まだ早い

 12月に入り、その日も千里は駅前で唯衣とデートの待ち合わせをしていた。

「なっ……」

 現れた唯衣の姿に、千里は口をあんぐりと開けて固まってしまっていた。

 普段と全然雰囲気が違っていたからだ。


 ニットの上にダウンジャケットを羽織り、膝丈のプリーツスカート。細い足は黒タイツに包まれ、なんというか、普段が良家のお嬢様なら、今日の唯衣は年相応のおしゃれ好きな女の子、といった具合だ。


「もしかして変?」

 唯衣は心細そうな声で千里に尋ねた。


「いや全然。なんというか……」

 笑みを浮かべ、唯衣の不安を取り除こうとした。よく見ると、髪の毛も普段と違ってウェーブがかかっている上に、(多分だが)メイクも違うような気がした。


「なんというか?」

「……すごいなって」


 女の子って服装とメイクでここまで変われるんだなと驚きだった。しかし千里の回答は唯衣には不満だったようだ。


「すごくないよ」

「えっ、いやでも」

「かわいいか、かわいくないかで答えて」


 ――その発言自体がすでにかわいいとは言えなかった。

 もちろんかわいいに決まっている。しかし、その一言がなぜだか恥ずかしく仕方がない。本当なら君といられて幸せだと、全身全霊で表現したいくらいだが、言葉を発するのが怖かった。


「……やっぱり似合ってない?」

「っ……! そんなことない。かわいい。かわいいよ。なんていうか、夢なんじゃないかって思えるくらいで、これが夢ならずっと見続けたいくらい」


 反射的に、脳の検閲をすっ飛ばした千里の無加工な感情が飛び出した。


「……それは言い過ぎ」

 恥ずかしかったのか、唯衣は視線を外し、困り顔で毛先を弄り始めた。その仕草もかわいくて、ついまた「かわいい……」と口に出てしまう。


「それより、今日は水族館に行くんだよね」

「そうそう。お酒が飲める水族館。珍しくない?」

「……へえ、おしゃれだね」

 なんだか反応が鈍い。

「もしかしてお酒好きじゃない?」

「ううん、そんなことないよ。行こ?」

「あ、うん。こっち」

 千里の先導で2人は目的地へ向かって歩き出した。


   ◇  ◇  ◇


 水族館の中は暗かった。その暗さも相まって、ゲートを通り抜けた直後は水族館というより、テーマパークによくある、合羽を被らないとびしょ濡れになってしまうアトラクションのりばのような雰囲気だ。


 そして水槽エリアに足を踏み入れた瞬間、唯衣は「わあ……」と感嘆の声をもらしていた。天井から床まで、プロジェクターを使って夜空に星が輝いているように照らされていて、よく見ると、星に見えるものは雪の結晶の模様をしていた。なんとも幻想的だ。


 2人が進路にならい進んでは立ち止まって水槽を見るを繰り返しているうちに、ブラックライトで照らされた売店が現れた。


「ここだよ。どれにする?」

「うーん……千里と同じのでいいかな」


 またケーキのように悩むのかと思いきや、なんとも消極的な選択をする唯衣。


「じゃあこの前お茶した時は払ってもらったし、今回は俺出すよ」


 あのときのことを思い出すと、随分と遠いところに来たような気がしてならない。代金を支払うとカクテルを受け取り、唯衣に手渡す。


「ありがとう……」


 手にした唯衣は笑みを浮かべるが、なんだかやはり固い気がする。カクテルを一口飲んでみると甘くて飲みやすかった。ほんのりアルコールの風味が漂う程度で、ほとんどジュースだ。


「うん、あまりお酒っぽくないかも」


 唯衣も一口飲んで言う。口にあってよかったと思いながら歩いていくが、途中で唯衣の様子がおかしくなった。表情からして、立っているのが辛そうだ。


「大丈夫?」

「うん、平気だと……思う」


 唯衣の無理して作ったような笑みは、明らかに大丈夫に見えなかった。


「そこで休もう」


 ちょうど壁沿いにベンチがあった。千里は数秒自分の手のひらを見つめていたが、唯衣の背中に手を当て、ベンチまで誘導し座らせると、「どうしたの?」と尋ねる。


 唯衣はうつむくだけで、答えようとしない。そんな唯衣を見て千里は思った。もしや、毎月女性にだけ起こる『あれ』だろうか。それであれば明らかに体調が悪いのに答えようとしないのも納得だ。きっとこの時期にはお酒もご法度なのだろう。「お酒が飲める」と言って反応が微妙だったからと考えると辻褄が合う。


 しかし、だとすると自分にはどうしようもない。唯衣も自分には言いづらいだろう。千里が視線をさまよわせて悩んでいると、唯衣が口を開いた。


「……っちゃった」

「……え?」

「酔っ……ちゃった」

「え、あれだけで?」


 唯衣は無言で頷いた。千里もお酒に強いわけではないが、それでも気持ち顔が温かくなったくらいだ。どうやら唯衣は尋常ではなくお酒に弱いようだ。


「はあ……」


 思わず『安堵の』ため息が出る。


「ごめんなさい」


 唯衣の謝罪を聞いた直後、千里は自分の失態に気づいた。このタイミングでため息なんて、唯衣にはイラついているように見てしまうだろう。


「あっ、これは怒ってるんじゃなくて安心のため息というかいや安心しちゃダメだえー……っと、謝らなくて大丈夫。怒ってないから。なんていうか……お酒、弱いんだね」


 唯衣は無言で頷く。


「でも、この前飲み会行ってたよね?」

「あのときは飲んでなかったから」

「マジか……というか言ってくれれば」


 やらかしてしまった。ここまで下戸だと分かっていれば他の飲み物にしていただろう。


「ごめんなさい。せっかく探してくれたから言いづらくて。……お酒弱いって言うのも恥ずかしかったし」


 千里にはなんとなく後者が本音のような気がしたが、逆にそれがよかった。クールで真面目そうに見えて甘いものには目がないし、意外に意地っ張り。まるで愛おしさの擬人化のような存在だ。


「大丈夫だよ」

「でも、こうやってせっかくのデートも台無しにしちゃたし」

「うーん……」


 千里は腕を組んだ。思った以上に唯衣は気に病んでしまっているようだ。どうしたものかと考えていると、一つアイディアが浮かんできた。


「俺うどんが好きで、トマトが苦手なんだよね」

「急にどうしたの?」

「お互いの好きなものと苦手なものを知っておけば、今日みたいなこと防げるかなと思って」


「……笑わない?」

 唯衣は千里をじっと見た。


「笑わない」

 千里も唯衣を見返す。


「……好きなものは甘いもので、苦手なものはお酒と……にんじん」

「フフッ」

「笑わないでって言ったよね?」

「いや、ごめん。いい意味で予想の斜め上を行くものが返ってきたから」


 今、この瞬間があまりにも幸せで、笑わずにいられなかった。


「私どんなふうに思われてるの?」

「うーん、クールで向上心があって、おしゃれなカフェで読書してそう?」

「やっぱりそういう女の子の方が好き? がっかりした?」


 また発言内容をミスってしまったかもしれない。千里は答えを考える。


「……まあ、憧れはするけど、今の唯衣のほうがなんていうか、いいなって思う」

「いいな、ってどういうこと?」

「……かわいい、ってこと」


 やっぱり面と向かって「かわいい」と言うのは気恥ずかしい。


「それならいいかな」


 とりあえず納得してくれたようだ。唯衣のことを一つ知るごとに、愛しさが増していく。ずっとこの時間が続けばいいのに、と思わずにはいられない。


 ふと、唯衣が体を預けてきた。幸福感で胸が暖かくなってくる。本能がそうさせるのか、無意識のうちに唯衣の肩に手を回していた。


 所構わずいちゃつくカップルを見かけると「時と場所をわきまえろよ」と憤りを覚えていたが、今なら気持ちがわかる。周りのことなんてどうでもよくなってしまうから。


   ◇  ◇  ◇


 2人が出口へと向かうと、一部の客に対してパンフレットを渡しているスタッフがいた。なんとなく自分は対象外だろうと千里が思いながら出口を通り抜けようとすると、千里にも渡してきた。


 無視するのも抵抗があったので受け取ると、なんと結婚式場のパンフレットだった。


「何のパンフ?」

「あ、いや唯衣には早いから」


 反射的に自分の後ろに隠す。いくらなんでも気が早いと承知の上で、唯衣とならいい夫婦になれるかもなんて考えてしまったことはあるが、しかしまだ早い。あまりにも早い。


「……あ、まだ少し残ってたかも」


 パンフレットをどう処分しようか考えていると、不意に唯衣が眉間を抑えた。


「え、だいじょ――」


 千里がパンフレットを隠すのをやめて唯衣に近寄ると、唯衣は千里の手からパンフレットを奪い取った。


「これでも新人女優だか……あ」


 得意げな笑みを浮かべていた唯衣だったが、表紙を見た瞬間真顔に戻った。


「……たしかに私たちには『まだ』早いね」

「……はは」

「……ふふっ」


 直後、2人は声を揃えて笑った。


 まだ。とっさに口出てしまっただけで、他意はないのかもしれない。そして実際早い。だけど嬉しかった。唯衣も心のどこかで思ってくれているのかもしれないと思うと、胸が熱くなってくるのだった。


   ◇  ◇  ◇


 同日。詠は駅直結の商業施設内を歩いていた。今日はイベントがあり、その帰りだ。何か買うものがあるわけではなく、気分転換に来ていた。


 イベント出演はやはり疲れる。自分自身を演じるのは、演技であることは変わりないのに、心がすり減っていくような感覚があるからだ。


 以前イベントで唯衣と共演したときのことを思い出す。自分と違って無理している様子もなく、演技でありながら自然体だった。唯衣は子役出身とはいえ、声優としての芸歴はさほど変わらない。なのに実力差は明白だ。


 気がつけば余計なことばかり考えてしまっていた。これでは気晴らしにならない。帰ろう、と思ったところで前方に見覚えのある2人がいることに気づいた。


 千里と詠だ。もしかして、付き合っているんだろうか。千里のようなヘタレが唯衣をものにしてしまったなんて信じられないが、遠目から見る限りは親密な関係に見える。


 気がつけば、スマートフォンで写真を撮っていた。これをどこかへ持ち込めば……と思ったところで、自分が恐ろしいことを考えていることに気づき、頭を左右へ振った。


 写真削除の確認画面を表示させる。あとは『はい』を押してなかったことにするだけ。


「……」


 しかし、できなかった。

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