気持ちだけは逸般の方だから

アン・マルベルージュ

謎の家出少女

 桐山千里(きりやませんり)が自室のベッドで目を覚ますと、女の子が部屋にいた。友達でも妹でもないし、ましてや恋人でもない。千里は専門学校を卒業後に働き始めて現在21歳。彼女いない歴=年齢だ。


 ベッドから1.5メートルほど離れたところにある机の前に彼女は座り、あろうことか、千里のパソコンのロックを勝手に解除し、ヘッドホンでなにかを聴いていた。


「速水唯衣(はやみゆい)さん出演のアニメは全部チェックしてきましたが、音声作品がありましたね……不覚です」


 彼女はヘッドホンを外しながらつぶやく。独り言でありながらも聞き取りやすい、落ち着きのある声だった。


 一体どういう状況だこれは。やっと千里の頭が回り始め、まずはベッドから抜け出さなくては、と思ったところで彼女と目が合い、


「あ、お兄さんおはようございます」

「え? ああ、おはよう、ございます……」


 反射的に挨拶を返してしまった。


「速水唯衣さんの音声作品は聴いたことがなかったので新鮮でした」


 謎の彼女は目を細め笑った。年は16〜17くらいだろうか。腰にまで届きそうな長髪をツーサイドアップにし、セーラー服を着ている。滑舌良く、落ち着いた口調から、なんとなく育ちがよさそう。と千里は思った。

 そんな高貴な印象の彼女だが、丸い大きな目からは年相応のあどけなさを感じさせる。


「そう、なんだ」

「はい! 速水さんのそっけない態度の奥から深い愛情を感じさせる演技は、聴いていて耳だけでなく、全身が幸福感でいっぱいでした」

「……というか、どこから入ってきたの?」


 千里は会話の流れを無視して、今一番気になっている疑問を投げかけた。


「鍵、空いてましたよ」


 彼女はサッシを指差す。


「そんなはずは」と言いながらやっとベッドから出た瞬間、千里は体を縮こめた。季節は11月終盤。気温は下がっていく一方だ。

 ベッドに戻りたい欲求に耐えながらサッシの前へ歩いていくと、確かに開いていた。そういえば、昼間に空気の入れ替えをしたときに鍵をかけ忘れた気がする。


 視線は無意識のうちに、サッシのすぐ横の壁に貼ってある、女性声優・速水唯衣のポスターへ向けられていた。以前写真集を購入したときについてきた特典だ。


 つい見とれてしまうが、今はそれどころではない。謎の彼女へ向き直り追加の質問を投げかけようとしたが、先に謎の彼女が言葉を発した。


「お兄さん。わたしをこの家に置いてくれませんか?」

「はい?」予想外の発言に間の抜けた声が漏れるが、答えは言うまでもなかった。「いや無理でしょ。というか、一体君は誰なの?」

「わたしは……えっと、怜(れい)です。はい、名乗りました。これで家に置いてくれますよね?」

「いや、誰もそんなこと約束してないし、というかそれ本みょ――」

「わたしの個人情報を何だと思ってるんですか!」謎の彼女――怜? は立ち上がり、千里に詰め寄ってきた。「名乗るだけ名乗らせておいて約束を守らないなんて、鬼畜の所業です。それでも大人ですか?」


「ちょっと、落ち着いて落ち着いて」


 胸の前で両手を広げ、怜をなだめる。


「わたしは落ち着いていますっ」

「でもさ、君明らかに未成年だよね。しかも親戚でもなんでもない。俺犯罪者になっちゃうから。ね?」

「……わかりました。それでは玄関まで送ってください」

「え? まあいいけど」


 急に大人しくなった怜に続いて部屋を出ると玄関へ向かう。なんとも振れ幅の大きい女の子だ。一時はどうなるかと思ったが、なんとか帰ってくれそうだ……と思ったのもつかの間。


「何してるの?」


 怜は千里の質問に答えることなく玄関のドアを背にし、付近の『角』を掴み始めた。無作為に掴んでいるわけではなく、玄関周辺を見渡して「こうかな」とつぶやいては角を掴んでいく。しかも指先が震えているあたり、かなり力を入れているようだ。怜はそれを何度か繰り返したあと千里に向き直り、


「玄関近辺にわたしの指紋をつけました。このまま警察に駆け込んで『無理やり家に連れ込まれそうになって必死に抵抗してなんとか逃げてきた』って言ったらお兄さんは犯罪者です」


 怜が物騒なことを口走った瞬間、逮捕され、職を失い、出所後どん底の生活を送る自分の姿が脳裏をよぎり――背筋に寒気が走った。


「とっ、とりあえずコーヒー飲みながら話し合わない?」


 このまま怜を帰すわけには行かない。千里は近寄ると逃げてしまう猫を相手にしているかのように、ゆっくり距離を詰める。


「わたしコーヒー好きじゃないんですよね」


 怜は千里に背を向けると、いつの間にか置いてあった靴を履き始めた。


「そんな事言わずに、どうぞ、ゆっくりしていってくださいよ」


 千里は顔をひきつらせながら、今自分ができる最高の営業スマイルを浮かべる。


「そこまで言うなら仕方ないですね。では、しばらく居着かせてもらいますね」


 怜は靴を履くのをやめると、元いた部屋へ向かって歩き始めた。千里は怜の後を追いながら頭を垂れ、ため息をつく。これからのことを考えると不安で仕方なかった。


「そうだ」


 怜の声で千里は反射的に顔を上げた。何かろくでもないことを思いついたのではないだろうかと思ったが、継がれた二の句は気の抜けるものだった。


「わたし、お腹が空きました」


   ◇  ◇  ◇


 千里はトーストを食べながら、同じくトーストを食べる怜を観察していた。普段の定位置である椅子には怜が座っているため、仕方なく立って食べている。怜は文句を言いたげな顔でトーストを咀嚼しつつも背筋を伸ばし、ちゃんと両手で持って食べている。


「……そういえば、お兄さんも速水唯衣さんが好きなんですね」


 トーストを3/4食べたところで、怜は壁に貼ってある速水唯衣のポスターへ視線を向けた。


「まあ、それなりだとは思うよ」

「謙遜しますね。部屋にポスターが貼ってあって、写真集を本棚の上に飾っている、の二点で十分『好き』と言ってもいいと思いますけど」


 怜は残りのトーストを口に押し込んだ。


「と言っても、世の中上には上がいるし」

「でもその上の上って、お金をどれくらい注ぎ込んでいるかの話ですよね。はっきり言います。金額での殴り合いなんて不毛です。大事なのは情熱です。私は速水さんのインタビュー記事は内容も記憶していますし、出演作も全て覚えています。なんならモノマネもできます」

「そう、なんだ……」


 若干引きながらも、千里は怜と共通の話題があることに安心感を抱いていた。自分も若者とはいえ、女子高生と何を話したらいいのか分からないどころか、同じ言語を話す別の生物としか思えなかったからだ。しかし今は人間にちゃんと見える。


 と、安心したのもつかの間、大事なことを忘れてしまっていたことを思い出した。


「そうだ仕事!」千里は椅子に座る怜の元へ向かう。「……ちょっとベッドに移ってくれないかな?」

「何をするつもりですか? まさかわたしに乱暴するつも――」

「仕事ってさっき言ったでしょ」


 バカバカしい話に付き合っていられない。途中で言葉を被せる。


「テレワークというやつですね」

「そう」

「それなら仕方ないですね」


 怜は素直に椅子から立ち上がり、ベッドへ向かっていった。千里は椅子に座ると、机の上に置いてあるノートパソコンの電源を入れ、ブックマークしてある出退勤システムで『出勤』を登録する。千里はWebサービスを開発する仕事をしている。業界内では『Webエンジニア』や『ソフトウェアエンジニア』と呼ぶことが多い。


「これがテレワークですか」

 いつの間にか怜が後ろに立っていた。

「今どき珍しくないんじゃない。お父さんやお母さんはしてなかったの?」

「……まあ、そうかもしれませんね」


 急におとなしくなった怜はベッドへ戻っていく。高校生が家出する理由なんて基本両親とのいざこざだ。未成年は両親の方針に従うしかなくて、できる反抗手段となると、もう家出くらいしかない。急におとなしくなったのは気がかりだが、千里としてはおとなしいに越したことはない。


 アプリを立ち上げビデオ通話を開始すると、画面上に金髪で眉の細い男が現れた。この業界は髪の色に特に決まりがないことも多いので、イケイケな見た目をしている人も珍しくない。


『おはよう』

「おはようございます」


 画面に映っている金髪の男――君尾太郎(きみおたろう)に挨拶を返す。君尾は会社の先輩であり、チームリーダーだ。


『進捗と、今日のタスクを教えてくれ』

「進捗は特に問題なしで、今日からフロントエンド(アプリケーションのUIのこと)の実装に入ろうと思います」

『オッケー分かった。他に何か相談したいことは』

「特にないです」


 午前中にその日のタスクと進捗状況、困りごとを共有する時間は朝会(あさかい)と呼ばれている。


『そうか。ところで、《幼なじみがまた増えた!》は見てるか?』


 そして軽い雑談をしてコミュニケーションを取るのも朝会の役割だ。『幼なじみがまた増えた!』は、現在放送中のラブコメアニメで、自分を幼なじみと名乗る女の子が主人公である男の元へ集まってくる……といういわゆる『ハーレムもの』だ。


「はい、見ていますが……」


 千里の顔が引きつる。太郎が何を言い出すか何となく予想がついたからだ。


『次の新作はそれにしようと思ってて、強引に主人公の友だちになった竿が家に遊びに来て、1人ずつ手籠めにしていく……というのを考えていたんだが、いざ口にしてみると平凡だな。いっそ男の娘としてハーレムに潜り込ませるのもアリか……」

「まあ、好きにしていただいていいんじゃないですかね……」


 腕を組んで考え始めた太郎に、千里は苦笑するしかなかった。君尾はNTRモノを専門とする同人作家だ。見た目通りの豪胆な性格で、以前SNS上で殺害予告を受けたことを笑い話として聞かされたときは、さすがにドン引きした。ちなみに描いている理由は『現実には体験できないことを味わうため』らしい。


『ところで桐山』

「はい」

『後ろに誰かいるのか?』

「え……ぎょあ!」


 千里は後ろを向いた瞬間、奇声とともにノートパソコンを閉じた。


「ちょっと、後ろに立たないでもらっていいかな? 映り込んじゃうから……」

「あ、すみません。つい気になっちゃって」


 怜がベッドに戻っていくのを見届けると、千里は再びノートパソコンを開いた。


「すみません。一瞬回線が落ちてました。さっき見えてたのは多分、アイドルのポスターじゃないですかねー?」


 千里は後ろを向き、さも事実であるかのように強調するが、当然ポスターなんて貼っていない。


『なるほどな。セーラー服が見えたから、ついに桐山が犯罪に手を染めたかと思ったぜ』

「いやいや、俺は善良な一般市民ですから……」


 寒くなる一方なのに、汗が滲む。


『といってもお前の年なら高校生はまだギリギリセーフだと思うけどな』

「いやアウトですから……」


 この人がリーダーで大丈夫なのか心配になってくる。


『まあしかし、相手が女子高生でも俺はいいと思うぞ。前に話してくれた例の彼女にいつまでも操を立ててるよりはよっぽど健康的だ。向こうも桐山のことなんて存在自体忘れてるだろうしな』

「大丈夫ですよ。最近は思い出さなくなったことも忘れてるくらいですから」

『それならいい。じゃあ、今日もよろしくな』

「よろしくお願いします」


 通話を切り、千里がため息をつくと怜が近寄ってきた。


「お兄さんも色々あるんですね」

「別に」とそっけなく答えたところで、ふと一つの疑問が湧き上がってきた。「というかなんで『お兄さん』なの?」


「わたしお兄さんには自己紹介してもらっていませんから、お兄さんとしか呼びようがないんですよね。だから教えてください」


 名字はすでに知られているとはいえ、抵抗があった。郵便物などからいずれバレてしまうとしてもだ。それにおそらく怜は偽名を使っているのに、こちらは本名を教えなければならないのも癪だ。とはいえ、拒否できる立場ではない。


「桐山……千里。桐箱の桐に山で桐山で、一十百千の千に里芋の里で千里」

「はい、お兄さん!」


 もし怜が本当に妹だったら、間違いなくシスコンになってしまいそうな笑顔だった。


「教えた意味なくない?」

「この呼び方に慣れちゃったので変える理由もないかなと思いまして」

「……まあいいや」


 別に名前で呼ばれても嬉しくない。むしろ赤の他人感のある『お兄さん』呼びのほうが気楽なまである。


「なんだか不満そうですね。もしかしてあだ名がよかったですか? そうですね、例えばキリキリ――」

「今のままでいいよ」

「え? はい。すみません」


 食い気味に拒否された怜は目を丸くし、千里はすぐに自分の態度を悔いた。今の立場は怜が上だ。へそを曲げられてしまっても困る。


「あいや、こちらこそごめん」と即座に謝ると、

「いえ、わたしも調子に乗りすぎました」


 怜は千里の恐れた通りにはならず、ベッドへ戻っていった。

 自分を脅迫してきたにしては、自分の非は素直に認めるし、なんともちぐはぐな女の子だ。

 一体何が目的なのだろう。気になって仕事に身が入らなかった。

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