天国はここにあった

 仕事を終えた千里が郵便受けを確認すると、運送会社からの不在通知が入っていた。不在票に書かれている時間は家にいたはずだ。おかしいと思いドアを開けて隙間から手を伸ばし、インターホンのボタンを押してみる。無反応だ。


「どうしたんですか?」

 玄関に怜がやってきた。

「インターホンが壊れてて不在票が入ってた。多分今日は再配達無理かな」

「頼んだのってわたしの化粧品ですよね? うーん。困りました」


 怜はちらりと千里を見た。近所で買ってくるなりしてなんとかしろと言いたいのだろう。


「……買い物行ってくるよ」


 近所に小さなドラッグストアがある。千里はダウンコートを着ると、しぶしぶ買い物に向かった。


   ◇  ◇  ◇


 帰宅した千里を待っていたのは、ロックを解除してパソコンで何かしている怜だった。

「あ、おかえりなさい」

「おかえりなさいじゃないよ!」


 怜の横に駆け寄ると、唯衣の音声作品を聴いていたようでディスプレイには再生ページが表示されていた。


「パスワードは変えたはずなのに」

「社員証のID入れたら一発でした。机の上に置いてありましたし」


 詰めが甘かった。はあ、とため息が出る。


「せめて違うブラウザかアカウント使ってくれないかな……」

「でもおかげでお兄さんの F●NZA と ●LSite の使い分け方がわかりましたよ?」

 怜は首を傾げ、微笑を浮かべる。

「それ知ってどうすんだよ……」


 聞くまでもなく何一つ意味がない。100パーセント千里を茶化すためだけの発言だろう。


「いえ、ありましたよ。お兄さんは ●LSite では音声作品だけ購入していて、 F●NZA では黒タイツ――」

「言わなくていいから!」


 どうやら怜にさらに弱みを握られてしまったようだ。ある意味物を盗られるよりつらい。



「あ、そういえば音声作品聴いてて思いついたんですが」

 怜は椅子から立ち上がった。

「音声作品と同じようなことをしてあげましょうか?」

「えっ」

「家に置いてもらっているのに何もお返しできていませんし、せめてもの気持ちです。それに、本当ならこんなことを女子高生にお願いした時点で逮捕ものなんですよ?」


 怜は手を後ろで組み、目を細める。とんだ気持ちがあったものだ。確かに女の子に耳元で囁かれたら実際はどのような感じなのかは気になる。しかし怜の言う通り女子高生にお願いするには一発アウトな内容だ。そもそも家に女子高生がいついている時点でそれ以前の問題だとは思うのだが。


「あ、もちろんタダですよ」

「別にそれが決め手になったりしないから」


 とはいえリアルではどのような感覚なのかやっぱり気になる。ただ、脳裏に唯衣が浮かんでしまい、躊躇なく承諾できなかった。


「速水さんのこと考えてますよね」

「勘ぐりすぎだよ」

「速水さんのことを気にする必要はないです。それに、バレっこないですよ」


 なおも千里を悪の道に誘ってくる怜。意外と千里の迷惑になっていることに負い目を感じているようだ。


「うーん」


 怜から視線を外し、唸る。実際そうそうバレることはないだろう。というより唯衣は無関係だ。怜からの視線を背中から感じつつ、


「……じゃあ、お願いしようかな」


 千里は健全な成人男性なのだ。断るなんてできなかった。


「そう言ってくれると思ってました。では、ベッドへどうぞ」


 怜は手のひらを上に向けた状態で、腕をベッドへ向かって伸ばす。千里はそこまで乗り気ではないんだと強調するように、わざとゆっくり歩いてベッドに向かい腰を下ろすと、怜が隣に座った。柑橘類とも石鹸とも違う甘い香りが漂ってくる。


「でははじめますね」

 怜は千里の耳元に顔を近づけた。

「桐山怜のASMRチャンネルへようこそ」

「ひゅぃっ」


 耳元で囁かれて情けない声が出てしまい、反射的に怜から距離を取る。


「お兄さんオーバーですね」

「……ちょっとびっくりしただけだよ」

「へー、そうですか。いつまで平然としていられるか見ものですね」


 まるで拷問でもしているかのような物言いだ。千里が体を元に戻すと、再び怜が耳元で喋り始めた。


「おにーさん……」

 吐息混じりのささやき声に背筋がゾクゾクしてくるが、体に力を入れて平然を装う。

「いつもお仕事お疲れ様です。今日は怜がいっぱい癒やしてあげますからね♪」

「なんだよそのキャラ」

「細かいことは気にしないでください。今のお兄さんにとってわたしの声がすべて。わたしの声を聞いているだけで、だんだんと、だんだんと、余計な力が抜けていきます」

「違うジャンル混じってない?」


 千里がツッコミを入れると、前触れなく怜は千里の耳に息を吹きかけた。


「ひぇい!」

「お兄さん。細かいことは気にしないで、と言いましたよね?」

「はい、すいやせん」


 音声作品は基本的に『話しかけている側』がひたすら話し続ける。『話しかけられている側』も設定上は言葉を発しているが、作品に収録されていることはない。千里は『話しかけられている側』に徹することにした。


「今日もお兄さんは頑張っていて偉いです。そんなお兄さんは本当にカッコいいです」


 本心ではないことはもちろん千里も分かっている。しかし、女の子に耳元でささやかれるだけで十分に気持ちいいのに、『偉い』『カッコいい』のような普段言われないようなことを言われるとさらに気持ちよくなってくる。


「今は余計なことを考えず、わたしの言うことだけに意識を集中してください。わたしはお兄さんの味方です。辛いことがあったら、わたしがいつでもお兄さんを癒やしてあげますからね」


 思いの外、怜のリアルASMRはうまかった。将来は声優になって唯衣と共演したいと言っていただけはある。最初は言葉の内容も理解できていたが、気がつけば優しく囁かれているという事実しか認識できなくなってしまい、


「お兄さん? 生きてますか?」

「……はっ!」


 意識がどこかに行ってしまっていた千里は、怜に肩を叩かれて我に返った。


「どうでした? まあ、聞くまでもないと思いますけど」

「……まあまあかな」


 本当はまあまあどころではなかったのだが、怜の誇らしげな顔を見ていたら素直に称賛する気にはなれなかった。


「むう。では奥の手を使わせていただきましょう」

 怜は咳払いをした。

「千里ー元気だった? あれー、なんか元気ないね。もしかしてお姉さんにずっと会えなくて寂しかったのカナ? ナンチャッテ」

「……なんでおじさん構文みたいなキャラなんだ」

「姉さんをおじさん扱いなんていけない子だ。耳フーでお仕置き!」

「くっ!」


 とっさに千里は身構えるが、待っていてもいっこうに怜の吐息が耳を襲う気配はない。安心して構えを解いた次の瞬間、埃も動かせなさそうな吐息が千里の耳に触れた。


「ああああおおおおおあああああ……」


 快感に耐えきれず、情けない声を漏らしてしまう。


「ふふ、面白い反応」

「だましたな」

「でも、これくらいのほうが気持ちいいよね?」

「まあ……」

「じゃあ、もっとやってあげるね」


 千里は無言で頷く。もはや断る理由はなかった。


   ◇  ◇  ◇


 同時刻。唯衣は千里の家の玄関チャイムを押した。しかし待てども反応がない。以前千里がグループチャットに基本この時間は家にいると投稿していたのだが。なんとなくドアノブを掴んで捻ってみると、鍵がかかっていなかった。


 家の中へ足を踏み入れると、人の気配がする。ふたりしてチャイムに気づかないほど何かに熱中しているのだろうか。靴を脱ぎ、廊下を歩き、奥の部屋へ続くドアを開ける。


 唯衣が目にしたのは――肩を寄せ合っている千里と怜だった。


   ◇  ◇  ◇


「何してるんですか?」

「速水さん!?」

 千里は弾けるように怜から距離を取った。

「なんでここに?」

「メッセージ送ってあったんですが……それよりお二人って兄妹なんですよね?」

「あいやこれは」


 とっさに言葉が出てこなかった。唯衣の口ぶりからは、非難しているというより何をしていたのか気になっているようだが、楽観できる状況ではない。回答内容次第では唯衣に軽蔑されてしまう可能性もある。千里がこの場を切り抜けられそうな言葉を考えていると、怜が口を開いた。


「はい。兄妹のコミュニケーションを取っていました」

「えっ?」


 反射的に千里は怜を見た。怜が考えなしに認めたとは考えられないが、耳を疑わずにはいられなかった。


「コミュニケーション……?」

 唯衣が首を傾げる。

「はい。わたしお兄ちゃんっ子なので無理言って一緒に住ませてもらっているんです。だからせめてものお返しに、お兄さんが大好きな速水さんの音声作品のシチュエーションを再現していたんです」


 困難を切り抜けるためとはいえ性癖をバラされてしまった!! しかしほとんど怜のオリジナルだったし、それにどう考えたって唯衣に納得してもらえるとは思えない。訂正したところでその後どうすればいいのか分からないが、千里が口を開こうとした瞬間。


「なるほど……仲がいいんだね」

「納得するのかよ!」


 反射的にツッコミを入れてしまった。


「では嘘なんですか?」

「あ、いや……そんなことはないですよ。はい、本当です」


 全力で作り笑いを浮かべ、事実であることを強調する。


「桐山さん」

「……はい」


 声のトーンを落として自分の名前を呼ぶ唯衣に、千里は身を固くした。表情の変化が少ない唯衣だが、思い詰めているように見える。


「私の作品、そんなによかったですか?」

「え?」


 予想外の発言につい声が漏れてしまったものの、千里の中ですでに答えは決まっていた。


「もちろんそんなによかったです。速水さんの落ち着いた声を聴いてるだけで体の余計な力が抜けていって、下手な薬よりも安らいだ気持ちになってきます。正直時毎晩聴かないと眠れないくらいで、毎月新作を出してほしいくらいです」

「そう……なんですね」


 唯衣は安心したように表情を緩め、笑みを浮かべた。


「たまに聴く程度だって言ってた気がしますが……そうだ。速水さんも一緒にやりませんか?」

「え? いやいやいやいや!」


 千里はベッドから立ち上がった。どうしてその流れになるんだと問い詰めたかったが、そういうわけにもいかない。「もちろん、冗談ですからね?」と引きつった笑みを唯衣に向けると、


「……人間相手にやるのは初めてなので上手くできるかはわかりませんが」


 当の本人が意外と乗り気のようだった。


「あの、断ってくれて全然構わないですからね?」

「いえ、やります」


 唯衣は即答した。仕方なく、というよりは進んでやりたがっているようだ。


「じゃあ、『【癒やし/囁き】性格正反対の年下双子に左右から優しく囁いてもらう音声【CV 速水唯衣】』の台本をタブレットにダウンロードするので、それを見ながらやりましょうか」

「うん、わかった」


 いくら唯衣が承諾したとはいえ「じゃあお願いします」と言うわけにもいかずどうしたものかと思っているうちに、怜はタブレットを操作し、話を進めていく。


「あ、ダウンロード終わりました。お兄さん座ってください」

「……分かったよ」


 千里は素直に先ほどまで座っていた場所に戻った。口ではああは言ったが、唯衣に耳元でささやいてもらえるなんて、お金を払ってでもお願いしたいくらいだ。しかし緊張する。歯の治療前に歯科用チェアユニットに座っているときのように、なんだか身構えてしまう。


「では始めましょうか。速水さんは反対側に座ってください」

「うん」


 唯衣は怜とは反対側に座った。2人の美女美少女に挟まれる。未知の体験に、千里の心臓は高鳴っていた。


「では、わたしが莉恵をやりますね」

「じゃあ私が莉夜だね」


『【癒やし/囁き】性格正反対の年下双子に左右から優しく囁いてもらう音声【CV 速水唯衣】』は、クール系の莉恵(りえ)と、社交的な性格の莉夜(りや)にポジションを入れ替えつつ、文字通り優しく囁いてもらう音声作品だ。


「お兄ちゃん」「兄さん」


 唯衣と怜が同時に千里の耳元で囁いた。最初のセリフだ。


「ふっふぉう」


 快感のあまり、痙攣とともに怪音が口から漏れ出ていた。耳へ直接危ない薬物を注ぎ込まれたかのような快感に、鳥肌が立つ。


「桐山さん? 大丈夫ですか?」

 唯衣が千里から顔を離して名前を呼ぶ。

「ハヒ、大丈夫れす」


 呂律が怪しいがなんとか返事をする。


「じゃあ、続けますね」


 唯衣が怜に目配せをすると怜は頷き、台本を読みはじめた。


「……はやく起きないと遅刻しますよ。まあ、わたしは別に兄さんと一緒に登校する必要はないんですが」

「莉恵ちゃんこんなこと言ってるけど、お兄ちゃんがいないと不機嫌なんだよね。だから早く起きて〜」


 最初のトラックは、2人に起こされるというシチュエーションだ。


「べ、別に兄さんがいなくても問題ありません。そもそも、なぜ兄さんがいなくてわたしが不機嫌にならなければならないんですか?」

「お兄ちゃ〜ん。莉恵ちゃんが不機嫌になってきたからそろそろ起きてほしいな。そうだ、2人一緒に耳フーしない?」


 2人は起こそうとしている設定なのに、千里は今にも意識が飛んでしまいそうだった。耳に当たる吐息がくすぐったい。『だ行』が『た行』に聞こえるようなささやき声が耳に届くたびに快感に体が震える。というか、耳フー??


「「フーッ」」

「〜〜〜っ!!」


 千里の目は虚ろに開き、口の端からはよだれが垂れていた。


「あ、お兄ちゃん起きたみたい。……桐山さん?」

「……はっ!」


 ベッドに崩れ落ちそうになっていたギリギリのところで持ちこたえた。


「大丈夫……ですか?」

「大丈夫です。気持ち良すぎて意識が飛びそうになってただけですから」


 音声作品でここまで意識が遠のきそうになったことはない。リアルで囁いてもらう気持ちよさと恐ろしさを知った千里だった。

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