速水唯衣
都内某所の音声収録スタジオブース内では、薄い色の冊子を持った男女2人組がマイクに向かって声を吹き込んでいた。
「僕はたしかに生姜焼きを作ってと言った」
男の方が不機嫌そうな声を発する。しかしまるで男の声を別の誰かが吹き替えているかのように、声とは裏腹に無表情だ。
「だからほら、いい匂いがしてるでしょ?」
対して、女の方は声と表情が連動している。
マイクの前方に設置されているディスプレイには、下書き状態の絵が表示され、数秒後ごとに別の絵へ切り替わっていく。
アニメ制作の現場において、声の収録の段階で映像が出来上がっていることはまれだ。
よって声優はコマ送りの動画を見ながら、完成した映像を見越した演技を求められる。
「言ったけどさ……なんでニンジンが入っているんだ!!」
「でも豚肉とタマネギだけじゃ彩りがないでしょ?」
ブース後方には併設されているコントロールルームとつながる窓があり、中年の男性数名がそこから2人を見守る、もとい聞き守っていた。
「それがいいんだよ! ニンジンだけじゃなく、ピーマンまで入れちゃったらこれはもう生姜焼きじゃない。ショウガで味付けした野菜炒めだ!!」
「私はあなたのことを思ってニンジンとピーマンを入れたのに……バカ! あなたなんて夜盲症になっちゃえばいいんだわ!」
「生姜をバカにするな! 食欲不振や消化不良に効くし、免疫力上昇効果まであるんだぞ~!」
「はーいオッケーです。ありがとうございまーす」
台本の最後まで収録したところで、スピーカーを通して収録ブースからの声が聞こえてくる。
「ありがとうございました」
女性の声を担当していた速水唯衣(はやみゆい)は後ろを向き、ブースに向かって頭を下げた。チャームポイントであるつややか黒髪が胸側へ垂れる。
演技中の唯衣は表情がコロコロ変化していたが、今は打って変わって無表情で、一見近寄りがたい印象を抱かせる。
しかし天使の輪が輝く長い黒髪、くすみのない白い肌、そして星空に照らされた海を閉じ込めたような目。それらが合わさると、ネガティブな印象はすべてかき消え、「綺麗」という感想だけが後に残る。
収録が終わり、緊張感に満ちた空気が弛緩すると、壁沿いに設置されている椅子に座っていた女性が立ち上がり、唯衣に話しかけてきた。
「お疲れ様です」
唯衣も「お疲れ様です」と会釈する。
声をかけてきたのは、同じく声優の馬山(まやま)だった。21歳の唯衣より10個年上で、以前は地方でサラリーマンをしていたものの、夢を諦めきれずに上京し、今に至る。アイドル的な活動は特になく、キャラソンをいくつか出した程度。
声優業界は椅子取りゲームだ。毎年有望な新人が入ってきて、ベテランもなかなか引退しない。誰かが脚光を浴びる影で、誰かが心折れ業界を去っていく。
そんなゲームで馬山はハンディキャップを乗り越え、自分専用の椅子を作り上げてしまっていた。
「上から目線に聞こえたらすみません。速水さんってハイテンションな演技本当に上手ですよね。私はどうしてもワンパターンになっちゃって」
「そんな。馬山さんに比べたら私のほうがワンパターンです」
「速水さんは本当に謙虚ですね。私も見習わないと。それでは私は失礼します」
「……お疲れ様です」
笑みを向け去っていく馬山に唯衣は頭を下げた。
馬山と同じ年数キャリアを積んだとき、自分は彼女と同じくらいの実力を持てているだろうか。もっといろんな役柄に挑戦しなければ、努力しなければ生き残れないのではないだろうか。
ついそんなことを考えてしまったが、今考えても仕方がないと一旦頭から追い出し、馬山に続いてスタジオを後にしようとしたところで、先ほど唯衣と共演していた男――本木凌(もときりょう)が声をかけてきた。
「速水さん。このあとちょっと付き合ってもらえませんか?」
凌は中性的な顔つきとは裏腹に地声が低く、そのギャップから女性ファンが多い。
「すみません。用事があるので」
「そうですか。じゃあ、またですね」
凌は食い下がることもなく、嫌味のない笑みを浮かべる。
唯衣が「失礼します」と言い残してスタジオの外に出ると、同じ事務所で共演者でもある大原詠(おおはらよみ)が追いかけてきた。
「いつも塩対応だね」
「本当に用事があるので」
2人は並んで駅へ向かって歩く。
詠は唯衣の2つ年上の23歳だ。髪型を短めのウルフカットにし、服装はぎりぎりビジネスカジュアルでも通りそうなパンツルック。一言で言うと『頼れるお姉さん』のような雰囲気の女性だ。
「もしかして男ー? だったらはっきり言ってあげたほうが優しいと思うけどな」
「いえ、賃貸マンションのオーナーになったので、住人の方々へ挨拶に行こうかと」
茶化す気マンマンの様子の詠に対し、唯衣は特に動揺することもなく受け流す。
「それホント?」
「詠さんが私に勧めたじゃないですか」
「うーん、確かに言ったんだけどね……世間知ら、じゃなくてなんというか……冗談だったんだけどな」
唯衣から視線を外し、苦笑を浮かべる詠。
「私を騙したんですか?」
唯衣は表情を変えずに詠を見る。
「唯衣を騙すはずないでしょ。私達の仕事ってやっぱり水物だし、他に収入源があるのはいいと思うよ。……本当に買うとは思ってなかったけど」
最後の一言は小声だったので唯衣には届かなかった、
「そういういうことにしておきます」
「でもさー、本当に男に興味ないの? 同業者は嫌って言ってたしそれじゃ出会いもないよ?」
「……今は仕事に注力したいので」
興味がゼロというわけではない。しかし中高は仕事が多く友人を作る機会がなく、同業者は同業者としか見られない。だからといって、わざわざ出会いの場に出向く気にもなれなかった。
前方に地下鉄の案内が見えてきた。別路線を使う詠と別れ、階段を降りていく。
『私たちの仕事は水物』
詠の言う通りだと思った。だから唯衣は賃貸マンションのオーナーになった。
しかし馬山のような実力があれば水物なんてことはなく、10年20年と声優を続けていけるだろう。
今自分は若くて、若い女の子のキャラを演じることが多い。でも、年配の女性や動物のような、自分とは違う属性の役ができるだろうか。馬山はできる。
今自分がすべきはオーナーになることだったのだろうか。
そう思いつつも、確固たる答えを出すことはできなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます