第二章 短冊にも書けないような、あまりに儚い私の願い。

第7話 私、好きになっちゃいそうだよ



 七月になり、太陽光はまるで刺すように私たちの肌を焼く。


 中間テストが終わってからというもの、美月との接点を得た私はせっかく繋がった細い糸が千切れてしまわぬように、定期的に美月の家に顔を出してはたすくの成長を見守った。


 ミルクの作り方やオムツ交換の仕方も覚えたし、しっかりと首が据わったたすくを抱くのも全然怖くなくなった。

 

 たすくの顔は、会うたびにころころ印象が変わる。

 目鼻立ちがくっきりしていてイケメンだ。ぱっちりとした平行二重も、柔らかな猫っ毛も、美月にとてもよく似ていて、たすくは本当にかわいい。


 生後五ヶ月になったたすくは離乳食が始まったらしいが、まだ一日一回だけなので、夕方しか会えない私は今のところたすくがご飯を食べている姿を直接見たことがない。

 

 「たすくの食事中の姿を見たい」とだだをこねたら美月が動画を送ってくれて、そこで、はからずも私は初めて美月の母親を見た。


 十六歳で美月を産んでいるだけあって、若くて綺麗だ。

 失礼な話だが、私は、煙草をふかしてパチンコ屋に入り浸っているような、ステレオタイプのヤンキー親だったらどうしようと少しだけ構えていた。


 それは思いっきり偏見だった。


 想像していたネグレクト気味の母親像とは印象が違い、美月の母親は見た目は清楚で普通の女性に見えた。

 

 動画での美月の母親は、愛情たっぷりの優しい声でたすくに語りかけながら、小さな口元にオレンジ色のスプーンでべちゃべちゃのおかゆを運び、食べさせていた。


 口の中に入ったおかゆの八割は、青いシリコン製のエプロンの上にうえっと吐き出されていたけれど、嫌がるたすくの顔も新鮮でこれもまたかわいかった。

 

 美月の母親にも、夜にも働きにでなければならない、やむにやまれぬ事情があるのかもしれない。

 そう思ったら、憤っていた気持ちは少しだけ軟化した。


 学校での美月は相変わらずで、授業の合間は頬杖をついて寝ている。

 めまぐるしくトレンドが変化していく女子高生の関心ごとの移り変わりは風のように早く、いつしか美月に子供がいるという噂は立ち消えていて、みんな忘れ去って誰も覚えていない。


 私だってあの日美月に出会わなかったら、そんな噂は絶対に信じなかったに違いない。






 


 今日は体育で水泳の授業があると事前に聞いていたけど、生理が被っていたから私は参加できずに体育館で「自習組」に混ざった。

 

 自習と言っても実際は遊んでいるだけだ。バドミントンをしたりバレーボールをしたりしている生徒を見ながら、体育館の壁にもたれかかって座り、お喋りをする時間。


 意外だったのが真希は結構乗り気で、プールの時間を心底楽しみにしていたらしく、珍しくすっぴんで登校してきた。


 指定の水着などないから大抵が中学の時に使っていた水着をそのまま使う中で、真希が持ってきたグラビア撮影にでも使いそうなド派手なビキニは絶対に怒られるのではと思ったけどあえて突っ込みはせず「かわいいね」とだけ返しておいた。


 体育館には結構な人がいる。

 みんながみんな本当に生理なのかは疑問だが、体育教師には生徒の下着を脱がせて確認することなどできないから、たとえそれが嘘でも信じるしかない。


 体育館の端っこで美月が体育座りをしているのが見えて、私は思い切って美月のそばに近づいて座った。


 クラスメイトはみんなバドミントンやバレーボールに夢中で、私たちには気付いていない。


「美月も自習組?」


「あ、うん。奈々も? 山田さんはどうしたの?」


 山田さんとは、真希のこと。

 みんな学年で一番ド派手な真希を怖がって名前では呼ばない。


 実際、真希は派手だけど別にヤンキーってわけじゃないから怖い要素なんて皆無なんだけど、クラスでは名前を呼んではいけないあの人みたいな扱いを受けている。


 可哀想に。本当は気さくで話しやすいんだけどな。バカだけど。


「真希はプールに行った。退屈だから一緒にいよ」


 そっと肩を近づけて、細い肩に肩をぶつける。これが今の私にできる精一杯。

 全身全霊をかけて、触れ合っている肩の細胞に集中する。


「奈々、ポニーテール似合ってるね。いつも下ろしてるからなんか新鮮」


 美月がそう言って私の結い上げた髪をそっと撫でた。

 

 私も触れたい。

 

 でも気軽に手を伸ばすことができなくて、ただ美月の顔を見つめた。


 真希とはじゃれて抱き合ったり手を繋いだりあたりまえにできることでも、美月にするのは難しい。

 

 触れたところから、どろどろしている私の欲求が流れ出して伝わりそうで、それがすごく恐ろしかった。


 小さく美月があくびをする。

 白い肌がいつにも増して血の気が引いていて青い気がする。


「美月、もしかして体調悪い?」


「うん。生理痛、結構重いんだよね。薬は飲んでるんだけど」


「大丈夫? 保健室いく?」


「ううん、だいじょうぶ。大人しくしてれば平気」


 自分でも驚くほどなんの欲もなく私は美月の腰に触れて撫でていた。

 自分でも、こんなに慈愛に満ちた気持ちでこの子に触れることができるとは思ってなくて少し驚いた。


「美月、授業が終わるまで寝てな」


 すりすりと温めるように腰を撫でながら言うと、美月はこくりと頷いて私の肩に頭を乗せた。

 

 心臓を一捻り。死にそう。

 

 だけど気にしていないふりをして美月の腰を撫で続けた。シャンプーのほのかに甘い香りがする。


「……奈々って本当に優しいね。こんなに優しくされたら、私、好きになっちゃいそうだよ」


 私の心臓、止まってないかな、大丈夫かな。

 

 私生きてる? ちゃんと息してる?


「奈々が男の子だったらなぁ、彼氏になってほしい。奈々と付き合ったら、絶対幸せになれそうだもん」


「……そうかな」


「ふふ、奈々はどう? もし男の子だったら、私と付き合ってくれる?」


 無邪気な“もし”が、私の心に突き刺さる。


「さー、どうだろ。……考えたこともないよ、女の子と付き合うなんて」


 異性愛者は、ときどき平気でこういうことを口にする。

 まさか寄りかかっている相手が同性を恋愛対象としてみているなんて、つゆほども思ってない。


 ノンケの女の子に恋をするのは不毛。

 気持ちを口に出しても、いいことなんて一つもない。


 隠れて、こっそり、ただ思いを寄せ続ける。それが正解。


 美月はノンケなんだから、何も悪くない。

 勝手に好きになって、勝手に傷つく私が悪い。


 関係性を壊すくらいなら、何も求めなくていい。

 私はまだこのままクローゼットの中に閉じこもっていたい。





 ***




 夕方、帰宅してすぐダイニングテーブルにノートを広げて勉強を始めた。


 中間テストが終わったばかりだと言うのに、すぐに期末テストが迫っている。


 でもテストさえ終われば、夏休みだ。

 できれば夏休みも、なんとかして美月のもとへ通いたい。



 

 美月には……勉強する時間なんてないだろうな。

 そう思うと、のんきに麦茶を飲みながら、だらだらと勉強しているのがどこか後ろめたい気持ちになる。


 片手間にテレビを見ていたら、夕方の報道番組で「ヤングケアラー」の特集をしていた。


 美月のことだ。

 私はペンを止めて食い入るようにテレビを見る。


 美月は、家族のために自分を犠牲にしている。


 放課後に遊びに行くこともなく、恋人を作るわけでもなく、ただ母親と弟のためだけにたった一度きりしかない高校生活を捧げて、本分である勉学すらおろそかにし、将来までも犠牲にしようとしている。


 でも、美月はそうさせた母親へ恨み言ひとつ言わない。

 

 テレビを眺めていたら、ヤングケアラーを説明するテロップには「十八歳未満の子供」と紹介されていた。


 十八歳未満。

 また十八歳の壁だ。

 じゃあ四月が誕生日の美月は、もう該当しないの? そんなわけないよね。


 十八歳は、まだ子供でいていい年齢だと思いたい。


「……ねえお母さん、誕生日が来たら、私ってもう大人?」


 キッチンで夕飯を作っている母親に声をかける。


「何言ってるの? 一人で生きていけない大人がどこにいるのよ。奈々はまだ子供。ほら、そろそろご飯できるから、テーブルの上片付けて」


「……はーい」


 微笑みながらお母さんが言う。そう言ってもらえてよかった、私はまだ「大人」なんて言葉で突き放されたくない。


 美月だってそうだよ、大人になんて本当はなりたくなかったはずだ。環境のせいで、無理矢理にそうならざるを得なかっただけで。


 ノートをぱたんと閉じて、立ち上がる。

 日に日に美月が痩せていっているように見えるのは気のせいじゃない。


 私にももっと、美月のためにできることはないのかな。


 卒業まであと八ヶ月。


 最後の最後に美月と繋がった糸を、私は最大限大切にしたい。


 どうせ卒業したら千切れる糸だ。

 だから今だけは、一秒でも長くその瞳に私を映していたい。

 

 

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