家出

 帰宅した千里を待っていたのは、ふくれっ面の怜だった。


「お腹すきました」

「ごめん」


 唯衣を送っていけと言ったのは怜であり、送ってる間に香折に何か食べさせてもらえばよかったのでは、と思ったものの立場上口には出さない。


「それより、お兄さん不用心ですよ? わたしを家に1人なんて、なんでも盗み放題じゃないですか。……まあ、それが狙いだったんですけど」

「なっ」


 反射的に千里は怜から一歩後ずさった。やはり、この女の子は信用できない。

 せせら笑う怜を視界に収めつつ部屋を見回すが、特に部屋の様子に変化はない。

 一体何をしたのだろうか……と思っていると、不意に怜は「ふふ」と笑った。


「もちろん冗談ですよ。お兄さんをからかってみただけです」

「え?」


「わたしが家に残ったのは、お兄さんが『一般の方』になるチャンスを後押しするためです」


 一般の方とは、声優が同業者以外と交際している・結婚した場合に相手に対して使用する言い回しだ。


「なんだよそれ……というか、嫌じゃないの?」


「お兄さんが速水さんと仲良くなれば、お兄さんの妹という設定のわたしは実質速水さんの妹になり、速水さんは一人っ子なので、わたしは速水さんと妹という唯一無二の存在になれます。だからお兄さんを後押しするのは理にかなっているわけです」


 どれだけ唯衣を崇拝しているんだ、と思いつつも、千里は怜の言葉を真に受けていなかった。先ほどの怜の発言で再認識したが、彼女は突如部屋に転がり込んで自分を脅迫してきたのだ。


「……本当は何を盗ったんだ?」


 声のトーンを落とし、冗談ではなく真面目な話であることを強調する。


「だから、何も盗っていませんよ?」


 怜は首を傾げ、苦笑を浮かべる。


「君の立場で信じてもらうのは難しいって分かってるよね」

「……」


 千里の態度に、怜の顔から笑みが消える。


「今ならまだ大目に見るから、正直に言ってくれないかな」


「本当に何も盗っていません。信じてください」


 しかし一度自分をハメようとしている、と思うと、もう怜が何を言っても自分を騙そうとしているようにしか見えなかった。


「……信じられる材料がないよ」


「ッ……! この堅物!」


 前触れなく駆け出した怜は、すれ違いざまに千里に肩をぶつけると、そのまま家を出ていってしまった。


 瞬間、最悪の結末が千里の脳裏をよぎる。すかさず怜の後を追って家を飛び出したが、すでに怜の姿はなかった。

 もし交番に駆け込まれでもしたら人生終了だ。家の近くにある交番へ向かうことにしたが、中には警官が1人いるだけで、怜の姿はない。


 すでに未成年が1人で出歩くには遅い時間だ。補導されて自分の名前を出されたらどのみちアウトだし、それに夜は冷えるというのに怜はセーラー服のみと軽装だ。到底寒さをしのげる格好ではない。


 とはいえ、怜がどこに行きそうかが分かるほど彼女のことを知らない。千里が取れる手段は、自宅周辺を虱潰しに探すことしかなかった。


 こういうときに真っ先に思いつくのは公園だ。近所の公園へ走るが、怜どころか人影もない。別の小さな公園にも行ってみるが、やはり誰もいない。


 怜は一体どこへ行ってしまったのか。乱れた呼吸を整えながら道路脇の歩道を歩いていると、道路を挟んで反対側にあるコンビニの照明に視線が吸い寄せられ――立ち読みしている怜の姿が視界に入った。


「はあ……」


 思わずため息が出る。道路を横断して店内へ入ると、怜の横に立った。

 怜は一瞬だけ千里に視線を向けると、


「何の用ですか」


 すぐにまた本に視線を戻した。読んでいるのは声優雑誌だ。


「……帰ろう?」


「信じられる材料がない女の子は家に置けないんですよね」


 怜は雑誌に視線を落としたまま、皮肉を言ってくる。


「……信じるよ」


 怜の言う通り今も材料はないままだ。ただ、怜のことは信じたほうがいい、信じなければならない気がした。


「お兄さんを信じられる材料がないです」


「お腹すいてるでしょ。好きなもの買っていいから」


「……」


 怜は無言で雑誌を閉じると棚に戻し、千里を見た。


「今の言葉、信じましたからね」


   ◇  ◇  ◇


 5分後。

 千里は両手にレジ袋を、怜は右手におにぎり、左手に暖かいお茶を持って帰路についていた。

 コンビニにいたときとは打って変わって、怜は上機嫌でおにぎりを頬張っている。

「……そういえば、なんでうちに入ろうと思ったの?」


 今更感のある質問だが、怒涛の展開が続いていたせいで疑問に思う暇がなかったのだ。


「窓から速水さんの写真集が置いてあるのが見えて、きっと悪い人じゃないんだろうなって思ったからです」

「それだけ?」

「はい」


 こともなげに言う怜に、世間知らずで危なっかしいと思ってしまった。

 ある意味、怜が転がり込んできたのが自分の家でよかったのでは、と思わずにはいられない。


「冗談が通じないのは玉にキズですが、予想通り優しい人でよかったです」


 怜は笑みを浮かべると、お茶を一口飲む。


「……別に優しくなんかないよ」


 これは優しさなんかじゃない。千里は怜には聞こえない声量でつぶやいた。


   ◇  ◇  ◇


 風呂場からシャワーの音と、上機嫌な鼻歌が聞こえてくる。

 帰宅した千里にさらなる試練が待っていた。

 壁を一枚隔てた向こう側では、怜が一糸まとわぬ姿になっている。想像すると、じっとしていられなくなってくる。


 千里は机の前に座りヘッドホンを装着すると、PCで唯衣のASMR作品を聴くことにした。

 目を閉じ、唯衣の声に意識を集中する。


 ASMRとは、本来聴覚・視覚への心地よい刺激で抱く、または発生する反応のことだ。

 近年では、ダミーヘッドマイクを用いてマッサージや耳かき、至近距離からのささやきなど、リラックスできる行為を本当に受けているかのように感じられる音声作品のことをASMRと呼んでいる。


 千里が聴いているのは、唯衣が演じる恥ずかしがり屋の幼なじみキャラが耳元でささやいてくれる音声作品だ。


『ねえ……私はずっと君と一緒にいられたらなって思ってるんだけど……どう……かな?』


 触れるか触れないかの距離で耳を撫でられているかのようなささやき声を聴いていると、ざわついていた心も、いつの間にか波一つない夜の湖のように静まっていく。


 人間の体とは不思議なもので、シナリオ・演技・音響、すべてが高品質の音声作品を聴き入っていると、存在しない記憶が脳内で生まれ、音声作品の『彼女』が本当に存在しているかのような錯覚を起こすことがある。


 しかし今回の千里はまた異なった感覚を味わっていた。

 実体のないモヤのような何かが人の形をとりはじめたかと思うと、唯衣の姿へと変わってしまったのだ。きっと実際に唯衣と会い、話したからだろう。


 台本を持った唯衣が自分の耳元でささやいている……。当初はまずいと思ったが、しょせん想像だ。些細なことは気にせず、音声作品の世界へ没入していると、


「……【癒やし】恥ずかしがり屋の幼なじみが耳元でささやいてくれる【CV.速水唯衣】ですか。これわたし聴いていな――」


 いつの間にか風呂から上がった怜がディスプレイを覗き込んでいた、


「わあ!」


 怜が何もないところから急に現れたように感じ、椅子から飛び上がる。


「え、今の驚く要素ありましたか?」

「いや、ないけど」


 ヘッドホンを外し、意識的に深い呼吸をして意識を落ち着ける。

 いつまでも音声再生ページを開いているのも気まずかった。ふと目に入った radiko のブックマークをクリックし、適当なラジオ局を再生すると、ニュースが流れ始めた。


『本日開かれた国会で、宇部総理は政治方針が混迷を極めているという指摘に対し、誠に遺憾と表明し……』


「政治家も大変だよな」


 話題を変えようと話を振ってみたものの、


「いい時間ですしそろそろ寝ませんか」


 怜は話に乗ろうとせずにベッドを見つめる。もしかしたら眠いのかもしれない。

 と、そこで千里は致命的な事態に気づいてしまった。


「……布団、これしかないんだけど」


 千里の家にあるのはシングルベッドだ。当然2人で寝る場合は肩を寄せ合う必要がある。


「では、川の字になって寝ましょうか」


 怜はこともなげに言うと、布団に入ってしまった。


 本当にいいのかと思わずにはいられないが、ベッドは一つしかないのだから選択肢はない。しかし怜は恋人ではなく、ましてや本当の妹でもない。千里が椅子の上で固まっていると、


「すぅ……」


 あっという間に寝てしまっていた。

 気丈に振る舞ってはいたが、やはり疲れていたのだろう。


 寝息を立てている怜を見ていたら、千里にも眠気が襲ってきた。

 謎の女の子が家に居着き、人気声優の速水唯衣と知り合い、ご近所さんは人気イラストレーターのあずまスメル……。

 いろいろありすぎな一日だった。疲れるのは当然だ。


 しかし、ベッドには怜がいる。


「……一つしかないんだから仕方ないよな」


 怜を見ないように背中からベッドに入る。起きている間は生意気なことばかり言ってくる怜だが、背中越しに聞こえてくる寝息は、か弱い。


 寝息を聞くたびに無防備な寝顔を見せる怜を想像してしまい、意識から追いやろうとするものの、逆に意識が向いてしまう。

 明日も仕事なのに一睡もできなかったらどうしよう、と思ったものの、ほどなくして睡魔に襲われ眠りに落ちていった。

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