第9話 進学、するかどうか迷ってる
「ごめん、私めちゃくちゃ寝ちゃってた……」
「ううん、いいよ。じゃあ私、そろそろ帰るね」
「うん……」
寝ぼけ眼で瞼を擦る美月の前髪に寝癖がついているのがかわいくて、片手でたすくを抱っこしたまま無意識に手を伸ばして前髪を直してやる。
あ、やっちゃった、と思ったけれど美月は気にするでもなくぱちぱちと何回か瞬きをした。
美月はかわいい。
猫みたいに丸い瞳がとても魅力的だ。薄桃色の唇に、唇で触れてみたくなる。
その細い身体、抱き寄せることができたらどれだけ幸せな気持ちになれるんだろう。
そんなこと絶対にできないけれど、絶対にできないからこそ、想像ばかりが膨らんで私の胸を容赦なく押しつぶそうとしてくる。
友達同士でハグするのなんて普通だし、真希とは日常的にしていることだけど、美月は真希とは違う。
女同士だしバレないからと言って、下心を隠して美月に触れるのは、違う気がする。絶対にフェアじゃない。
母親から「何時に帰ってくるの?」というメッセージが来ていたから、「あと十五分くらいで帰る」とメッセージを入れる。
「じゃあ、また来るね」
美月のスニーカーの隣に並べたローファーに足を突っ込んで振り向くと、美月がいつになく真剣な眼差しで私を見つめていたから首を傾げた。
「……どうしたの? もしかして、まだ寝足りなかった?」
今から、美月にとって長い夜が始まる。
睡眠時間をもう少し確保したかったのかな。美月に確認してからお母さんにメッセージを送ればよかった、なんて考えていたら、美月が左右に首を振った。
「ううん。奈々、あのね、聞いてもいい? 奈々は……どこの大学受けるつもりなの?」
「え?」
「県内の大学?」
突然聞かれて、少しだけ驚いた。
どうしよう、なんだかすごく言いづらい。
そうは思ったけど、私をまっすぐに見つめてくる瞳に、嘘をつけなかった。
「ううん、私は……全部、東京の大学を受けるつもり」
「そっか……東京……」
美月の表情が、さっと曇る。瞳の奥に、影が落ちたのがわかった。
「……美月は、どこの大学受けるの?」
今まで、なんとなく聞きづらくて聞けなかった。でも、この流れで聞かないのも逆に不自然だ。
そう思って尋ねると、美月は私から視線を逸らして足元を見つめた。
「私は……進学、するかどうか迷ってる」
えっ、と思わず声が出た。
学年一の秀才が、進学しない?
そのままいけば、県内で一番有名な大学にも入学できそうな成績なのに?
たすくを抱っこしたまま、美月はふっと儚げに笑った。
私は何も言えずに、唇をただ引き結ぶしかない。
「……変なこと聞いて、引き留めてごめんね。気をつけて帰って」
***
夏の夜はまだ明るい。
湿気混じりのむわっとした熱気の中、とぼとぼと家までの道のりを歩きながら、美月のことを考えた。
進学を諦めてしまうんだったら、確かにもう勉強する気力も無くなって当然だ。
でも社会人になれば、学生みたいに大型の休みなんてなくなるんだから、もっとたすくの面倒を見るのが大変にならない?
うーん、どうなんだろう。
今は赤ちゃんだから面倒を見るのが大変なだけで、もっと大きくなったら、子育ても楽になるのかな。
それとも逆? もっと大変になる? 末っ子の私には、この先に起こることが全く想像もつかなかった。
進学しないなんて、私は……考えたこともなかった。当たり前にみんな進学するとばかり思っていた。
自分が特別甘やかされて育ったとは思わないけれど、恵まれた環境であったことに今まで気付いていなかった。これが普通だと思ってた。
でもきっとこの「普通」を維持することが本当はすごく難しいことなんだ。
何かが欠けたり足されたりするだけで容易に傾く天秤の上に、日常は成り立っている。
こうも環境が違うと、美月とはまるで違う世界に生きているかのように感じる。
美月の目には、この世界はどう映っているのだろう。
「……ただいまぁ」
家の中に入ると、やけにリビングが賑やかだった。
不思議に思いながらもドアを開けると、叔母と、いとこのハナちゃんが赤ちゃんを抱えてソファに座っていた。
「あ! 奈々ちゃん、久しぶりー! ずいぶん身長伸びたね〜」
「わ、ハナちゃん久しぶり。うちにきてたんだ!」
七つ年上のハナちゃんは、記憶の中の姿よりもずっと大人のお姉さんになっていた。
明るく染め抜いていた髪もすっかり落ち着いたダークトーンに変わっていて、腰まであったはずの髪は肩で切り揃えられて数年前のイメージとは全然違う。
「タクトくん連れてきてくれたの? 今、何ヶ月になったんだっけ」
「六ヶ月だよ」
「かわいい。抱っこさせて」
手を伸ばしてタクトくんを抱き上げる。なんだかたすくと比べると、少しだけ重く骨太に感じる。
赤ちゃんの「一ヶ月」ってこんなにも差が出るものなの?
「あら、奈々ちゃんってば、赤ちゃん抱っこするの上手ねぇ」
叔母に指摘されてハッとする。紅茶のおかわりをトレーに載せてキッチンから戻ってきた母も不思議そうに私を見ていた。
「奈々、あなた昔は赤ちゃん怖いって言って全然近づかなかったのに」
「……ねえ、いつの話してるの? もう高校生だよ、大人にもなるって」
最近は日常的に赤ちゃんを抱っこする機会がある、ということは言わないでおく。
わざとぎこちないふりをしてハナちゃんの腕にさっとタクトくんを戻す。
もし、美月とたすくのことがお母さんにバレたら、あまりいい顔はされないような気がする。
高校生がたった一人で夜通し赤ちゃんの面倒を見ているなんて話をしたら――お母さんはきっと、美月の家庭を好意的には捉えない。だから、お母さんにはなんとなく言いづらい。
***
「ハナちゃんたち、来てたんなら教えてくれればよかったのに」
「友達と遊んでるのに呼び出すのも悪いかなぁと思ってねぇ。あ、タクトくん大きくなってたわね。最近夜泣きがすごいって、ハナちゃん参ってたわ」
ハナちゃんたちが帰った後、ティーカップを洗いながらお母さんは楽しそうに笑って言う。
六ヶ月の赤ちゃんが夜泣きをすると言うことは、五ヶ月のたすくもそうなんだろうか。
「夜泣きって、大変なの?」
「大変よ、だって何をやっても泣き止まないんだもの。おっぱいをあげても、オムツを替えてもダメ。気が済むまで泣いたら寝てくれるんだけどね、その泣き声をずーっと聞き続けてると精神的にくるのよ。特に奈々のときが酷かったなぁ」
「私、ぜーんぜん覚えてないんだけど」
「覚えてたら怖いでしょう。ま、過ぎた今だから言えるけど、そんな時も愛おしい時間だったと思えるわ。苦労した甲斐あってこんなに立派な娘に育ってくれたんだから、私の育児は大成功よ」
過ぎたから言えること、か。
美月はどうだろう。
時が過ぎ今が思い出になった時、お母さんと同じく「愛おしい時間だった」と言えるのだろうか。
それとも、自分の青春と未来を犠牲にした悲しい思い出になるだけ?
だって我が子じゃないし。無理矢理に大人の頭数に入れられた美月に選択権なんてなかった。
でも、少なくともそうやって過去を思い返す時、良い思い出であっても悪い思い出であっても、美月には隣に私がいたことを生涯忘れないで欲しいから、やっぱり私は美月の家に通い続けて、卒業まではたすくの成長を見届けたい。
夕食を終えると真っ先に入浴を済ませるのが私の習慣で、今日も例に漏れず真っ先に脱衣所へと向かった。
脱衣所にある大きな鏡の前で服を脱ぎ、裸の自分を、じっと見つめる。
高校三年生にもなると、クラスの半数近くがもう非処女だ。
本当かどうかは知らないけれど、自己申告を素直に事実と捉えるなら、そうだ。
教室で「経験済の人、手をあげて」と声をかけたら間違いなく半分は手が上がる。
都会はどうか知らないけど田舎には娯楽がないから、中高生カップルがやることなんてそれしかない。
私は手をあげない半分のうちに入る。たぶん、永遠に。一生処女でいる自信がある。
女子校特有なのかもしれないが、基本的にはみんな性の話にあけすけで、聞けばすべてを包み隠さず話してくれる。
例えば初体験がどうだったとか、彼氏の下半身がどうだとか。
恋人同士の営みの良いも悪いも翌日には教室の笑い話に変わってる。
その子の彼氏がその場にいたら、プライドを打ち砕かれて卒倒すること間違いなし。
私だって、そういうことに興味がないわけではない。むしろめちゃくちゃある。
でも自分がいざそういうことを誰かとすることを想像したとき、私は男性に押し倒される自分の姿ではなく、女性を押し倒している自分を想像する。
そして私の両腕の下には、いつだって美月がいる。
あの子の服を脱がせたいと思ったことは、一度や二度ではない。
きめ細かくて白い肌の触り心地を知りたい。
服の下に隠された身体を見てみたい。
想像するだけで胸が熱くなり、よくない感情が込み上げてくる。
「……女の裸なんて見飽きてるのに、変なの」
ぽつりと呟く。
罪悪感が拭えない。こんなふうにしかあの子を見れない自分が嫌になる。
どうして私は同性に惹かれてしまうんだろう。
いったい、みんなと私は、何が違うの?
理由なんてわかるわけもない。きっとこの身体を解剖したってわからない。どこにも答えは書いてない。
確かにわかることは一つだけ。
美月が好き。
この気持ちだけは――もう、どうしたって疑いようもない。
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