視線を向けると、顔を上げた唯衣と至近距離で目が合った。
恋人同士が至近距離で見つめ合ったら、やることは一つしかない。
無論していいのかという葛藤はあった。しかし、ここで何もできなきゃ男じゃない。
千里の決意を感じ取ったのか、唯衣は目を閉じた。もう、ここでヘタれる選択肢はない。
意を決し目を閉じ、唯衣の唇へ自分の唇を近づけ――ようとしたところで、床に置いていた唯衣のカバンから音が鳴った。
「あ、これ、仕事の電話」
千里が目を開けたときには、すでに唯衣は目を開けていた。唯衣から離れると、唯衣はカバンからスマートフォンを取り出し、誰かと話し始める。
「もしもし。……うん、大丈夫。うん。うん…………え? 分かった。また、後でね」
千里と話すときと同様にタメ口だが、口調により遠慮がないように千里は感じた。仕事の電話と言っていたからマネージャー――つまり唯衣の母親だろうか。
「どうしたの?」
「別のドラマの『主演』のオファーが来たって」
「えっ……」
さっきまで胸の中に溢れていた愛おしさは、現実に冷まされてしまった。
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