第6話 ひどくないよ、美月は偉い



「ねえ美月。荷物、どこに置けばいい?」


 家に着き、リビングに入ってからトートバッグと買い込んだベビー服の置き場所を聞くと、美月は振り返ってじっと私の顔を見上げた。

 

「……奈々ってさ、なんか……ずっと思ってたけど、イケメン女子だよね」

 

「え、イケメン女子? なにそれ」


 急にそんなことを言われて、面食らう。

 流れ的には褒めてくれているんだろうけれど……でも、その「イケメン」って言うのは、なんかいやだ。うれしくない。私は男性のまねごとをしているわけではない。


 そうは思ったけど、顔には出さずにただ笑った。


「奈々って何もかもがスマート。なんか所作が彼氏みたいだよ。荷物持ってくれたり、ドア開けてくれたり……自然にしてくれるから……」


「彼氏? そんなつもりじゃなかったけどな……あはは……」


 ぎくりとしながらも笑って誤魔化す。

 

 やば。思いっきり恋人気取りのムーブしてた。

 だって好きな子が困ってたら手を差し伸べたくなるのが普通じゃないの?


 美月があんまりにもかわいいから、色々とお世話してあげたくなっちゃうよ。

 

 でも、ちょっとやり過ぎだったかな。

 友達に“やってあげていい範囲”を踏み越えていたかも。

 

 どうしよう。一緒に居られることがただ嬉しくて、浮かれて無意識にやってしまっていた。

 彼女なんていたことないけど、もしもいたら、こんな感じなのかな……なんて。


「……荷物、持ってくれてありがと。そこに置いておいてくれると助かる」


 それ以上深く言うことはせず、薄く唇だけで笑って、美月はリビングの床にスクールバッグを置いた。

 

 そして抱っこ紐からベビーベッドにたすくを下ろす。

 今日はおにぎり柄のロンパースか、かわいいな。

 美月がたすくの両足から靴下をすぽーんと引っこ抜くと、小さな足が露わになった。


 仰向けに寝かされたたすくは、ベビーベッドに設置されたメリーを眺める。

 すると一旦固まった後、状況を理解したのか、急に顔を顰めてほにゃほにゃと泣き出した。


「わ、どうしたの?」


「あ……ミルクかな」


 リビングの壁掛け時計に視線を滑らせて、美月はブレザーをさっと脱ぎ、躊躇いなくソファにぽーんと放り投げた。

 

 ブラウス一枚になった美月の華奢な身体のラインがやけに気になって、私は慌てて目を逸らす。


「私、たすくのこと抱っこしてるよ」


「ありがとう、ミルク作ってくる」


 私も美月に倣ってブレザーを脱ぎ、ソファに投げ捨ててブラウスの袖をまくる。

 そうしている間にたすくが顔を真っ赤にして火がついたように泣き始めたので、私は覚悟を決めて彼に向き直った。


 赤ちゃんの泣き声って、鼓膜にくる。

 耳の奥が、びりびりする。


 首は座りかけだと聞いていたけれど、正直たすくを抱き上げるのはまだ少し怖い。

 勇気を出して、教えてもらった通り慎重に首を支えながらそっと抱き上げると、ずっしりとした重みに、先日痛めた筋肉が悲鳴を上げた。




 抱いて、揺れても、空腹を訴えるたすくはずっと泣いていて、暑くもないのに私の背中には汗が伝う。

 

 全力で泣き喚くたすくの声を聞くだけで、なんだか不安になるというか……変に焦る。

 

 例えるなら、心臓をざりざりとヤスリで擦られているような心地。ひたすらにザワザワする。

 

 正直、この泣き声を、ずっとは聞いていたくない。


 前に美月が「お腹空いたって泣き喚かれながらミルクを作る方が精神的に来る」と言っていた理由が今やっとわかった。


 赤ちゃんの泣き声がこんなにも耐え難いものである理由は、なんとなくわかるんだけどね。


 もしも空腹を訴える赤ちゃんの泣き声が心地の良いものだったとしたなら、誰も慌ててミルクをあげなきゃなんて、思わないだろうし……。

 それじゃきっと赤ちゃんだって困るから、やっぱりこのボリュームで泣き喚くのが生き物として最も正しい。


 食物連鎖の頂点に君臨する私たち人間には天敵なんていないんだから、遠慮なく泣いてどうぞ。

 

 たすく、しっかり空腹を主張できてえらいぞ。

 ちゃんと赤ちゃんのお仕事ができてる証拠だ。


 そんなどうでもいいことを考えて気を散らしていたら、キッチンにいる美月が深いため息をついた。


「……こうやってお腹空いたって泣かれている時ほど、私もおっぱいが出たら良いのにって思うんだよね。ミルクって腹持ちはいいらしいんだけど、作るのに少し時間かかるから……液体ミルクは高すぎて、日常使いできないし」


 ケトルの温度表示を見つめながら、美月がげんなりした様子で言った。

 確かにおっぱいが出たら、すぐにたすくを黙らせることができるのかもしれないけど……。


「あのさ、吸わせてみたら出たりしない?」


 妊娠出産を経ないと母乳が出ないことぐらい知っている。

 でも、泣き止まないたすくの声に、どんどん表情が曇っていく美月を見ていたら、冗談のひとつでも言って場を和ませたくなった。


「出ないよ、試したことある」


「えっ、ほんとに!?」


 思わず美月の顔を凝視した。

 美月は、哺乳瓶にお湯を注ぎながら自嘲するように笑う。


「今でこそ少しは慣れてきたけど、最初は本当に全然泣き止まなくて……ミルクもあげたし、オムツも交換してるのに、なんで泣いてるのかわかんなくてさ。もしかしてお母さんのおっぱいが恋しいのかもと思って……。私、寝不足で馬鹿になってたのかも。出るわけないし、すごく強い力で吸われて痛すぎるしで最悪だった。……たすくにも悪いことしちゃった。お姉ちゃんのおっぱい吸うなんて、たすくだって本意じゃないよね」


 真夜中に泣き止まないたすくを抱きかかえて、ただただ途方に暮れていたのだろう。


 藁をも摑むような気持ちで部屋着をまくり上げて、弟の口に乳首を含ませた美月の姿を想像するだけで、あまりにも可哀想になってきた。


 たすく、お前のお姉ちゃんは本当に疲れ果ててるよ。

 お願いだから少しでも長く寝てあげてよ。


 そんな風に心の中で語りかけると、涙をにじませて泣いているたすくが真っ赤にした瞼で私を睨んだ。


 ぼくを利用しているくせに指図するなと、怒られたような気がした……。



 

 美月は私の腕からたすくを抱き上げて座ると、哺乳瓶を口元に寄せた。

 

 ミルクの存在に気付いたたすくは、親鳥から餌を与えられるのを待っているヒナみたいに必死に口を開いていてかわいい。


 ご希望のミルクにありつけたたすくは、目尻に涙のあとを残したまま哺乳瓶に吸い付いて大人しくなった。


「……手慣れたもんだね。美月はいいママになれそう」


「私は……ママにはなりたくないな。子供は欲しくない。たすくはとってもかわいいけど、もう二度とこんな大変な思いしたくない」


 褒めたつもりの言葉だったが逆効果だったと気付いてぎくりとした。

 

 うーん、今の美月には、どこに地雷があるかわからない……。


 配慮のないことを言ってしまったと反省する。

 寝不足のせいで出来たらしい目の下のくまが、いかに美月の「夜勤」がつらいものであるのかを物語っている。


 家の雰囲気からなんとなく察してしまったけれど、恐らく、美月の家に父親はいない。

 

 玄関には女性の靴しかなかったし、干されている洗濯物にも、男性の服は何ひとつとして見当たらなかった。



 ねえたすく、お前の父親はどうしたんだよ。

 

 生まれてすぐに、お前を捨てたのか?


 

 美月には聞けるはずもないからたすくに心の中で問いかける。でもやっぱり、返事は返ってこない。


「……お母さんはね、十六歳で私を産んで育てたの。だから、十八歳おとなの私が弱音を吐くのは間違ってるよね」


 そんなことない。

 美月の母親は好きで美月を産んだけど、美月は自分の選択でたすくの育児をしているわけではない。


 十八歳はまだ子供でいていい年齢だと私は思う。というか思いたい……。


 口出しすることもできずに、私は黙ってたすくを見るしかなかった。


「たまに、本当にたまに、たすくがいなければいいのにって思う瞬間がある。そうしたら私はこんなにつらい思いしなくて済むのにって。そう思う度にすごくつらくなるの。たすくにいなくなってほしいわけじゃないのに、どうしてそんなこと思っちゃうのかな。……ひどいよね。私、最低だよ」

 

 耳を塞ぎたくなった。私のではなく、たすくの。

 

 そんなこと言わないで、なんて無責任なことは言えない。

 美月がたすくを大切に思っているのはわかっている。接し方から、愛情は十分に伝わってくる。


「……それさ、産後うつってやつ?」


「えぇ? そんなことある? だって私が産んだわけじゃないよ」


「じゃあ、育児ノイローゼってやつじゃない? どっちにしろ美月は頑張ってるからそう思うんだよ。ひどくないよ、美月は偉い」


 今にも泣き出しそうな、揺れる瞳が私を見る。

 儚く消えてしまいそうなその身体を、本当は死ぬほど抱きしめたくなった。

 

 でもできない。

 

 だから私は、たすくを抱く美月の手に自分の手をただ重ねた。


「……いっぱい頑張ってるの、すごく伝わってくるよ。私は育児の経験もないし、美月の大変さ、本当の意味でわかってあげられないかもしれないけど……でも、そう思っちゃうのも普通だと思う。美月は、立派なお姉ちゃんだよ」


 大きな瞳からぽろりと涙がこぼれ落ちて、頬を伝って、たすくの頬にぽたりと落ちた。


「……ほんとうに、そう思う? 私、ちゃんとお姉ちゃんできてるかな」


「うん」


 躊躇いなく頷く。

 すると美月は、涙を流しながらもふっと気が抜けたように微笑んだ。


「……奈々、ありがとう。なんか、すごく嬉しい」


 泣いてる顔もかわいいなんて、反則。

 ぎゅっと抱きしめたくなる気持ちを懸命に堪えながらそっと手を離すと、美月はごしごしと瞼を擦った。


「……腫れちゃうから、擦ったらだめだよ」


 親指で優しく溢れる涙を拭ってあげる。


 涙をいっぱいに溜めた美月の瞳を覗き込むと――窓から差し込んだ夕陽が瞳に反射して、燃えるように煌めいていた。


 

 

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