早退します

 両親が亡くなった翌日だろうが、脳天気なおバカキャラを演じなければならない。それが声優という仕事だ。千里と言い合いをした翌日も、唯衣は収録に臨んでいた。

 親しい人間が亡くなった訳ではないが、仕事の意味を悩みながらする仕事も辛いものがある。とはいえ、唯衣もプロだ。表面上は普段と変わることなくその日の収録を終えると、壁伝いに置かれている椅子に腰を下ろし、ため息をつく。


「元気ないね」

 詠が唯衣の隣に座る。

「そう見えますか?」

「うん。さっきもため息ついてたし」

「今日は人が多いから酸素濃度が低いんじゃないですか? 私用事があるのでもう行きますね」

 唯衣は立ち上がると出口へ向かう。ちなみに酸素濃度とため息の回数には関係がない。


 スタジオを後にし、駅へ向かおうとしたところで、今度は凌が声をかけてきた。

「今日は普段より演技に迷いがありましたね」

「気のせいだと思います」

 唯衣にも悩み一つくらいで演技に影響が出るほどヤワではないというプロとしての自信があった。事実、監督からは何も言われなかった。しかし詠に続いて凌からも指摘されると自信が揺らいでくる。

「仕事で何か悩んでるんじゃないですか」

「……」

 何も答えることなく歩く速度を上げて凌を振り切るが、凌も速歩きでついてくる。

「僕は『声優・速水唯衣』を尊敬しています。そして僕は同業者。だからこそ、話せて、理解できることもあると思いませんか?」

「……じゃあ、少し付き合ってもらえますか」

 立ち止まり凌を見ると、凌はファンが見たら感動のあまり卒倒しそうな笑みを浮かべた。

「よろこんで。このスタジオの隣ってカフェなんですよね。そこでどうですか?」

「はい」

 唯衣は凌の後に続く。――そしてそんな2人のやりとりを、詠はたまたま目撃していた。

「へえ……」

 詠は目を細めて笑うと、スマートフォンを操作し始めた。


   ◇  ◇  ◇


 同時刻。もう1人、普段よりため息が増えていた人間がいた。千里だ。昨日唯衣から称賛された集中力はどこかに行ってしまい、今日は机の前にただ座っているのとほとんど変わらない進捗状況だ。

「はあ……」

 集中しなければと思うものの、昨日のことを思い出すと手が止まってしまう。唯衣と仲良くなりたいのであれば、ひたすら同意していても良かったのかもしれない。以前何かで読んだ記事では『女性は解決方法を求めているわけではない』と書かれていた。

「本日98回目のため息ですね」

 タブレットで本を読んでいた怜が顔を上げずに言う。

「なんで数えてるんだよ」

「多すぎるからつい数えてしまうんです。……それより」

 怜はタブレットをベッドに置いた。

「速水さんに言ったことは別に間違っていないと思いますよ。まあ、発言内容が、ってだけで、女の子への接し方としては間違いだらけだとは思いますけど」

「はあ……慰めになってないよ」

 怜のフォローと見せかけた追い打ちに再びため息が出る。

「99回目ですか」

 きっと唯衣には嫌われてしまった。もう会ってくれないかもしれない、と思うと仕事なんて心底どうでもよくなってくる。


 自然と100回目が出そうになったところで、千里のスマートフォンが鳴った。画面上には『大原詠』と表示されている。一体何の用なのだろうか。仕事中だが気にせず電話に出る。

『あ、今大丈夫?』

「はい、まあ」

 詠は外にいるようで、車の音が聞こえた。

『さっき唯衣が本木凌とカフェに向かってくところを見かけたよ』

 瞬間、心臓に痛みが走った。以前詠から『唯衣は本木凌から食事に何度も誘われているが、全て断っている』と教えてもらったのを記憶している。それなのにお茶とはいえ唯衣は誘いに乗った。自分は距離ができていく一方なのに、彼は距離を縮めていく一方。無力感が湧き上がってくる。

「そうなんですね」

 そんな心境を悟られないよう、そっけない口調で返す。

『いつもは断ってるのに、今日はなんか元気なくて口車に乗せられちゃったみたい』

 もし唯衣の心境の変化が昨日の言い合いだとしたら、自分は2人のキューピッドになってしまったかもしれない。――この前の即売会で会ったときの凌を思い出す。中性的な顔つきだが、あの手のタイプほど手が早いものだ。カフェからの食事、そして……。おかしな即売会に参加したせいか、想像力豊かになってしまったようだ。もう太郎を手伝うのはやめたほうがいいかもしれない。


 とはいえ、よく考えてみれば神の気まぐれのような偶然でたまたま唯衣と接点ができただけで、本来は関わりがあること自体バグのようなものだ。しかし、すでに唯衣とは出会い、魅力を知ってしまった。いまさら酸っぱいブドウにはできない。いつか『ご報告』を目にする日がやってきて、その時の自分はどうなるのだろうか。胃が痛い。吐き気がしてくる。

『ちなみに場所なんだけど――』

 詠が教えてくれた収録スタジオの隣にあるというカフェの名前で検索すると、1.5時間あれば行ける場所だったが、到着するまでにカフェにいるだろうかという疑問が湧いてくる。それに行ったとして、その後唯衣に何を言えばいいのだろうか。

『ま、頑張ってね』

 千里が葛藤しているうちに詠は電話を切ってしまった。


「何だったんですか?」

「……速水さんが本木凌とカフェに行ってることを教えてくれた」

「『今交際相手がいるか』のアンケートで女性だけ『いる』の割合が多い原因を作ってそうなあの声優ですか」

「言葉を選ぼうよ」

 言いたいことは分かるが、反射的にツッコミを入れてしまった。

「で、どうするんですか?」

「……何もしない。これでいいんだよ」

 怜に背を向け、椅子に体を深く預ける。

「いいんですか?『一般の方』になれるチャンスなんてまずないですよ?」

「そんなのどうでもいい」

 素でやっているのか、ふざけているのかは分からないが、怜の言葉選びにイラついてしまい、口調が粗くなる。

「ダメです」

「え?」

 椅子を回転させ、怜に体を向ける。

「お兄さんが速水さんと疎遠になってしまったら、設定上の妹であるわたしも疎遠になってしまいます。だから絶対ダメです」

 怜は立ち上がり両手を腰に当て、千里を険しい表情で見つめる。凄まじく利己的だが、だからこそ信憑性があった。

「でも」

「将来絶対に後悔しないと言えますか? そうじゃないなら早く行ってください。仕事なんて熱を出したとか言えばいいんです。人の命がかかってるんですか?」

 答えは言うまでもない。将来絶対に後悔するだろう。

「違うけど、でもなんて言えば」

「誠心誠意、低頭平身で謝れば問題ありません。ほら、早く行ってください」

 怜は視線でドアを指し示す。


「……」

 罪悪感はあったが、チャットツールに『体調が優れないので早退します』と送る。『お大事に』という反応が後ろめたさを強くさせたが、今は気にしないことにする。

「お兄さん」

 上着を羽織り外に向かおうとすると、怜が声をかけてきた。応援の言葉をかけてくれるのだろうか、と思ったものの、

「後で速水さんには本当にお兄さんが来たか聞くのであしからず」

「……言われなくてもちゃんと行くよ。じゃあね」


 外へ出ると、スマートフォンを取り出し詠に電話をかける。3コールで詠は出た。

『どうしたの?』

「あの。一つお聞きしてもいいですか」

 面識の少ない詠に聞くのも何だが、他に聞ける人がいなかった。

『いいよ。何でも聞いて』

「変な質問で申し訳ないんですけど、普段仕事をしていて『私なにしてるんだろう』って思うことありますか?」

『なにそれ。彼氏の有無とかじゃないんだ』

「その、まあ、なんかふと気になって」

 正直詠の彼氏の有無はどうでもよかった。一切触れることなくスルーする。

「そうだね……もちろん思うよ。仕事していてどころか、社会人なりたてって感じの人を見ると人生について考えちゃうかな」

「やっぱり普通に働いておけばよかったって思うんですね」

『当然。だって毎月決まったお金がもらえるんだよ?』

「……確かに」

 サラリーマンならば会社が傾いているでもなければ毎月決まった金額が口座に振り込まれるが、声優は仕事がなければ収入はゼロだ。

『だから、自分の選択が間違ってなかったって思うために、どんなことをしても生き残ってやるって思う。だってこんなに楽しいって思えることを仕事にできるなんて夢みたいだから』

 眩しい。率直に思った。唯衣や詠は弱肉強食の世界に生きている。唯衣はきっと何かあって弱音が吐きたくて頼ってきたのに、正論を返してしまった。

「ありがとうございます」

『じゃあ、頑張ってね』

 通話が切れ、スマートフォンを耳から離す。唯衣に何を言うべきか分かった気がした。急ごう。千里は駅に向かって駆け出した。


   ◇  ◇  ◇


 唯衣は凌と四人掛けの席に向かい合って座っていた。2人が注文したのはコーヒーのみで、ブラックの凌に対して、唯衣は砂糖もクリームも入れている。

「それで、速水さんは何に悩んでいるんですか?」

 唯衣が話しやすくするために狙ってやっているのか、凌は柔和な笑みを浮かべた。

「……本木さんは、声優の仕事に虚しさを感じることはありますか?」

「いいえ。ないですね」

 唯衣の問いに、凌は表情を崩すことなく即答した。

「本当ですか? 例えば、微妙な作品のときとか」

 そんなはずはない。話が無茶苦茶で登場人物の行動原理がさっぱり理解できず、こじつけのような想像で何とかしのぐしかなかった時は、無益どころか演技力に影響を及ぼしそうだった。

「もちろん、クオリティが高い作品のほうが得るものは大きいです。しかし、微妙な作品からは得るものがないというのは間違っていると思います」

「……」

 唯衣は視線を凌に送り、続きを促す。

「例えば登場人物の思考回路が理解できなかったり、退屈すぎる展開の作品であっても、表現者の端くれならば『何がだめなのか』を考える機会が得られますし、心を無にする精神的強さも得られます」

 笑みをたたえ、必死さはなく、不思議な説得力があった。

「でも、娯楽にあふれているこの世の中で、頑張っててもいつか仕事がなくなっちゃうんじゃ……って思ったりしませんか?」

「そう簡単にはなくならないと思いますよ。きっと偉い人たち手を尽くしてくれます」

「でも、もしなくなったら」

 凌はため息をついた。笑みを浮かべたままで、呆れた、というより降参という態度だ。

「そのときはしょうがないですね。でも、他の仕事をすることになっても無駄にならないと思いますよ。全力でやってますから」

「……!」

 千里はつぶしの効く業界にいると認めていた。しかし、それは日頃当然のことのように努力しているから言えることである。今、自分は千里や凌と同じ領域にいるのだろうか。

「……速水さん?」

 考え込んでしまっていた唯衣は、凌の一言で我に返った。

「あ、すみません。考え事してました」

「そうですか。てっきり僕の言葉にショックを受けてたのかと思いましたが、速水さんは常に全力でしょうからね」

 凌の笑顔が目に痛かった。


   ◇  ◇  ◇


 千里は店内で唯衣の姿を探しながらも、わずかだが、いないで欲しいと思ってしまいていた。もちろんいなければ困る。しかし本木と一緒にいる唯衣に声をかけるのは難易度が高い。状況を想像するだけで帰りたくなってくる。


 しかし店内を二周したものの結局唯衣は見つからず、外に出ると千里は怜に電話をかけた。

『見つかりましたか』

「いや……もう帰ったみたいだ」

『店内をくまなく探しましたか?』

「探したよ。だけどいなかった」

 無意識のうちに通行人の中から唯衣を探していたが、当然いない。

『わたしに心当たりがあります』

「どこ?」

『駅前にクラウンファクトリーという店があります。嫌なことがあったときはそこでケーキを買って帰るって以前言ってました』

 唯衣が言っていたからといって確証はないが、今は一縷の望みに賭けるしかない。

「分かった。そこに行ってみる」

 通話を切りマップアプリを起動するが、再び怜に電話をかける。

「2店舗あるんだけど」

『……すみません、どっちなのかはわかりません。まさか複数あるなんて』

「そっか、分かった」


 通話を切り、どうするかを考える。もともと確証はない。ここから一番近い店に行くのが手堅いだろう。しかしそれではダメな気がして、ふとカフェのホームページに『チーズケーキが人気』と書かれていたことを思い出した。『クラウンファンクトリー』のホームページを確認すると、ここから一番近い店はチーズケーキに、今いる場所からは距離があるもう一店はフルーツケーキに特化しているようだ。もし唯衣がチーズケーキを食べていたならば、なんとなく「さっき食べたし」とフルーツケーキに行くのではないだろうか。


 決めた。千里は走り出し――すぐに足を止めた。フルーツケーキの店に行くということは、凌とおいしくチーズケーキをいただいていたということになる。想像すると、嫌だった。仕事の真面目な話だけするなら飲み物だけで十分だ。しかしチーズケーキが気になり、クラウンファクトリーの『チーズケーキ』側へ向かった。自分本位すぎる結論……というより、もはや妄想だが、千里は今度こそ走り始めた。 


 運動不足のためすぐに息が上がり、自然と顎が上を向くが、それでも走るのはやめない。壁から突き出た店の看板が視界前方に見えてきたと同時に、長い黒髪の女性の後ろ姿が視界に入った。身長、遠目からでも分かるつややかな髪。間違いなく唯衣だ。

「速水さん!」

 声を出すのも苦しかったが、全力で名前を呼ぶと唯衣は一瞬千里を見たものの、何事もなかったかのように向き直った。

「速水さん……待ってください」

 千里は唯衣に追いつくと、肩で呼吸をしながらもう一度唯衣の名前を呼ぶ。傍から見ると必死でナンパしている怪しい男にしか見えないが、今の千里に外聞を気にする余裕はなかった。

「……なんですか」

 千里が本当にナンパ師だったら一瞬で心を折られてしまいそうな冷たい声で、実際千里も心が折れる寸前だった。唯衣は明らかに不機嫌で、何を言っても許してくれる気がしない。

「この前は、すみませんでした」

 それでもなんとか謝罪の言葉を絞り出す。

「……はい」

 無愛想な返事が返ってくる。許す、という意味の「はい」なのか、あなたの言っていることを理解しましたの「はい」なのかは分からない。

「俺には想像力がなかったです。速水さんは、熾烈な競争が繰り広げられてる世界で戦ってるんですよね」

「……」

 唯衣は何も答えなかった。ただし千里を拒絶しているようにも見えない。

「正直、『声優の速水さん』と知り合えたことに浮かれていて、誤解を恐れずに言うと、1人の人間として速水さんを見ることができていませんでした。だけど、だからこそ『1人の人間としての速水さん』のことをもっと知りたいです。そのためには、このままの状態は嫌です。俺にできることならなんでもします。だから――」

「限定ケーキ3種類」

 唯衣は立ち止まり、不意に言った。

「え?」

「それで許してあげます」

 唯衣は視線を千里とは反対側へ向けた。

「……っ、もちろんです!」

 思わず浮かべた笑みとともに、ガッツポーズをする。

「……やっぱり2種類でいいです」

 3種類は欲張りに思われるかも、とでも考えたのだろうか。さっそく少し唯衣のことを知れたような気がした千里だった。

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