第5話 一人じゃない時ぐらい頼ればいいのに
翌日、登校すると美月はすでに教室の椅子に座り、目を瞑って寝入っていた。
昨日の夜勤はどうだった? なんて本当は聞いてみたいけれど人の目があるから聞くに聞けない。
なんとなく、学校での美月は話しかけづらい雰囲気がある。
私は割と目立つ方だから、静かに過ごしたい美月にとっては話しかけられても迷惑かもしれない。
スクールバッグを机の上に置くと、突然背中にどんと衝撃が走って、私はびっくりして振り向いた。
「奈々、おはよー!」
「……なんだ真希か、おはよ」
私に体当たりするように抱きついたのは真希だった。
ふと嗅ぎ慣れないフルーティーな匂いがして、私は真希に鼻先を寄せる。
「ん? なんか今日いい匂いするね」
「香水つけてきたの。今日他校の男子と遊ぶから。どう? いい女感出てる?」
ピースサインをした真希の顔はなんだかいつもよりメイクが濃くて、やけに気合いが入っている。
羽ばたいていけそうなくらい濃いまつ毛から察するに、今回はそこそこ期待できる面子が来るらしいと容易に想像がつく。
「いい女感出てるかどうかは知らないけど、なんか美味しそうな匂いだよ」
「なんだそりゃ。奈々にも来て欲しかったのに、いつ誘っても絶対来てくれないんだもん。奈々はホント男に興味ないよね」
「そんなことないよ。いい人がいれば……付き合う気はあるよ」
「本当に? でも一回も告白OKしたことないじゃん。そのビジュでずっと彼氏がいないとかありえない。ねえ、もしかして好きな人でもいるの? 水臭いなぁ、なんで教えてくれないのよ」
男子からの告白なんて断るに決まってる。別に男子が嫌いなわけじゃない。でも全く心がときめかないんだから、仕方ないじゃん。
好きな人は確かにいるよ、男じゃないけど。
でも、そんなこと言えるはずもない。
「……そんなのいるわけないじゃん。受験生だよ? 私は恋愛よりも将来の方が大事なの」
誤魔化すのだけは、昔から死ぬほど得意だ。
予鈴が鳴り、巻いた長い髪を背中側に払って、私は自分の机に着席した。
たすくを一時間あまり抱っこし、美月のために負った名誉の負傷である上腕二頭筋の筋肉痛は、時間とともにますます酷くなってくる。
***
性的指向を誰にもカミングアウトしていない私みたいな人は、この世界にはきっと腐るほどいるに違いない。
LGBTQ+のL。レズビアン。それが私。
美月に恋をして、あっさり気付いた。
私の心を占領する感情は同性に向けるにはあまりにも熱量が高く、とても憧れという言葉では片付けられない。
もはや疑うまでもなかった。
だって生まれた時から今の今まで、幼少の頃から、男性に心惹かれたことなんて一度もないんだから。
その中でも美月との出会いは――頭を拳銃で撃ち抜かれたかのような衝撃だった。
認めざるを得ない。私は女の子が好き。その事実はきっと未来永劫変わらないし、どんなに否定したところで自分からは絶対に逃れられない。
今はまだ誰にも言えなくても自分だけはせめて、そんな自分を認めてあげたい。
セクシュアルマイノリティについて学校で取り上げて説明を受ける機会は何回かあった。
こんな人たちも世の中にはいるんです。
このクラスの中にも、もしかしているかもしれないよ。
だから発言には気をつけましょうね。
なーんて、教科書の文章をなぞるようにさらりと説明を受けて、それだけ。
居た堪れない。自分のことを言われているみたいで、なんかソワソワする。
早く終われ、こんな説明しなくていいから触れないで。ずっとそんなふうに思ってた。
先生に意見を求められても、適当に「サベツやヘンケンはよくないとおもいました」なんて異性愛者のふりをして答えることしかできやしない。
こんな授業、本当に意味あんの?
世の中、本当にこれで変わっていくのかな?
十年後、二十年後、もっと先の未来では、同性が好きであることを認めてもらえる世の中になっているんだろうか。
普通ってなんだろう。
当たり前ってなんだろう。
私にとって女性を好きになることが普通で当たり前なんだけど、そんな当たり前を私はまだ誰にも言えない。
みんな茶化すことなく真面目に授業を聞いてはいたけれど、全員が全員、偏見なく受け入れてくれるのかどうかは甚だ疑問だ。
街頭を虹色の旗を持って声を上げ、練り歩いている人たちを見たことがある。
世の中を変えようと行動していて、すごいな……。
そう思うけれど、私には勇気がなくてできない。
私はただ黙ってその脇を通り過ぎた。全く気に留めてもいないような顔をして。私は異性愛者の仮面を被って生きている。
わざわざカミングアウトしようだなんて思えない。
人と違う存在はよく目立つし、「右向け右」の号令で左を向けばたちまち注目を浴びてしまうのが、世の常というものだから。
必ずしも受け入れてくれるわけじゃないとわかっているのに、自ら女が好きだと言うことを宣言する必要性も感じない。怖すぎるよ。
東京の大学に進学したいと思ったのは、都会なら私みたいな存在が溢れかえるほどいるのではと思ったからだ。
お父さんも、お母さんも、お兄ちゃんも大好き。
でも私は、この街では息ができない。
***
美月に「次の夜勤いつ?」とメッセージを入れてみたら「今日」と返事があったので、私は終業のチャイムと同時に教室を出て行った彼女を追いかけた。
小走りで駅まで急ぐ美月に並ぶと、彼女の額には汗が浮かんでいる。
「ねえ、そんなに急ぐの?」
「たすくのこと保育園にお迎えに行かないといけないの」
必死な様子の美月に私は黙った方がいいと悟り、私はただ少し後ろを追いかけた。
足早に改札を抜け、プラットホームにたどり着いたと同時に目的の電車が到着した。
ギリギリでなんとか電車に滑り込む。冷房が汗ばんだ身体に当たると心地よかった。
人目が無ければスカートからブラウスを引っ張り出して、ぱたぱたと風を送り込みたいくらいだった。
もちろん、そんなはしたないことはできないけど。
美月はいつもチャイムと同時に教室を飛び出していたけど、たすくのお迎えに行くためだったのか。
どうりで、呑気にのろのろと駅まで歩いていた私が、美月に鉢合わせないわけだよ。
額に滲んだ汗をハンカチで拭ってあげると、美月はハッとしたように私を見上げた。
猫みたいに丸く、アーモンド型の目が上目遣いになってかわいい。
頬を染めて、美月は私の手を払った。
「汚いよ」
「汚くないよ」
「汗だもん、汚いでしょ。ハンカチ貸して、洗って返すから」
汚くないのに。
半ば強引に奪い取られたヴィヴィアンの赤いガーゼのハンカチは、美月のブレザーのポケットに捩じ込まれて見えなくなった。
最寄駅から歩いてすぐ近くの保育園に着いたとき、美月は大きなトートバッグから青い紐のネームを取り出して首から下げ、保育園のインターフォンを押した。
「加瀬たすくのお迎えに来ました」
保育園の先生は慣れた様子で、制服姿の美月を気にも止めてないようだ。
でも、たまたま鉢合わせた子連れの女性にじろじろと奇異の眼差しで見られて、私は居た堪れない気持ちになった。
制服姿の女子高生が赤ちゃんを迎えに来てる姿なんて、珍しいに決まってる。
悪いことをしているわけじゃないのに、なぜか後ろめたい気持ちになる。
たすくはこの子の子供じゃなくて、弟なんです。
そんな目で見られる謂れなんてないし、むしろ褒められるべきことをしてる。
何も知らない大人たちは、好奇の眼差しで、容赦なく私たちを切り付けてくる。
こんな気持ちを美月はいつも味わっているのか。その苦労は……私の想像を絶する。
黒い抱っこ紐を装備すると、美月はたすくをあっという間に抱き上げた。
美月のお腹にぴったりくっついて満足そうにしている彼は、抱っこ紐の肩ベルトを美味しそうにはむはむと食べている。
「奈々、家に行く前にベビー用品屋さん寄っていい? たすくの肌着買うの」
「へえ、いいよ。楽しそう」
ベビー用品を売っているお店なんて行ったことないから、なんだかわくわくする。
「ありがと。じゃあ行こう」
「うん」
歩き出す前に、私は美月が肩から下げている大きなトートバッグを摑んでとりあげた。
「これ持つよ、たすくのこと抱っこしてバッグも持ってたら大変でしょ」
「えっ? 大丈夫だよ、いつも一人の時は自分で持ってるから」
「一人じゃない時ぐらい頼ればいいのに。ほら行こ」
「……ありがとう……」
「んーん、どういたしまして」
たすくを大切そうに抱えながら歩き出した美月の隣を、私もゆっくりと続いた。
うさぎのキャラクターが描かれている大きな看板の店舗は、入ったことはないけど確かに見たことがある店で、中に入るとBGMも何も流れておらず、なんだか不思議な空間だ。
ずらりと高い棚に所狭しと並んだ子供服。
美月は勝手知ったようにベビー肌着が売ってあるコーナーに進むと、何個か吟味した後、恐竜のイラストが描かれているメッシュ素材の肌着をカゴに入れた。
「なんか美月、本物のママみたいだね」
偽物のママがどんなものなのかは知らないけど、高校生が真剣にベビー服を選んでいる姿を見ると、不思議な気持ちになる。
美月は一瞬きょとんとした顔をして、それから苦笑いした。
「そう? なんかフクザツ……」
「なんで? 褒めてるのに」
「えー、それ褒めてるの? 女子高生っぽくないってことでしょ」
「違うよ、若いけどちゃんとしてるように見えるってこと」
「んー、でもやっぱりママには見られたくないなぁ」
「そういうもの?」
「そういうもの」
本当はママじゃなくてお姉ちゃんなんだけど、事情を聞かれなければ誰にもそんなことわからないよね。
たすくだってまだわかってないだろうし。
私が見ている限り美月は、真剣に育児をしている。
そんな姿を見ていると、本気で疑問が湧いてくる。
ねえたすく、たすくの本当のお母さんは、ちゃんと大事にしてくれてる? お父さんはどうしたの?
なんて、心の中で聞いてみる。
当然、たすくからの返事が返ってくるはずもないけれど。
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