価値観
普段一人暮らしをしている唯衣は、実家へ久しぶりに顔を出した。唯衣の実家は都内マンションの一室にあり、住んでいるのは母親だけだ。リビングには2人用サイズのテーブルがあり、唯衣の母親、速水あすかがそこでノートパソコンを操作していた。唯衣とあすかは親子だけあってそっくりで、唯衣が髪を短くして年を重ねれば、あすかと瓜二つになるだろう。
あすかはノートパソコンから顔を上げると、テーブルの傍らに置いてあった台本を唯衣に差し出した。あすかは唯衣のマネージャーなのだ。
「ありがとう」
あすかの手から台本を受け取る。
「……声優の仕事はもう頃合いじゃない?」
「前も言ったけど、私はこの仕事が好きだから」
以前は曖昧に受け流していたが、今はもうストレートに答えるようにしていた。
「確かにあなたは才能がある。だけど、声優だけなんてもったいないと思わない?」
女優に興味がないわけではない。ただ、母親も声優の出でありながら声優を下に見ているような態度を見ていると、反骨心が芽生えてくるのだ。でも自分の夢を娘に託したいという気持ちも分からないでもない。
「考えとくね」
結局は曖昧に答え、実家を後にした。
◇ ◇ ◇
都内収録スタジオ。唯衣は台本を受け取った後、台本とは別作品の収録に臨んでいた。今日は普段にも増して甘い演技が一切許されない空気が張り詰めている。理由は、今回ゲストとしてベテラン声優が1人参加しているからだ。
「牛丼にはサラダをつける派かい? 僕は牛丼だけじゃ飽きちゃうタイプでね」
ゲスト声優の尾道(おのみち)がマイクに向かって声を発する。尾道の見た目はどこにでもいそうな痩せ気味の中年男性だが、ひとたび声を出すと、本当に人の口から直接発せられているとは思えない、プロの手によって調整されたかのような音声がマイクへと吹き込まれていく。
「あたりまえでしょ。そしてドレッシングは少なめで、豚汁も付けなさい」
尾道が演じるキャラの相手役は唯衣だ。演技とはいえ、大先輩相手にタメ口を使うのは内心気が引けるが、声にはおくびにも出さない。
「ははは。厳しいね。まるで僕の母親みたいだ」
「そんな軽口が叩けるならもう大丈夫みたいね……あ、牛丼代はあとでちゃんと返しなさいよ?」
背中に汗が滲む。のどかなシーンで、体調が悪いわけでもなく、尾道も威圧感のある風貌ではないのに余裕がない。無意識のうちに彼の演技についていこうと、自分の実力を超えた演技をしようとしているようだ。例えるならば、自分の体がハンドルを切るとどこへ飛んでいくか分からないピーキーな車になってしまった気分だった。
◇ ◇ ◇
収録が終わると唯衣は尾道の元へ向かった。
「お疲れ様です」
収録が終わったにも関わらず、唯衣は未だに緊張していた。それもそのはず、尾道は唯衣にとって特別な人間だからだ。
「お疲れ様。もしかして、速水あすかさんの娘さんだったりする?」
「あ、母をご存知なんですね」
ベテランとはいえ、母の名前が出てくるとは唯衣も予想外だった。
「昔一緒に仕事をしていたからね。それにしても、あすかさんの若い頃にそっくりだ」
唯衣を通して昔を懐かしんでいるのか、尾道は唯衣に視線を向けつつも焦点が合っていなかった。
母親の名前を出されたときは困惑したものの、接点があるのは好都合だ。唯衣は頭の中で何度もシミュレーションしていた言葉を発した。
「私声優になろうと思ったきっかけが、尾道さんが出ていた『ベクタースター』なんです。だから、会えて嬉しいです」
唯衣はプロの声優であり、立場上褒められた発言ではない。しかし今は1人の声優からファンに戻ってしまっていた。
「うーん」
尾道は困ったように顎をさすった。
「当時のことは、ちゃんと覚えてないんだよね」
子役からキャリアをスタートし、当時高校生だった唯衣は将来に悩んでいた。今までは母親の望むままに仕事をしていたが、大多数の人たちと同じく大学を受験して、働いたほうがいいのではないだろうか、と考えるようになっていた。同じ事務所の同年代の子たちは気がつけば1人、また1人といなくなっていく。次は自分だ、と思うのも不思議なことではなかった。
ある日の深夜。眠れずにいた唯衣がテレビを点けると、アニメがやっていた。それが唯衣とベクタースターとの出会いだ。深夜アニメの存在は知っていたが、ちゃんと見たことはなかった。興味本位で見始め、毎週の楽しみに変わり、最終話を見届けた翌朝――一睡もできないまま唯衣はあすかに「声優の仕事がしたい」と頼んでいた。それが声優・速水唯衣が生まれた瞬間だった。
「……いえ、気にしないでください。私だって去年出演した作品全部覚えてる訳ではないですから」
気まずそうな尾道に対して唯衣は作り笑いを浮かべた。尾道は毎期ごとに何本もの作品に出演していて、ベクタースターは数ある仕事の一つでしかない。唯衣もそれは分かっていた。唯衣には思い入れがある作品でも、ベクタースターは決して人気作ではないのだ。
とはいえ、声優という仕事は傍から見えるほど華やかな業界ではないことを唯衣は知っている。声優という裏方仕事は地味で、過酷だ。常にプロとして高い水準の仕事を求められる。他の業界とそこはなんだ変わらない。だからこそ、逆に一作一作に全力を注いでいては潰れてしまう。仕事は所詮仕事として割り切らなければ――生き残れない。
◇ ◇ ◇
唯衣が電車に乗っていると、隣の乗客が唯衣の出演しているアニメを見始めた。やはり自分が出演しているアニメを見てくれるのは嬉しい……と思ったのもつかの間、画面の表示がおかしいことに気づいた。キャラクターの動きも、場面の切り替わりも忙しいのだ。
そしてそのうち画面を分割表示にし、SNSを見始める。こうなってしまえばアニメは視界の端で色が動き、音が聞こえるだけの映像でしかない。自分が一生懸命演じ、アニメーターが短納期の中で死力を尽くして作ったアニメーションをまさに『消費』されている。堪えるものがあった。
もちろんアニメを見る人の全員がこうではないのは分かっているし、それに現代人はとにかく時間がないから、ながら見でもありがたいくらいだ。しかし頭では分かっていても、自分の仕事ってなんだろう、と思わずにはいられず、唯衣はスマートフォンを取り出すと、メッセージを打ち始めた。
◇ ◇ ◇
千里は自宅でコーディング(プログラムを書く作業のこと)の真っ最中だった。ヘッドホンを装着して周りの音を遮断し、キーボードでコードを打ち込んでいく。コーディングは意外と創造的な作業だ。とりあえず動くコードならば簡単に書けるが、ソフトウェアは一度作ったら終わりではない。機能追加や仕様変更が当然発生する。それらを見越して修正しやすく、他の人が理解しやすく書く必要があるのだ。
しかし納期がある以上、どこかで妥協をしなければならない。知識・美的感覚・現実的な折り合い。すべてを駆使してコードを書き、自動テストを実行しては修正を繰り返し、問題がなければデプロイ(ソフトウェアに変更を反映すること)を実行する。チャットツールでデプロイが完了したことを太郎に報告すると、『もう終わったのか(驚いた顔の絵文字)この前みたいなことはないんだろうな?』と即座に返信が来た。『もちろんです(得意げな顔文字)』と返す。
社会人に大事なのはコミュニケーション能力だと言われたりもするが、技術職ならば一番必要とされるのは技術力だ。千里はこの会社になくてはならない人材だった。
◇ ◇ ◇
「……ふぅ」
千里はヘッドホンを外し、ため息をつく。作業中は気づかなかったが、頭が疲れた。甘いものが欲しくなってくる。
「お疲れ様でした」
「お疲れ様です……って、ええ!?」
千里は飛び上がるように椅子から立ち上がった。部屋には唯衣がいたからだ。怜と並んでベッドに腰掛けている。
「来るってメッセージ来てましたよ」
怜は千里が渡したお古のスマートフォンの画面を千里に見えるように掲げる。
「すみません。全然気づけなくて」
「いえ。それより私けっこう前からいて怜ちゃんと話してたんですが、すごい集中力ですね……ベクタースターの裕一みたいです」
「いや、別に大したことないですよ」
唯衣に、しかも裕一みたいだと褒められるのは悪くないが、唯衣がなぜか浮かない表情をしているのが気になった。
「私はプログラミングのことはよく分からないですけど、多分いろんな業界に需要がありますよね」
「まあ、多分ですけど、どこも人手不足だとは聞いてます」
唯衣の質問の意図が分からなかったが、一般論をとりあえず返す。
「……いいな」
「え?」
唯衣が俯きながら発した言葉に耳を疑った。人気声優で称賛を集め、マンションのオーナーになれるくらいだから同年代よりも間違いなく稼いでいる唯衣が、そんなことを言う理由が分からなかった。
「桐山さんは、仮に今の仕事が嫌になっても別の会社、別の業界にも行こうと思えば行けますよね?」
「それは……確かにそうかもしれませんけど」
「そうやってスキルを身に着けて働いてるの見てると『すごいな』って思います。私は……それらしい声を出すことしかできないので。事務所を移ったって結局やることは同じで、逃れられないんです」
千里には唯衣の発言が心から思っているように感じた。知り合ってまだ日は浅いが、少なくとも唯衣は弱音を否定してもらって承認欲求を満たすようなタイプではないと思ったからだ。
「それらしい声、なんてやめてくださいよ。俺は速水さんの演技に何度も心を動かされてます」
「わたしもです」
怜も同意見のようで、拳を握りしめ横に座る唯衣に語りかける。
「心を動かして、それでどうなるんですか? 自分が開発したサービスを色んな人に使ってもらって、日々の暮らしが楽になる……そっちのほうが遥かに立派じゃないですか」
唯衣には千里と怜の言葉は届いていないようで、唯衣は俯いたまま千里に尋ねる。
「それは、いくらなんでも即物的すぎです。アニメが日々の生きがいに、楽しみに、癒やしに、速水さんの声が癒やしになってる人が、現にここに2人もいるんですよ?」
怜は真剣な顔で二度頷く。唯衣の言っていることは間違っている。唯衣に自信を持って欲しかった。
「でも、別になくても生きていけますよね?」
「それはシステムやサービスだって」
「いいえ。ないと困りますよね。でも、アニメがなくても不便にはなりません」
唯衣の言う通り、現代では数多くのシステムやサービスは生活に溶け込み、もうそれらがなくては現代社会は成り立たないが、だからといって娯楽が不要かといえばそんなことはない。
「比較対象が間違ってま――」
「間違ってません」
大声を出したわけでもないのに体が萎縮し、部屋の空気が凍りつくような冷たい声だった。
「……」
言葉を奪われたかのように千里が言い返せずにいると、唯衣はゆっくりと立ち上がった。
「桐山さんなら分かってくれると思っていたのに、がっかりです」
「……それは、だって」
無言なのもどうかと思い、とりあえず言葉を口に出すが、二の句が思いつかない。何を言っても唯衣に届くとは思えなかった。
「私帰ります」
唯衣は千里たちを見ようとせず、部屋を出ていった。
嫌われてしまった……。千里は立ち尽くすことしかできず、怜もなんと言ったらいいのか分からないようで、気まずそうに目を伏せていた。
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