オンリーイベント
休日。千里は都内にある産業支援施設内の展示フロアにいた。なぜここにいるのかというと、会社の先輩の太郎に売り子として駆り出されたからだ。イベント名は『ラブコメNTR(寝取られ)オンリー』。
「……やっぱりジャンル分け雑すぎませんか?」
千里は折りたたみテーブルの上に搬入した本を置きながら、自分は準備せずに腕を組んで他のサークルを観察している太郎に尋ねる。
「本当にその作品が好きな人はNTR同人なんて買わん。だからこれくらい甘いジャンル分けのほうが都合がいい」
「都合がいい」
顔を引きつらせて反復する千里。要は『作品をよく知らないほうが(細かいことが気にならなくて)抜ける』という人もいて、これくらい強引なジャンル分けの方がいいらしい。千里は表紙を直視しないように本をテーブルの上に置き終えると、他のサークルに視線を向けた。フロア内がなんというか全体的に赤黒く見える。
吊り下げられているポップに描かれているキャラクターは、乱暴に男に体を掴まれつつも笑顔を浮かべていたりと、読者の精神にダメージを与えるための工夫が凝らされている。しかし、それらの怪しいポップを無視すれば、歩いている人も、ブースに座っている人も、パッと見は普通の人ばかりだ。千里が底知れぬ恐怖を抱いていると、開催時間になり一般参加者が続々と入ってきた。
「普通だ……」
無意識のうちに千里は感想を漏らしていた。やはり入ってくる人たちも見た目は普通だ。もちろん男性が圧倒的多数だが年齢層は幅広く、微妙に女性もいて世の中の性癖の広さに恐怖が増していく。太郎のサークル『The オダマキ』は界隈内では人気のサークルで、何人かが真っ先にブースに向かってくる。
本日の購入者1号が支払いを終えると、太郎に話しかけてきた。
「新作楽しみにしてました。前作では白い悔し涙がいっぱい出ましたが、今作も期待していいですよね?」
「もちろんだ」
ファンの問いに太郎は即答する。千里は売り子の仕事をしながら2人のやり取りを聞いていた。彼は元ネタの作品も好きだからこそ興奮できるという性癖らしく、精神的に心配になってくる。
その後も太郎の本を求める参加者は途切れることはなく、
「少しでも強い苦しみを味わえるように元ネタの作品をバッチリ履修しました!」
「読んだ直後は読まなきゃよかったって後悔するんですが、気がつくと二度三度と読まずにはいられなくなってくるんです」
といった具合にみな情熱を太郎に語ってくるが、誰も彼も本を手に取った直後は苦しそうな表情をするので、見ていると不安になってくる。
と、そこに痩せ型で背の高い男が1人やってきた。痩せ型で髪は長く、中性的な整った顔つきをしている。ひと目見た瞬間、千里は男に見覚えがあることに気づいた。
「僕の顔に何かついていますか?」
つい男の顔をジロジロ見てしまい尋ねられてしまったものの、声で千里は男が誰かを確信した。
「あ、いや。もしかして本木凌さんじゃないかなって思いまして」
以前唯衣のピンナップが付録についてくる雑誌を購入したとき、唯衣の隣に写っていたので印象に残っていたのだ。
「はい。よくご存知ですね」
背の高い男――本木凌は目を細め、微笑む。
「どこかで見たことがあるなと思ったのと、声で確信しました」
声優なのだから当たり前だが、いい声だなと千里は思った。自分もこんな声だったらなとつい考えてしまう。声がいいとやはりモテるのだ。
「ありがとうございます。一冊いただけますか」
「え、買われるんですか?」
「もちろんです」
本木のことを千里はよく知っているわけではないが、少なくとも見た目と似つかわしくない性癖に困惑せざるを得なかった。
「……1000円です」
「じゃあちょうどで」
本木から1000円札を受けとると、本を渡す。
「ありがとうございます。仕事でちょっと参考にしたくて、ちょっと調べてみたらいいイベントがやってるみたいだったので」
「仕事……?」
後日、とあるアダルトアニメが『寝取られた男役の声がイケメンすぎて作品に集中できなかった』とネット界隈の一部で話題になっていた。
◇ ◇ ◇
イベント終了後。千里は太郎と若い女性向けの店舗がひしめく、駅ビル型ショッピングモールに来ていた。太郎が彼女にプレゼントを買いたいらしく、千里はその付き添いだ。
「誕生日か何かの記念日ですか?」
「今日は自分の用事を優先したからな、そのお詫びだ」
「そういうもんですか」
恋人がいれば普通のことなのか、太郎が特別なのか、千里には判断がつかなかった。そのあと太郎は最初に入った店ですぐにプレゼントを決めてしまい、すぐに用事は終わってしまった。
「このあとどうしましょうか? 解散ですかね」
千里は人の流れに倣って通路を歩きながら、隣を歩く太郎に尋ねる。
「いや、久しぶりに桐山の家に行っていいか? アニメ鑑賞会しようぜ」
「えっ」
以前太郎と一緒にアニメを見たときは「このモブ使えそうだな!」と言い出したり、その場で考えたヒロインが寝取られる薄い本的展開を聞かされたりと散々だった。しかも家には怜がいる。
「どうかしたのか?」
「いや……家はちょっと今汚いので」
「なるほど。誰か家にいるんだな。もしかして、女か?」
太郎は目を細め、心を覗き見るかのような目で千里を見る。
「まあ、そんなところです」
嘘をついてもまた見抜かれそうだし、太郎が遠慮してくれる可能性に賭けて正直に答えることにしたが、
「じゃあ、なおさら行かないとな。どんな彼女なのか見に行かないという選択肢はないだろ」
むしろ逆効果だった。
「あいやその、彼女すごく人見知りする性格なんですよ」
苦笑を浮かべ、表面上はやんわり断っている体を出しつつも、頭をフル回転させてなんとか太郎に諦めさせる方向に持っていく。
「なるほど、それは難儀だな」
太郎は腕を組んで真顔になる。とりあえずこの場はしのげただろう。思わず千里が安堵のため息をついた次の瞬間。
「じゃあやっぱり会いに行って人見知りをなんとかしないとな。よし、今から行くぞ」
太郎は歩く速度を早めた。
「なんでそうなるんですか……」
なんだか実在しない彼女が寝取られそうな気がしてきてならない。仕方なく太郎の後を追おうと歩き始めると、反対側からこちらへ向かって歩いてくる怜が視界に入った。
「あれ、お兄さん?」
「怜……さん?」
いたのは怜だけではなかった。すぐ近くに唯衣、香折、詠の3人もいる。
「こんなところで会うなんて偶然ですね」
と唯衣。
「あ、会社の先輩とい――」
「はじめまして。桐山の先輩の君尾太郎だ。よろしく」
いつの間にか千里の横にいた太郎はキザな笑みを浮かべる。
「へえ、桐山さんの先輩ですか! 東香折といいます」
香折を筆頭に、4人はそれぞれ太郎に自己紹介を返していく。
そして最後に怜が自己紹介をしようとしたところで、千里は怜を止めなければならないことに気づいた。
「妹の怜です。いつも兄がお世話になっています」
しかし、もう手遅れだった。
「妹……?」
太郎は首を傾げた。
「桐山お前――」
「そうだ! 4人でどうしたんですか?」
意図的に大声を出して唯衣に尋ねる。太郎には以前雑談の最中に一人っ子であることを話していたからだ。
「買い物です。これから少し早いですけどご飯に行こうと思ってたんですが、桐山さんたちも一緒にどうですか?」
「もちろんです。君尾さんもいいですよね?」
他ならぬ唯衣からの誘いだ。それに移動中のどこかで怜と口裏を合わせておけば、また太郎から聞かれてもどうにでもできる。
「ああ、もちろんだ」
「じゃあ、君尾さんもオッケーみたいなので、行きましょう」
太郎も快諾し、6人で出口へ向かって歩き出す。先頭を歩くのは香折と怜で、その後ろに唯衣と詠、最後に千里と太郎が続く。――この並びはまずいなと思っていると、
「で、4人のうちの誰なんだ?」
「え、3人じゃないんですか?」
「家庭の事情もあるし深くは聞かないが、血の繋がりがないのならば法律的にも問題はないぞ」
怜のことはかなり好意的な解釈をされてしまっていた。
「いや、さすがにないですから」
もうここは素直に話に乗ったほうがよさそうだ。太郎に対しては怜のことを義理の妹として扱うことにした。
「それじゃ、3人のうちの誰なんだ?」
千里は即答できず、口をつぐんだ。相手は太郎だ。もしかしたら名前を挙げなかった2人を口説きにかかるかもしれない。とはいえ、ここで唯衣のことだと答えられる図太さはなかった。
「……いや、別に誰だっていいじゃないですか」
「別に手を出したりしないから安心しろ。嘘つきの桐山クン?」
太郎は目を細めて笑う。最初からバレバレだったようだ。
「最初からそんな心配してませんよ」
本当は心配でたまらなかったのだが。
「まあ、どこで知り合ったかは後々聞くとしても、女性声優とお近づきになれるというチャンスを棒に振らざるを得ないのは残念だな」
「やっぱり分かるんですね」
性癖が歪んでいるが、太郎もアニメや声優には詳しい。
「まあな。俺の予想から言って、桐山の本命は速水唯衣だろ?」
「いや、そんなんじゃないですから。相手は人気声優ですよ?」
「ふーん。じゃあ俺速水さんを口説いてみようかな?」
太郎は前を歩く唯衣に視線を向けた。彼女のプレゼントを買いに行ったその足で他の女性を口説こうとするなんて節操なさすぎだろと思ったが、それより太郎が本気ならば、文字通り命がけで止めなければならない。
「いやいや、やめたほうがいいですよ。今は仕事が第一だから誰とも付き合う気がないって確か言ってました」
相手が太郎でなくてもすぐにバレそうな嘘で止めにかかる。早口で必死になっているのが丸わかりだ。
「ハハハ。安心しろ。お前が恐れているようなことはしない」
太郎は笑いながら千里の背中を叩く。とりあえず一安心。反射的にため息をつきそうになったが、すんでのところで留まった。
◇ ◇ ◇
千里たちは怜の希望でファミレスに入った。香折、千里、詠の順番で並んで座り、その対面に太郎、怜、唯衣が並んで座る。香折と太郎が向かい合う形だ。
「4人は一体どういう集まりなんだ?」
全員が注文を終えるなり、太郎が向かいに座る香折に話を振った。4人全員と初対面にも関わらず砕けた口調で、真似できないな、と思った千里は怜以外とは相変わらず敬語である。
「唯衣さんは友達で、詠さんは唯衣さんの友達で、怜さんは桐山さんの妹で友達……。まあ、全員友達ですね」
唯衣と怜はともかく、友達の友達を友達と呼べる香折も太郎とは違った方向で大物だ。
「君尾さんはあずまスメルさんって知ってますか? 東さんがあずまスメルさんなんです」
千里は香折を紹介した。
「おー知ってる。人気絵師って実在したんだな」
太郎はまじまじと香折を見る。
「実は俺も同人誌を描いてて、今日2人でオンリーイベントに行ってたところなんだよ」
「同人誌ですか! どんなのを描くんですか?」
香折が身を乗り出す。
「あ」
この流れはまずい、と千里が思ったときには手遅れだった。
「NTRモノだな」
太郎が即答すると唯衣と太郎以外の表情が凍りつき、
「NTR……ってなんですか?」
唯衣の発言に、太郎以外全員の顔が凍りついた。
「……桐山さん。私としては速水さんはこのまま純粋でいたほうがいいと思うんですが、どうでしょう?」
「いやいや、俺に振らないでくださいよ!」
香折からの無茶振りに思わず声が大きくなってしまう。
「誰も教えてくれないなら自分で調べます」
唯衣はスマートフォンで『NTR』を検索しはじめ――
「……まあ世の中にはいろんな趣味の人がいますからね」
一瞬千里を見ると、何事もなかったかのようにタブを消した。
「ち、違いますからね! 俺は君尾さんの手伝いをしただけでそういう趣味はないですからね?」
格好悪いと思ったが、誤解されるのはもっと嫌だった。
「ちなみにイベント名は『ラブコメNTRオンリー』で、描いたのはこれだ」
太郎はカバンからタブレットを取り出すと画面上に表紙を表示した。見なければいいのに唯衣は見てしまい固まり、詠は興味なさそうに野菜ジュースを飲んでいる。
どうするんだこの空気と千里が思っていると、香折が太郎に噛みついた。
「この『竿役』って元ネタの作品には存在しないですよね? そもそも主人公以外に目立った男キャラがいないのに、無理やりぽっと出のキャラを作って寝取らせるなんて、精神的に大丈夫か心配になってきますね」
心配している、と言いつつも、暗に太郎を批判しているのは明らかだった。
「フッ、残念ながら精神状態は良好だ。その証拠に毎晩ちゃんと眠れている」
「そうですかね? 言外の意味を理解できてないようですが」
「俺が悪趣味だって言いたいんだろう。わざと乗ったのさ」
香折に気圧されることなく、太郎は背もたれに体を預け、悠々とした態度だ。
「はい、この上なく悪趣味です。理解できません」
「承知の上だ。しかし俺は描くのをやめる気はない」
直接的な言葉で非難されたにも関わらず、太郎は動じた様子も見せず一口水を飲んだ。
「作品を、キャラクターを生み出した人への冒涜だと分かっていてもですか? 売れればなんだっていんですか?」
香折はキャラクターデザインの経験もある。だからこそ太郎のことが許せないようだ。
千里は仲裁に入るべきか悩んでいた。しかし2人の威勢に気圧され口を挟むことができず、唯衣と怜も同様のようだ。対して詠も見ているだけだが、口元に笑みが浮かんでいるあたり、2人のやり取りを楽しんでいるようだった。
「まあ、否定はしない。だが、災害に苦しむ人々を描く映画をわざわざ見に行く人がいるように、人間とは悪趣味なものを好むものだからな」
「詭弁です」
何を言おうと聞く耳を持たないと言わんばかりに、即座に香折は切り捨てる。
太郎はすぐに言葉を発しようとはしなかった。香折の怒りを目測するように無表情で観察したのち、口を開く。
「もちろん俺だって自分の行いに自問自答したくなることはあるし、自分でもどうかしていると思う。真っ当じゃないことをしているのも分かっている。しかしそれでも俺は描く。なぜなら、描きたいからじゃなく、描かずにはいられないからだ。クリエイターの君ならこの感情は分かるんじゃないか」
千里には太郎が別人に見えた。普段の太郎は『頼りになるがいつもふざけている人』という印象だったが、今はチャームポイント? である『ふざけ』がない。
「……やっぱりあなたの言うことは理解できません」
香折はなおも太郎をにらみつける。
「しかし『描かずにはいられない』という感情だけは理解できます」
香折の態度が軟化し、太郎も「それでいい、問題ない」と頷く。
そんな2人の口論に千里は困惑しつつも、同時にうらやましく思っていた。情熱、そして信念があるからこそ、相容れない価値観とは戦わずにはいられない。対して、自分には2人のように『譲れないもの』がない。そう思うとうらやましくなってくるのだ。
気がつけば無意識のうちに唯衣を見ていた。声優という表現者として通じるところがあるのだろう。テーブルに視線を落とし、何か考え事をしているようだった。疎外感を覚えつつも水を飲みながらついチラチラと唯衣を見ていると、詠がぼそっと話しかけてきた。
「唯衣狙いなんだ」
「ブグッ」
危うく吹き出しそうになった。
「あ、ごめん。大丈夫?」
「あ゛い゛大丈夫です……飲み物取ってきます」
詠に通路側へ出てもらいドリンクバーへ向かうと、詠もついてきた。
「あれ、大原さんもですか?」
と並んで歩きながら尋ねる。
「この前の告白情熱的だったね」
千里の質問に答えず、詠は含み笑いを浮かべる。よく見るとドリンクバー用のグラスを持っていない。
「いや、告白じゃないですから……というかお二人って仲いいんですね。この前一緒に来てましたし」
キャラも雰囲気も違う2人が仲良しなのは、なんだか意外に思えた。
「同じ事務所だからね」
「なるほど……?」
同じ事務所だからといって頻繁に顔を合わせるわけでもないはずだが、きっと何かあるのだろう。
「で、どうなの?」
「いや、俺はただのファンなので」
ドリンクバーを操作してグラスに炭酸ジュースを注ぐ。
「でもさ、ファンは普通こうやって一緒にご飯食べに行けないよ? というか唯衣かわいいのに好きにならないって、逆に失礼だと思わない?」
「どういう理屈ですか……」
振り返って詠の顔を伺うと、表情は真剣そのものだ。
「当然の理屈。当たり前だけど唯衣ってモテるんだよ? この前も本木凌に食事に誘われてたし」
「あー、そうなんですね〜」
一瞬心臓に痛みが走ったが、わざとどうでもよさそうに相槌を打つ。
「でも断ってたよ。同じ業界の人とは付き合う気ないって言ってたし、男を紹介してくれる友達もいないみたいだから、しばらくはフリーなんじゃないかな」
思わず千里はため息をつき、それを見た詠はフフッと笑う。
「君おもしろいなー。とりあえず連絡先交換しない?」
詠はポケットからスマートフォンを取り出した。特に断る理由もない。千里もスマートフォンを取り出し連絡先を交換すると、『詠だよ』というメッセージが送られてきた。
千里の連絡先に、短期間で女性声優が2人も増えてしまった。
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