こちらこそ

 千里はにやけ顔でキーボードを叩いていた。

 軽快なタイピング音だけでも、千里が上機嫌なことが伝わってくる。


「デートが上手くいって上機嫌ですね」

 呆れ顔の怜がベッドに腰掛けながら言う。

「別に普通だけど?」

「速水さんと言い合いになったときはこの世の終わりみたいな顔してたのに」

「……そもそもデートじゃなくて、東さんの誕生日プレゼントを買いに行ってただけだから」


 実際あの時はこの世の終わりに思えたのだから仕方がない。

 恥ずかしくなってきた千里は手を止め、表情からは笑みが消えていく。


「そうですか。男女が双方合意の上で予定を決めて出かける。世間一般ではデートと呼ぶと思いますが、桐山家ではそうではないんですか?」

「桐山家でもそうだよ」

「なのにもかかわらずお兄さんは頑なにデートだと認めない。まさか実はデートがうまくいかなかったとか? しかしそうするとお兄さんは失敗したのにうまくいったと思いこんでいる異常者になってしまいますね……」

 怜は軽く握った拳を口元に近づけ、何やら考え始めた。

「異常者って……あれ」

 机の上に置いていたスマートフォンが震え、ディスプレイを確認すると、意外な人物からメッセージが届いていた。


   ◇  ◇  ◇


 翌日のお昼時。

 千里は会社近くのカフェで、かつて片思いしていた女の子、国山久美と向かい合って座っていた。

「ごめんねー。呼び出しちゃって」

「いや、大丈夫。会社からここまですぐだし」


 千里は返答しつつ、なぜ久美が呼び出してきたのかを考えていた。

『久しぶりに会えたしちょっと話したいな』

 これは久美から送られてきたメッセージの内容だ。

 本当に理由は文字通りという可能性もあるが、それだけとも考えにくく、結局千里は好奇心で久美と会うことにした。


「高校出てすぐ働いてるの?」

「いや、専門行ってからだよ」

「そうなんだ。どういう系?」

「Web系? かな」

 疑問符がついているのは、久美に通じるか一瞬迷ったからだ。

「Web? ITってことかすごいね。私には絶対ムリだな〜。どういうことやってるの?」

 久美は身を乗り出し、興味津々といった様子だ。

「まあ、サービスの開発……かな?」

「すごい。責任重大だね。でもそれだけ大変なら結構もらってそう」


「どうかな? まあでも同年代の平均よりは――」正直に答えようとしたところで思いとどまった。「……いや、そうでもないかな。責任ばっかりだよ」

「そうなんだ、大変だね。私もいっつも金欠でさー。今の彼氏とはだいたい割り勘だし」

 久美は相変わらず笑顔だったが、先ほどまでとは打って変わって、どこかそっけなく感じた。


「そうなんだね」と相づちを打ちつつ、なんとなく久美が呼び出してきた理由が分かった気がした。きっと収入次第で今の彼氏から乗り換えようと思っていたのだろう。

 ショックだったが、――彼女は元々こうだった。

 自分のような人間にも気さくに話しかけてくれて、狙ってやってるのか分からないが男が悦ぶようなことを言ってくる。

 だからいつしか彼女を『理想の姿』で見てしまっていた。

 初めて出会った時はあんなに眩しかったのに、今はもう輝いては見えない。

 青春が、一つ終わった気がした。


   ◇  ◇  ◇


 千里が一つ青春が終わったことを実感していた5分前のこと。

 午前の収録を終えた唯衣は、あすかと合流しカフェに入った。

 お昼時のピークを過ぎても店内は混んでいるが、席は空いていたのでスタッフに案内され4人がけの席が続く通路を歩いていると、客の中に見知った顔があった。千里だ。

 声をかけようかと思ったが、向かいに見知らぬ女性が座っている事に気づいた。

 パッと見では親しそうな関係に見える。

 すぐに視線を戻し、素通りした。なんとなく視界に入れたくなかったからだ。

 しかし案内された席からは2人が見える。あまり見るものじゃないと分かっているのに、気になってしまいもう一度視線を向けた。

「……楽しそう」

 自然と独り言が漏れた。

 別に千里が誰と談笑していようが関係ないはずだが、少しだけ、嫌だなと思ってしまった。


「何か言った?」

「ううん。何も」

「そう。それよりあの件、考えてくれた?」

 あの件とは、女優のことだ。唯衣は無言であすかから視線を外した。

 答えようとしない唯衣に、あすかは言葉を続ける。

「一度でいいからやってみない? 知り合いのツテで1話だけのゲストキャラの話が来ているの。拘束時間もそこまで長くないし、あなたの経験にもなると思うわ」

 もし女優の仕事を受けたら千里はどう思うのだろう。つい考えてしまった。

「天下を取れますよ」と言いつつも、表情は硬かったことを思い出す。


「……一回だけならいいよ」

 理由は分からないが、千里を困らせたかった。


   ◇  ◇  ◇


 数日後の14時03分。

 都内の河川沿いにある公園でドラマの撮影が行われていた。

 シーンはベンチに座る唯衣演じるキャラクターに、主人公が話しかけるところから始まる。

 監督の小川はカメラの前で撮影を待つ唯衣を一瞥した。

 顔立ちは整っていて他の出演者から浮いているようには見えないし、声優なだけに滑舌に不安はないだろう。

 しかし、誰かのコネの、そのまた誰かのコネでゲスト出演することになった唯衣に対し、小川はどちらかといえば不安を抱いていた。

 俳優が声優をやると抑揚が足りなく感じてしまうように、逆もまた然り。声優はなまじ感情を乗せた声を出せる分、セリフだけで演技をしようとしてしまう。

 売れない俳優が食い扶持のために声優の仕事をしていたのは過去の話。分業が進んだのはいいことだが、両方できる人間は当然減った。

 小川の中での唯衣への前評判は、アイドルに演技をやらせるより気楽、くらいのものだった。


 撮影が始まり、シーン最初のセリフは唯衣だ。

 主人公を演じる俳優――槍木進(うつぎしん)が唯衣の近くへ歩み寄る。

「誰ですか?」

 唯衣は顔を上げ、槍木を見る。

「誰だと思う?」

「知らないから聞いているんですが。ナンパでしたら迷惑防止条例違反で通報します」

 おどけたように言う槍木に対し、唯衣は顔も見ようとせずカバンからスマートフォンを取り出す。

 ナンパ男を人と思っていない袖な態度が見事に出ているが、これ見よがし感はない。

 短いセリフに地味な所作だったが、小川は内心感心していた。


 自然な演技というのは、本当に自然を演じていてはできない。

 ドラマというのは日常の一部を切り取ったものではないので、あくまで『自然風』な演技を求められる。

 不要なノイズを削ぎ落とし、自然そのままでは足りない部分は強調する。

 このバランスは才能や経験が必要で、唯衣の演技はちょうどよかった。天性のバランス感覚を持っているのだろう。

 見てくれも演技も素晴らしい。ゲストで終わりだなんてもったいない。小川はそう思わずにはいられなかった。


   ◇  ◇  ◇


 その日の撮影後。

 唯衣は歓迎会という名目で制作チームの飲み会に参加していた。

 といっても唯衣はゲストなので、今日を以てクランクアップなのだが。

 唯衣は貸し切られた店内を見渡す。他のテーブルでは大声でグループごとに盛り上がっているが、唯衣がいるテーブルは唯衣1人だ。

 本当は参加するつもりはなかったが、あすかから「参加するように」と言われて渋々参加していた。

 アニメの打ち上げに参加することもあるが、お酒に強いわけではないし、飲み会のノリがそもそも唯衣は苦手だった。手にしているグラスの中身もオレンジジュースだ。


 そろそろ帰ろうと思った唯衣が立ち上がろうとすると、頭上から声が聞こえてきた。

「あまり楽しめてないみたいですね」

 声の主に視線を向けると、やや髪の長い男が微笑を浮かべていた。

 彼の名は、今日唯衣と共演していた若手俳優の槍木進。ファンからは『ヤリシン』という若干危ないあだ名で呼ばれている。

「そうですね、あまり飲み会が好きではないので」

「そう言わずに、少しだけ付き合ってくださいよ」と槍木は唯衣の横の席に座った。「ふだんは声優されてるって本当ですか? 今日すごくやりやすかったです」

「ありがとうございます」

 演技を評価してもらえたのは嬉しかった。リテイク数は少なかったが、ゲストに時間をかけていられないという判断の可能性もあったからだ。


「僕も前に洋画の吹き替えやったことあるんですけど、エゴサしたら『下手くそ。声はブサメン』って叩かれてて。だから両方できるなんて嫉妬しちゃいますよ」

 槍木は初対面特有の探りを入れるような態度ではなく、すでに何度か顔を合わせたことがあるかのように親しげな態度だ。

「私はゲストですから。メインを張ろうと思ったらまだまだです」

「謙虚ですね。休みの日も両立させるためにみっちり練習してたんじゃないですか?」

「いえ。人並みだと思います。遊びに出かけたり、買い物に行ったり。普通ですね」


 さりげないプライベートに踏み込んだ質問に、唯衣はつい答えてしまう。

「そうなんですね。やっぱり声優仲間とですか?」

「私はそうでもないですが、他の人は休みの日に一緒に遊びに行ったりするみたいです」

「へえ……。やっぱりどこも同業者同士でつるむ事が多いんですね。声優同士で付き合うことも多いんですか?」

「そうですね、それなりにあると思います」

「速水さんはどうなんです?」

「私は……あんまりですね」

 槍木の表情が一瞬ヒクついた。

「そういう業界内の話もっと聞きたいですね。ここだとちょっとうるさいですし、2人で抜け出しませんか。いい雰囲気のバーを知ってて」

「うーん……まあ、いいですよ」

 そして2人は一軒二軒とはしごし、夜の街にある『お城』に消えるのであった……。


   ◇  ◇  ◇


「うわあああああああああああ!!!!」

 夜。千里の家。

 怜から唯衣が歓迎会に行っているという話を聞かされた千里は、想像力を働かせ過ぎて思わず絶叫していた。

 望んでそんな想像をしようと思ったわけではない。なのに気がついたら頭が勝手に想像をし始めていた。もう太郎の売り子をするのはやめたほうがいいかもしれない。

 ちなみに唯衣が歓迎会という名目で飲み会に行ったのは本当だが、そこで繰り広げられていた先ほどまでのやり取りは全て千里の想像(妄想)である。

「何を考えてたのか分からないですけど、近所迷惑ですよ」

 パニック状態の千里に対し、怜は特に動じた様子もなくベッドの上で本を読んでいた。

「いや、だってさ、イケメン俳優なんて女の子をいかにホテルに連れ込むかしか考えてない生き物だよ?」

 さすがに2人で夜の街に消えるのはないにしても、ゴールデンタイムのドラマなんて陽キャの集まりに決まっている。事あるごとに獲物をおびき寄せる飲み会を開いているに違いない!

「それは真面目に俳優やってるイケメンに失礼です。謝ってください」

「いやでもさ」

「速水さんはそんな軽い女ではありません。それはお兄さんも分かっていますよね?」

「まあ……確かに」

 怜の一言で千里はやっと落ち着いた。

 確かに言われてみれば、唯衣は少なくとも無警戒でついていくような女性ではないだろう。

「はい、じゃあ夕飯にしましょう。益体もないこと考えてしまうのは空腹のせいです」

「……そうかな?」

 千里は疑問を抱きながらも、怜が近所で買ってきた弁当を2人食べ始めた。


   ◇  ◇  ◇


 22時前。

 香折は机の前でイラストを描いていた。

 納期間近だが、まだ完成は先だ。今晩も睡眠時間を削るしかなさそうだ。

 冷蔵庫にまだエナドリが残っていたかな……と思った矢先、電話が鳴った。

「どうしました?」

 電話に出ると、開口一番相手に質問する。

『遅いところごめんなさい。今からちょっと家に行ってもいいですか?』

「はい、もちろんです」

 こんな時間にかけてきたのだ。きっと何かあったのだろう。香折は笑顔で即答した。


 すでに移動途中だったのか、すぐに唯衣は家にやってきた。

 ミネラルウォーターのペットボトルを渡すと、一気に半分飲んでしまった。

「いい飲みっぷりですね」

「もしかして、仕事中でした?」

 唯衣の視線は机の上の液タブに向けられていた。

「いえ。もう終わろうと思ってたところです。それよりどうしたんですか?」

 唯衣が話しやすくなるようにと、椅子に座り意図的に笑みを作る。

「……」

 唯衣はペットボトルを持ったまま、視線を床に落とす。言うべきかどうか迷っているようだ。

「言いたくないなら無理に言わなくても大丈夫です。ですが、胸の内に置き続けるのが苦しいことなら、それは言ったほうがいいと思いますよ」

「……そうですね」

 唯衣は間を空けた後、話し始めた。

「私、母からずっと『女優をやってほしい』って言われていたんです。もちろん別に演じることは嫌いじゃないですし、もともと私は子役ですから。ただ、あまり気が乗らなくてずっとなあなあにしてきました」

「なるほど」

 母親との不和についてだろうか、と思いながら相槌を打つ。

「それでこの前もカフェにいるときにまた言われて、その店には桐山さんと……知らない女の人がいました。それ見てなんかイヤだなって思ったら、以前桐山さんに女優の話をしたときに嫌そうな顔をしていたのを思い出して――女優やるって言っちゃったんですよね」

「はい?」

 予想外の発言に思わず抜けた声が漏れる。

「それで今日は撮影後に飲み会があって、主演の……槍木……進さん? に2人で抜け出しませんかって言われたんですけど、怖くなって帰ってきたんです」

「……」

 香折は無言で立ち上がった。

「どうしました?」

「私ちょっとでかけてきます。速水さんはここで待っててください」

 唯衣に作り笑いを見せると、香折は千里の部屋へ向かった。


   ◇  ◇  ◇


 もう遅い時間なのに千里の部屋のチャイムが鳴った。

 こんな時間に来る人間は1人しかいない。

玄関に向かいドアを開けると、隙間から手が伸びてきて外へ引きずり出されてしまった。

「さ、寒。ちょっと裸足なんですけど俺」

 相手は予想通り香折だ。普段はたいてい上機嫌な香折だが、今は別人のように冷めた顔をしている。

「そんなのどうでもいいです。桐山千里。今すぐうちへ来なさい。いや、来い」

「え、ちょっと……いてててて」

 香折は千里の手を掴んだまま、自分の部屋へと引っ張っていく。

 千里は裸足のまま香折の部屋へ連れ込まれ――中には唯衣がいた。

「今すぐ速水さんに謝罪してください」

「え、謝罪? 何のことですか?」

 千里が唯衣に視線を向けると、唯衣は目をそらした。

 突如家に連れ込まれ、謝罪を要求され、唯衣の様子も変。さっぱり訳が分からない。

「知らなくていいから速水さんに謝ってください」

「え、はい、す、すみませんでした」

 香折の迫力に、思わず唯衣に向かって頭を下げる。

「それだけですか? 自分の罪の重さを理解できていないようですね。本来なら指詰めモノですよ?」

 香折は腕を組み、千里を睨みつけてくる。普段とのギャップのせいか余計に怖い。

「いや、知らなくていいからって言いま――」

「……この前、カフェに女の人と一緒にいたよね」

「え」

「なんですかその反応は」


 香折の声に恐怖を感じつつも、千里は自分が連れてこられた理由を察した。まさか見られていたとは予想外だ。そして、なんと答えたものだろうか。

「いや、あれは自分の中ではなかったこというか、すでに終わったことというか」

「ああ? 自分の中でなかったことにすれば逃げられると思ってるんですか?」

「ひぇ」

 明らかに失言だった。つい情けない声が出てしまう。


「昔の同級生か何か?」

 対して唯衣は表面上では普段と変わらない態度だが、逆に怖い。

「……はい、そうです」

 すぐに香折から「それだけですか?」と追求が飛んでくる。

「……昔好きだった女の子です」

 迷ったが、正直に答えることにした。

 チラリと視線を唯衣に向けると、やっぱり特に表情に変化はない。別に不機嫌そうな顔を期待していたわけではないのだが。


「……今もその人のことが好き?」

「いえ、それはありま……ない。だから、もう会う理由はないんだけど、なんていうか……自分は『もう大丈夫なんだ』って思えるために会わなきゃいけないって思ったというか」

 香折は腕組みをやめると、

「言いたいことはなんとなく理解しました。ちなみに速水さんは桐山さんの愚行を目撃したのをきっかけに、そのまま勢いで女優の仕事を受け入れたそうで、撮影後の飲み会で嫌な思いをしたそうです」

 今度は両手を腰に置いた。

「その、嫌な思いをさせてしまってすみませんでした」

 千里は反射的に頭を下げていた。

「……別にそこまで気分を害したわけではないですし、私に桐山さんの交友関係を制限する権限はないですから」

 また敬語に戻ってしまい、視線をそらし毛先をいじる唯衣。


「まあ、桐山さんがその彼女に対して何も思っていないことは分かりました。つまり今好きな人はいない、ということで間違いないですね?」

「え? いや、いないってことはないですけど」

 逃げ道を塞がれた問いに、言葉を詰まらせる千里。

「どっちなんですか? 言えないってことは、別にその人のことを好きじゃないってことですよね?」

「違います。断じて違います」

「じゃあ言ってください」

 ここまで香折は最初から企んでいたのだろうか。逃げ場はない。もう、言うしかなさそうだ。


 千里は覚悟を決めた。

「速水……ゆ、唯衣さん……です」

「え……」

 唯衣の目が一瞬見開かれ、表情に驚きが広がっていく。

「好きならどうしたいんですか?」

 ここまで来て最後まで言わない選択肢はなかった。

「速水さん、俺と、付き合って……ください」

 部屋の空気が一気に薄くなったかのように息苦しかった。

 視界に入るものがなんなのか上手く理解できない。ただ、目の前に唯衣がいることだけは理解できた。


 唯衣は目を伏せ、1秒、2秒、3秒と沈黙が続く。やはりダメなのだろうか、と思った次の瞬間。

「……はい、こちらこそ」

 唯衣は顔を上げると、視界の端に千里を収めるように千里を見た。

「……」

 ――コチラコソってどういう意味だっけ。

 千里は緊張のあまり、唯衣の発言を音としか認識できなくなってしまっていた。意味を理解しようとしても、頭が動いてくれない。

「桐山さんおめでとうございます!!」

 香折が千里の背中を力いっぱい叩いてきた。

 人を慰めるときに背中を叩くなんて普通はしない。千里がOKをもらったことを理解した瞬間だった。


   ◇  ◇  ◇


 1.5時間後。

 唯衣は借り物のジャージ姿で香折の部屋にいた。

 ドライヤーで乾かした直後の髪の毛に手ぐしを通してみると、普段使っているシャンプーより指通りがいい気がするし、毛先を持って鼻に近づけると、いい香りがする。

「よかったらシャンプーの商品ページ送っておきましょうか?」

 ちょうど風呂場から香折が戻ってきた。

「あ、じゃあ」

「分かりました。あ、そういえば『唯衣さん』がお風呂に入ってる間にチャチャッと描いてみたんですけど」

 香折はタブレットで描いたイラストを見せてきた。


「これは……私ですか?」

「はい! 人呼んでパワード速水唯衣です」

 ディスプレイには、メカニックな鎧を着込んだ唯衣のイラストが表示されていた。

 太めのネジのようなパーツが所々にアクセントのようにあり、女性らしい曲線的なデザインでありつつも、背中には身長の倍はありそうな翼とブースターが取り付けられている。

「へえ……すごいですね」

 30分程度でここまで描けるとは、さすがプロと感心するしかなかった。


 しかし自分がモデルとなると、いくら上手くても反応に困る上に、鎖骨を始めとしてところどころ素肌が出ていて、特別露出が多いわけでもないのになんだか恥ずかしい。ちょっと美化されすぎな気もするし。

「ありがとうございます。じゃあ、このキャラに声を当ててください」

「え?」

「あ、マイクの音質は問題ないですし、バズったら広告収入は唯衣さんにお支払いします」

 さすがプロのイラストレーターだけあって、『プロへ仕事を依頼するとはどういうことか』を分かっているようだ。しかし唯衣が困惑の声を漏らした理由は別にあった。自分のイメージとは合わない気がしたからだ。

「イメージなんてぶっ壊しちゃいましょ」唯衣が無言でタブレットを見つめていると、香折が心を読んだかのようなことを言ってきた。「こういうのはインスピレーションでいいんですよ。どうせ友人同士のお遊びなんですし」

「そう……ですね」


 唯衣はマイクの前に向かい、パワード速水唯衣のキャラを考えてみる。普段アドリブなんてしないが、意外とすんなり思いついた。

「君の耳に、希望を届ける。メカ声優、パワード速見唯衣!」

「生アフレコいただきました~!」

 拍手しつつ、満足げな笑みを浮かべる香折。

「うれしそうですね」

「そりゃ人気売れっ子美人声優速水唯衣の生アフレコを目の当たりにできたんですから。無茶振りにもちゃんと答えてくれて感謝です」

「形容詞盛りすぎですよ」

 人気と売れっ子は重複表現な気がしないでもない。

「でもこれで私の絵も、唯衣さんの声も拡散されます。Win-Win だと思いませんか?」

「そうですかね……?」


   ◇  ◇  ◇


 後日、2人の合作はSNS上でバズりにバズり、香折が今まで公開してきたイラストとは一桁違うインプレッション数を叩き出したのだった。

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