第4話 奈々って呼んでよ
それから加瀬美月は一時間と少しで目を覚まし、外が完全に暗くなった頃には、すっかり雨も上がっていた。
「浅海さん、ありがとう。おかげで少し疲れ取れた気がする」
たった一時間の睡眠時間で、蓄積した疲れなんて簡単に取れるんだろうか。
そうは思ったけど、少しでも助けになったのなら、この両腕を犠牲にした甲斐がある。
加瀬美月には言わなかったけれど、今、腕があまりにも重だるい。特に上腕二頭筋が完全に逝った。
たすくを絶対に落とさないよう両腕に力を込めて緊張していたせいか、背中と腰も悲しいくらいに痛かった。
この犠牲に対してなんらかの見返りが欲しい。
そう思って私は、おもむろに自分の欲求を口にした。
「……あのさ、浅海さんじゃなくて、奈々って呼んでよ。苗字で呼ばれるのってあんまり慣れないんだよね、友達はみんな私のこと奈々って呼ぶから」
さりげなくそう伝えると、加瀬美月は私の顔を、驚いたように見た。
なにその顔。
私、そんなに変なこと言ったかな?
「……私が浅海さんのこと呼び捨てにしたら、みんな驚いちゃうんじゃないかな」
「そう? 真希も私のこと奈々って呼ぶけどな」
「それは山田さんだからだよ……」
渋る気持ちもわかるけど。
私たちがクラスで急に仲良くし出したらみんな心底驚くに違いないし、今の彼女の平穏な暮らしを脅かしかねない。
私は別に、彼女の貴重な休息時間を取り上げたいわけではない。
今まで通り、授業の合間は少しでも眠っていてほしいから、学校で邪魔するつもりはこれからもない。
「それなら二人きりの時だけでいいよ。私は、美月って呼んでもいい?」
「あ、うん、もちろん。っていうか……私の名前、知ってたの?」
「学年一位の名前、知らないわけないじゃん。私、どうやったら勝てるんだろうって一年の時から、美月のことずっと意識してたよ」
本当に意識していた理由は、美月が学年一位だったからじゃないんだけどね。
でもそのことは、一生美月に伝えるつもりはない。
「中間テストでは私、負けちゃったけどね」
美月は全然気にしてなさそうにさらりと言う。
というより、中間の順位に気付いていたのかと、内心少しだけ驚いた。
だって学校ではずっと寝てたし、順位なんて全然興味なさそうだったから。
「……こういうのは勝ちって言わない。たすくに援護射撃してもらったようなもんだもん、実力じゃないじゃん」
唇を尖らせて言えば、美月はあはは、と屈託なく笑った。
「ずっと私に勝とうとしてたの?」
「卒業までに一回ぐらい学年一位取ってみたいなとは思ってたよ。目標にしてた」
そうしたらもしかして、美月が私を認識してくれるんじゃないかと思ったから。だから私はずっと頑張ってきた。
「ふふ、そうなんだ。そう言われるとなんか負けちゃったの悔しいなー。急に一位を譲ったのが惜しくなってきた」
言う割に、全然悔しくなさそうだけど。心なしか、美月は嬉しそうだった。
「……ねえ、そんなことより、またたすくに会いに来てもいい? 私がたすくのこと見てる間に、美月も休めるでしょ? Win-Winじゃん」
「……なんか意外。浅海さん……じゃなくて、奈々って、子供好きだったんだね。もちろんいいよ、そう言ってもらえてうれしい」
子供が好きなんじゃなくて。私が本当に会いたいのは――。
なんて、そんなこと……言えるわけもない。
「じゃあ、帰り道気をつけてね」
「うん、またね」
玄関でローファーを履いて振り向くと、美月はたすくの小さな手を摑んで振ってくれたから、私も、二人に手を振って家を出た。
外はすでに暗く、濡れたアスファルトが行き交う車のライトを反射して輝いている。
美月。みつき。ミツキ。
口には出さずに、心の中で何度も名前をつぶやく。
一年生のときから、私はずっとこんな日が来ることを夢見ていた。
一、二年の時はクラスが違ったから、遠くから眺めるだけの日々だった。
三年でクラスが一緒になったのはいいけど美月はほとんど寝ているし仲良くなるきっかけなんて全然なかった。
まさか、最後の最後にこんな幸運が舞い降りてくるとは。
鼻歌を歌いながら帰路に着く。
ようやく美月と接点を持てたこと――スキップして家に帰りたくなるほど、嬉しかった。
***
「ただいまー」
自宅のドアを開けると、廊下にも美味しそうな匂いが立ち込めてきて、すぐに今日の夕飯はカレーだと気付いた。
私の家族は大学教授の父と、元航空会社勤務のキャビンアテンダントで今は専業主婦の母、それから父が働いている地元で一番有名な大学に進学した二つ年上の兄がいる。
私は兄と比べればそこまで勉強が得意ではないけれど、特に勉強しろとも、どこの大学に進学しろとも、強制されたことはない。
進路希望調査の紙には父や兄と同じ地元の大学ではなく全て東京の大学の名前を書いて出したけど、両親はまったく反対しなかった。
人生はたった一度きりなんだから、後悔しないよう、好きなように生きなさい。
それが私の父の教え。
今でこそ父は日本に留まっているが、若い頃、父は研究のために世界中を飛び回っていたらしく、私はその青春時代の武勇伝を子供の頃からずっと聞かされて育った。
ちなみにたまたま乗った飛行機のCAだった母に一目惚れして連絡先を渡したのが両親の馴れ初めだったと聞いている。
私は父のように世界中を冒険してまで生涯の伴侶を見つけたいとは思わないが、少なくとも、この街からは脱出したいと思っている。
だって、人口たったの二百万人とちょっとしかいない、少子高齢化が進んだ地方の狭い街では、私を愛してくれる女の子には出会えないような気がする。
世間は狭い。親バレするのも怖いし、そもそも同性を好きな人と、どうやって出会ったらいいのかもわかんないし……。
「おかえり奈々。ちょうど夕飯できたところよ〜。今日のご飯は……」
「カレーでしょ? やった」
スクールバッグをソファに放り投げると、大学生になってから一丁前に側頭部を刈り上げて、筋肉もつけ、やたらと厳つい見た目になった兄がキッチンからトレーにカレーを載せながら現れた。
「奈々、今日遅かったな」
「あーうん、友達の家に行ってた」
「あんまり遅くなる時は連絡しろよ、車で迎えにいくから」
「ううん、家近いから大丈夫だよ」
反抗期のときは私と喧嘩三昧だった兄も、大学生になり、急に大人になった。
それは二十歳を過ぎたからなのかどうかは知らないが、まるで別人みたいに進化した。
日本では十八歳で成人だ。
だから私も誕生日を迎えれば、大人の仲間入りになる。
まあ、私は早生まれだし、まだまだ誕生日を迎えるのは先の話で、全然実感はわかないんだけどさ。
私には、十七歳と十八歳の境目にある大人と子供の違いってやつがまだよくわからない。
だって煙草を吸えるようになるわけでも、お酒を飲めるようになるわけでもないんだよ。違いが全然わかんない。
美月は、たしか四月が誕生日だったはずだからもう大人。
私は、来年の三月が誕生日だから、まだ子供。
社会的には、そんなふうに区別される。
でも私はきっと十八歳になってもまだ子供だし、子供でいたいと思っている。
自由にのびのびと育てられた私には――幼い我が子の面倒を、まだ十八歳の娘に見させている美月の両親の行動が、ぜんぜん理解できない。
でも、世の中には高校を卒業してすぐ社会に出る人だっているわけで。
お給料を貰いながら「私、子供なんです!」はさすがに通用しないような気もする。
そう考えると、社会に出るのはまだ怖い。もう少し守られていたいと思ってしまう。
果たしてどんな瞬間に自分で自分を「大人になった」とはっきり認識できるようになるんだろう。
初めて投票に行ったとき?
えっちなコンテンツを見れるようになったとき?
クレジットカードを作れるようになったとき?
それとも、辛口のカレーを食べられるようになったときかな?
私に合わせて作られた甘口のカレーに、辛味を足すためのスパイスをばっさばっさと振りかけているお兄ちゃんを見つめながら、ぼんやりと思った。
二十歳になったお兄ちゃんは、やっぱりもう大人なのかもしれない。
でも私には、十八歳のあの子が大人のようには、まだ見えない。
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