第10話 思いやりドロボーめ



 夏休みを目前に期末テストの結果が廊下に貼り出され、「浅海奈々」の名前が一番上にあるのを見た時、私はすぐ下に視線を滑らせた。


 上位十名に「加瀬美月」の名前はない。


 見事なまでの学年トップの陥落劇に、廊下に群がっている生徒たちが不穏な内緒話を始める。


「加瀬さん、ずっと一位だったのにどうしたんだろう」


「やっぱりあの噂本当なのかな?」


「えー、子供いるってやつ?」


 口を出したくなる気持ちをグッと堪えて、唇を噛む。

 たすくのことは、二人だけの秘密にすると約束している。だから私は何も言わずにただ自分の名前を睨みつけた。


 例の噂が再燃したとしても、美月はそんな些細なことを気にするような性格はしていない。

 それにきっと夏休みに入ればまた、突風に吹かれたように噂は全てたち消えるだろう。

 だから今波風を立てるより、静観していた方がずっと賢い。



 テスト前も、私は隙を見ては美月の元に通い詰めていたが、私がたすくを見ている間、美月はやっぱり勉強よりも睡眠時間を取っていた。


 生後六ヶ月になったたすくは、満を持して夜泣きが始まったらしい。

 日中はあんなに穏やかで、あやしてあげるとキャッキャと声を立てて笑っているあのたすくが、夜中にそんな泣き魔王に変身する姿など私はまだ想像できていない。

 

 そのせいなのかどうかは定かではないけれど、夏になり美月は痩せた。

 今も順位表を見にくることもなく、もはやなりふり構わずに机に突っ伏して寝ている。

 痩せても太っても美月はかわいいが、浮き出た手首の骨や細い足が痛々しくて、見ていて辛い。

 

「……ねー奈々ァ、最近加瀬さん調子悪そうだよね」


 教室の端っこで死んだように眠る美月を見ながら、真希がこそこそと私に耳打ちする。

 派手な見た目に似合わず健康志向な真希は、豆乳のパックにストローを突き刺しながら少しだけ心配そうな顔をしていた。


「無理なダイエットは身体に悪いんだよ。ちゃんと食べて、運動して、健康的に痩せないと。ちょっと痩せすぎな気がする」


 自身のビジュアルに絶対的な自信とプライドを持つ真希は、普段はバカなことばかりしておちゃらけているけれどたまにものすごく真っ当なことを言う。

 事実、真希はただ細いだけじゃない。短いスカートからすらっと伸びた足は、運動部でもないのに引き締まっていて綺麗だ。

 

 きっと自分がこだわっていることだからこそ、他人のことにも目が行き届くんだろう。

 私にはない感覚だ。多分私は、真希と美月以外のクラスメイトの変化には気付けない。同性を好きだからと言って、全方位に矢印を向けているわけではないし。

 きっとこのクラスの大多数は、美月が痩せたことにも気付いていないに違いない。

 

 教室でもいっさい喋らない、ぴくりとも動かない、ただ静かに寝ているだけの今の美月は、完全に背景と同化している。


「……そうかな、痩せた? 私は気付かなかった。前とあんまり変わってなくない?」


 嘘だ。

 美月の変化には、絶対に私が誰よりも早く気付いている。

 でも言わない。美月は好きで痩せたわけではないし、指摘したところで、今すぐにどうにかできる問題でもない。


 話を切り上げたくてわざとこの話題には興味がなさそうなフリをしたけれど、そんなことに全く気付いてくれない真希は更に私に近づいて肩を組むと、なおも続けた。

 ケープで固められたハーフツインの、黒に金が混じった毛束が揺れる。


「いーや、変わったよ、ちょー変わった。よく見てよ。ほら、あの足、めっちゃ細い。加瀬さん、もしかして四十キロないんじゃない?」


「まさか」


 言い過ぎだ。美月は確かに細身だけど、そんなに言うほどガリガリというわけではない。


「加瀬さんって授業中以外はずっと寝てるしさ、今回のテストの結果も散々だったでしょ。ダイエットじゃないならもしかしてさぁ……あれじゃない?」


「あれって?」


「……うつとか」


「……大袈裟」


 深刻そうな顔をしてる真希が手に持っている豆乳パックを横取りして、飛び出たストローに吸い付く。


「こら、奈々、勝手に飲むんじゃない」


「うえ、バナナ味嫌い。ていうか豆乳無理」


「飲んでから文句言うな、この豆乳ドロボー。貴重なタンパク質返せよ」


 コツンと頭を小突かれて、私はしれっと真希にパックを返した。


 本当は、よく知りもしないのに他人が勝手に判断することじゃないよ、と窘めたくなったけど、真希が真剣に心配しているような顔つきだったから、私はギリギリで黙って誤魔化した。


 うつ。うつか。

 実際はそこまで酷くはないと思うけど、事情を知らない人から見たら、今の美月はそう見えてもおかしくはないかもしれない。

 私も最初は「産後うつ」を疑ったわけだし。“私が産んだわけじゃない”って一蹴されたけど。


 横目で美月を見る。

 睡眠不足がたたっているせいか、顔色も血の気が引いているみたいに青白い。

 寝顔を見ていると、なめらかで赤みがない肌は、まるで蝋人形みたいだ。美月は顔が整っているから、余計にそう見える。

 

 第三者から見ても気付くような変化を、美月の母親は何とも思っていないのだろうか。

 それとも毎日一緒にいるから、気付いていないだけ?


 たすくのお世話が美月の負担になっていることは、火を見るより明らかだった。

 追い詰められた美月が「たすくのいない日常」をふとしたときに想像してしまうのも、無理もない気がする。


 無邪気なたすくの笑顔が脳裏に浮かんで――胸が軋んだ。


 人は辛い時、どうしても今とは違う別の未来を思ってしまう。

 こうだったら、ああだったら、ってありもしない選択肢を想像しては現実から逃避する。実際はそんなこと無意味だと知りながら。



 そもそも、美月がここまで追い詰められた原因ってなんなんだろう。

 母親がすべての元凶?

 いや、でも待って。その前にたすくの父親はどこいった? 父親だって悪いじゃん。人間は単為生殖なんてできないのだから、責任は双方にある。


 収まっていたはずの、美月の両親への憤りがふつふつと再燃する。

 外野がとやかく言う権利などないとわかってはいるけれど、もどかしくてたまらない。

 でも美月が話してくれるまで、私は絶対に何も聞かないと決めている。

 事情もよく知らないのに、あれこれ推測で悪くいうのはよくない。


「声かけてあげたほうがいいかなァ。加瀬さんいつも一人ぼっちだしさ」


「……やめなよ、真希に声かけられたら、加瀬さん怖がるよ」


「えぇ? 私、こんなに話しやすいのに?」


「それさあ、自分で言う? 真希は見た目が怖いんだよ」


「いやいや、奈々には言われたくない!」


「私は怖くないよ、優等生ですから。きっと疲れてるんだよ。寝かせてあげようよ」


 本音は、違う。

 

 “私の美月に近づかないで。”

 

 親友にすら嫉妬心が芽生えるなんて……最低。絶対にどうかしてる。私は美月の恋人でもなんでもないのに。


 予鈴がなり、教室中がガタガタと慌ただしくなる。

 みんな無駄話を続けながらも机を漁り、ノートとペンケースを持ってぞろぞろと連れ立って教室を出ていき始めた。


 すっかり寝入っているらしい美月は、みんなが動き出したことに気付いておらず、まったく起きる気配がない。

 

「加瀬さん起きなくていいのかなあ? 次、移動教室なのに。そーだ、私、声かけてあげよーっと」


 無邪気にそう言って美月の元へ行こうとした真希の手を、私は反射的にぱっと摑んで止めた。

 驚いて私を見上げた真希の横を無視して通り過ぎ、一直線に美月の机の前に足を進める。


 寝息と共に規則正しく動く背中。窓から差し込む陽射しを反射して煌めく艶のある黒髪。伏せられた長いまつ毛。

 腕に押しつぶされた頬がぷにっとしててかわいい。

 愛しい美月の寝顔。見つめているだけで脳みそがとろけそうになる。

 

 緩みそうになる頬を押さえ込んで、私は黙ってノートで美月のつむじをぺしんと優しく叩いた。


「わぁ!」


 びくん、と驚いたように美月が跳ね起きる。


「加瀬さん。次、移動教室だよ。もう予鈴鳴ったからそろそろ起きたら」


 私に初めて教室で話しかけられたことに驚いたのか、美月はぱちぱちと瞬きをして私の顔を凝視した。


「あっ……えと、うん……。ごめん、起こしてくれてありがと……」


 慌てて他所行きの笑顔を作って私を見た美月に、私は思わずふっと笑って自分の右頬を指差した。


「ほっぺにあとついてるよ」


 指摘すると、美月はぱっと手のひらで頬を隠して俯くと、白い頬を赤く染めた。

 いつもは「奈々、奈々」って甘えてくるくせに今更何を恥ずかしがっているのやら。でもかわいい。


「さ、真希、私たちもいこ」


 授業の合間は美月にとって貴重な睡眠時間だ。友達と関わり合うよりもそっちの方が大切だ。

 下手に砕けた話をして仲がいいことがバレないように、私はふいと視線を真希に向けた。


「奈々、抜け駆けずるい。思いやりドロボーめ」


「なにそれ、誰が声かけたって一緒でしょ」


「そーだけどさぁ、私の親切心だったのに」

 

 慌てて準備を始めた美月を置いて、真希と二人連れ立って廊下に出る。


 美月から真希を遠ざけることができたことに心の底から安心している今の私の行動は――本当に美月のためだった?


 

 



 ヒーローを気取っておきながら、心の中にヒロインを独り占めしたくてたまらない怪物を飼っている。


 クローゼットの中に押し込めて、必死に鍵をかけてはいるけれど、いつだって内側から叩いて「早くここから出せ」と大声で叫んでいる。


 私はいつも心の中では綺麗事ばかり並べているけど、実際はやりたくてやりたくてたまらない性欲旺盛な男子高校生と中身は何も変わらない。

 

 あんなに痩せた美月の身体にさえ、私はただただ触れたいと思ってしまうんだから、美月のことが好きすぎて末期症状が出ている。


 もう病気。恋煩いという名の病。


 誰か、この病気を治すための特効薬は持っていませんか。

 

 いっそ感情を殺す薬があればいいのに。

 そうすれば世の中からすべての恋の苦しみがなくなって、ひとは幸せになれるかも。



 ……ううん、やっぱり惚れ薬がいい。

 愛しのあの子を私だけのものにしたい。

 美月が私だけを見て、私だけを愛してくれる、都合のいい魔法のお薬が欲しい。

 

 なんだかそれってSFだなぁと思いながら、自分がこんな危険思想を持っていたことに死ぬほど引いた。


 


 

 

 

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