苦い思い出

 憧れの速水唯衣と二人きりにもかかわらず、千里は今にも心が折れそうだった。


 香折の部屋でお開きになったあと、怜から命じられ、千里は唯衣を駅まで送っていくことになった。確かに1人帰らせるのもどうかと思ったのと、唯衣と2人になれるなんて、なにかの間違いでもなければ起こり得ないこと……なのだが。


 千里は目だけを動かし、横を歩く唯衣を見た。出発して5分が経過しているが、最初に一言二言の会話があっただけで、その後はお互い無言だ。

 静寂と寒さが気まずさを加速させる。何か話題を、と思いベクタースターの話をしようかと思ったものの、それしか話せないのかと思われるかもしれない。やっぱりなしだ。


「……どうしました?」

「あ、いや、えっと……最近どんどん寒くなってきてますよね」


 とっさに口から出たのは、無難の頂点に君臨するような話題だった。


「はい、そうですね」


 そして唯衣からは必要最低限の反応が返ってくる。イベントに出演しているときの多弁で表情豊かな作ったキャラではなく、本当の彼女を知ることができたのは感動的だが、さっきからこんな調子で会話が続かないのは辛い。


「……こう寒いと鍋とか食べたくなってきますよね」

「確かにそうですね」


 なんとか会話を続けようとしたものの、沈黙が再び訪れる。さっきはベクタースターの話ができたが、やはり連絡先を交換したとはいえ警戒されているのだろうか。夢にまで見た展開なのにもどかしい。


「えっと……速水さんって意外と辛いの好きそうだからキムチ鍋とか好きそうですよね……なんて」


 会話ベタ過ぎる自分に内心顔を覆いたかった。羞恥心から寒いのに汗が滲んでくる。


「……私は水炊き鍋の方が好きですね。辛いのはそんなに好きじゃなくて」

「え、ホントですか? 俺も水炊き鍋好きなんですよ。というか、調味料のポン酢が好き、だからかもしれませんけど」

「私もそうですね」

「え……そうなんですか?」

「はい。ポン酢の酸味と白菜のホロホロ具合が合うんですよね。味がついた鍋でもおいしくないわけじゃないんですけど、なんだか物足りなくて」


 相変わらず淡々とした口調で語る唯衣。しかし発言内容は必要最低限のものではない。何がよかったのか分からないが、会話の糸口を作れたようだ。


「分かります! 鶏肉とかたまらないですよね。あ、鍋の話をしてたらなんだかお腹へってきたような?」


「……」


 しかし張り合いが出てきたかと思いきや、唯衣は黙り込んでしまった。もしかして、何か間違ってしまったのだろうか。だとしたら挽回しなくてはならないが、下手に何か言って逆効果になってしまったら洒落にならない。気づかぬうちに失態をやらかしてしまった可能性に千里が焦っていると、


「……無愛想ですみません。あまり人と話すのが上手じゃなくて」

「……え?」

「気を悪くされましたよね」

「あ、いや、全然そんなことないですよ。俺たち今日が初対面ですし、それに鍋の話ができてたじゃないですか」


 知らぬうちに失言をしてしまったわけではないなら一安心だ。唯衣の罪悪感を取り除くべく、意図的に笑みを作る。


「ありがとうございます。仕事中は演技の延長線のようなものなので大丈夫なんですけど、気がつくとそっけない話し方になってしまって」


 女性声優はファンから親近感を得るため、ラジオなどで「人付き合いが苦手」と発言することがある。

 しかし、声優という仕事は多くの人と関わるため、本当に人付き合いが苦手ではやっていけるはずがない。

 そのため『陰キャ営業』と揶揄されることがある。唯衣も以前ラジオ番組で「人付き合いが上手ではない」と話していたのを千里は記憶していたが、どうやら営業ではなかったようだ。


「陰キャ営業じゃなかったのか……」


 思わず独り言が漏れてしまう。


「何か言いました?」

「あ、いや、なんでもないです。でも友達とは普通に話せるんですよね?」

「私小学生の頃から仕事をしていたので友達もいなくて。声優仲間とはたまにご飯を食べたりはしますけど、休日に遊びに行ったりはしないですね」


 以前なにかのインタビューで「休みの日は1人でいることが多い」と言っていた気がする。 


 今度は危うく「ぼっち営業じゃなかったのか」と口に出してしまいそうになったが、今度は心の声で留めることができた。


「でも今は普通に話せてませんか?」

「確かに……もしかしたら、桐山さんとは気が合うのかもしれませんね」


 気が合う。その一言を聞いた瞬間、胸の奥が温かくなる感覚があった。少なくとも、家を出る前よりは距離を縮められたのは間違いないだろう。もしかしたらこの調子でいけば、もっと仲を深められるのではないだろうか。そしていずれは……。


 ――「キリキリといると、つい色々話しちゃうな」


 苦い記憶がフラッシュバックし、胸に痛みが走った。千里は知っている。交友関係が狭い=恋人がいないは成り立たないことを。だいいち、こんな美人を他の男が放っておくはずがない。  


 ついさっきまでは唯衣が隣にいることに浮かれていたが、今はその距離が逆に苦しかった。自分のためにも、遠い人のままの方にしておいたほうがよさそうだが、場をしらけさせたくないので、「そうですね」と無理に笑みを作る。


 その後は再び無言で歩き続け、駅が前方に見えてきた。


「今日は楽しかったです。また、来てもいいですか?」

「え?」思わず表情がこわばるが、すぐに作り笑いで取り繕う。「……あ、はい、大丈夫です」


 唯衣のことを知れば知るほどきっと苦しくなる。しかし唯衣を悲しませるのが嫌で、本心とは真逆のことを答えた。

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