第3話 私の子供だとでも思った?
加瀬美月の家は私の家から徒歩十五分くらいの場所にあり、二階建てアパートの一階だった。
オートロックも何もないシンプルな建物だが、クリーム色の外壁はまだ新しく綺麗だ。
屋根の下に入ると、傘を閉じて適当に水滴を払う。
「加瀬さんってこんなに近くに住んでたんだね。ご近所さんなの驚いた。中学校違うのに」
「家族がもう一人増えたから、最近、広いアパートに引っ越したんだ」
なるほど。最近引っ越してきたから、今の今まで、私たちは一度も会わなかったのか。
「ね、せっかくだからお茶でも飲んで行って。雨が弱くなってから帰ったら?」
願ってもない申し出に、口角が上がる。
家に帰るまでの数分だけでも話ができて、今日は超ラッキーじゃんって思ってたのに。
「いいの? ありがとう」
家の鍵を取り出して、ガチャリとドアを開けた彼女に続く。
「おじゃましまーす」
「どうぞ。荷物、持ってくれてありがとね」
靴を脱ぎ捨てて先に家の中に入った加瀬美月は、私から結構な重量があるレジ袋を受け取って、にっこりと微笑んだ。
しんと静まり返った誰もいないリビングは思っていたよりも広い。
ベビーベッドがどーんと構えていて、いかにも子育て中ですっていう雰囲気に私は面食らった。
まさか、マジでこの子、加瀬美月の子供じゃないよね……?
十八歳から結婚できるとは言え、もう結婚してたりしないよね……?
まさか旦那さんの連れ子、とか?
嫌な想像が、グルグルと脳内を駆け巡る。
「あ、お茶出すからソファに座っててね」
加瀬美月は抱っこ紐を外さないまま、てきぱきとなれた手つきでベビー用品を棚にしまったあと、私に冷たいお茶を出してくれた。
「赤ちゃん、抱っこしたままで平気なの?」
「ううん、今寝かせる」
加瀬美月はベビーベッドの脇に立つと、抱っこ紐の背中側のバックルをパチンと外す。
まるで壊れ物を扱うかのような優しい手つきでそーっとベッドに赤ちゃんを寝かせると、赤ちゃんは目を覚ますことなく、両手をバンザイしたまま眠りについた。
「ふー、起きなくてよかった……この瞬間がいつも緊張するんだよね」
「……ねえ、近くで見てもいい?」
「いいよ、こっちにおいで」
ちょいちょいと手招く彼女にそろそろと近付く。
赤ちゃんなんて間近で見たことがない私は、興味深い気持ちでベビーベッドを覗き込んだ。
「弟のたすく」
「弟?」
「ふふ、私の子供だとでも思った?」
にまっと加瀬美月が笑う。
何も言わないまま、私はただ首を横に振った。
正直、少しだけ疑った。さすがにあり得ないとは思ってたけど。
はー、よかった。めちゃくちゃほっとした。
ていうか、なんで一人で弟のめんどうを見てるの? なんてこと、聞くこともできずに私はただ寝入っているたすくを見つめた。
ちっちゃな手。ぱやぱや生えている、うぶ毛みたいな薄茶色の髪の毛。
あまりにも静かに寝入っているせいで、寝顔はまるで作り物みたい。
ちゃんと息してるの? 不安になる。
でも、目を凝らすと薄い胸が呼吸のたびにわずかに上下していて、こんなに小さくてもちゃんと心臓が拍動して、しっかりと呼吸をしているのがわかる。
「たすくは今何ヶ月なの?」
「四ヶ月だよ」
「そうなんだ、まだ生まれて四か月……」
「赤ちゃん、近くで見るの初めて?」
「うん、私末っ子だから。……かわいいね」
たすくを覗き込みながら言うと、加瀬美月が小さく笑う。
「そっか……たすく、よかったね。かわいいって言ってもらえて」
そしてどこか遠い瞳で、寝入るたすくに声をかけた。
雨はやまない。弱まりもしない。
でもどうかこのまま、降り続いて欲しい。もっと加瀬美月と、二人きりで話してみたい。
「……学校で、噂になってたでしょ? 私に子供がいるって」
キッチンでミルク用のお湯を沸かしている時に彼女は、あくびを噛み殺しながら突然そんなことを聞いてきた。
激しい雨のせいで薄暗い窓の外を見つめていた私は内心ぎくりとしたが、なんてことない顔を作って加瀬美月に顔を向ける。
「そうなの? そんな噂、聞いたことない」
嘘だった。
私が噂の答え合わせをしたくて、興味本位で声をかけたのではと誤解されるのが嫌で、素直に言えずに知らないふりをした。
「誰かが私の姿を見たみたい。まあ、びっくりするよね、女子高生が赤ちゃん抱っこして歩いてたら。よくじろじろ見られるから、もう慣れたけど」
「噂、訂正しないの? 弟だって言えばいいのに。あ、私から言おうか?」
「ううん、深く探られるぐらいなら、触れられない話題のままいた方がいい。浅海さんも、できれば内緒にしててくれる?」
恐る恐る私を見る瞳。
言うつもりなんかないよ、というか、こんな美味しい話、誰かに話すなんてもったいない。
「……いいよ、じゃあ、二人だけのひみつ」
弟と十八歳も年が離れていることもそうだし、じゃあ母親はいったい何歳なのとか、父親は何しているのかとか、疑問は山のように湧いてくる。
でも、彼女にとっては質問ぜめに合うことよりも本当か嘘かもわからない噂を吹聴される方がマシらしい。だから、聞かない。
最近の加瀬美月は、ずっと授業の合間は寝て過ごしていて、完全に外界をシャットアウトしている。
噂を流されたところで、本人は全く気にしてなさそうだ。
雨の音に混じり、キッチンから流水音が聞こえてくる。不思議に思って立ち上がり手元を覗き込むと、哺乳瓶を流水に当てて冷やしているところだった。
「へー、ミルクってそうやって冷ますんだ」
「うん。最初からぬるい温度で作っちゃだめなんだって。めんどくさいよね。でもお母さんから口酸っぱく言われてるの」
加瀬美月の口から母親の話を聞いて、よかった、ネグレクトじゃなかった……と失礼ながらほっとした。
「……お母さん、そろそろ帰ってくる?」
「ううん、帰ってくるのは朝。お母さんが仕事の日は、私がたすくの夜勤担当なんだ」
そう笑いながら言って、加瀬美月はミルク片手に戻ってきた。
えっ夜勤担当……?
こんなに小さな赤ちゃんがいるのに、母親が朝まで帰ってこないってこと、あり得るの?
もしかして、加瀬美月がいつも眠そうなのって、夜通したすくの育児をしていたからなのか?
すやすやと心地良さそうに眠るたすくは、まだ起きる気配はなさそうに見える。
「……ずーっと寝てたしもう起きるかなーと思ってミルク作ったけど、全然起きないね」
ベビーベッドを覗き込んで、加瀬美月は、はあ、と小さくため息をついた。
「あーあ、起こしたくない。眠ってる時が唯一の自由時間だから。お腹空いたって泣き喚かれながらミルク作るのも精神的に来るから、先にミルク作っちゃった……。泣かれてるとさ、出来上がるまでの一分一秒が永遠に感じるんだよね」
「そうなんだ……」
「どうしよ、起きるまで待ってようかな。冷めちゃうけど」
「……なんかこんなに気持ちよく寝てると起こすのも可哀想だよね」
そんなことを話している間に、たすくが短い手足をびーんと伸ばして唸った。
あ、やばい。私の声うるさかったかな。
たすくが顔を顰める。そしてすぐに、ほにゃっほにゃっとか細い泣き声が上がった。
「ご、ごめん、起こしちゃった」
「ううん、大丈夫。ちょうどよかった。ほら、おいでたすく。時間だよ、ミルクにしよう」
慣れた手つきで加瀬美月はたすくを抱き上げて、冷ましたばかりの哺乳瓶を口元に寄せた。
小さい口を開けて哺乳瓶に吸い付くと、たすくはまだ夢の中にいるみたいに瞼を閉じてほっぺをぷくぷくさせながらミルクを飲み出した。
「……夜勤って、なにするの?」
「お風呂に入れたり、ミルクあげたり、オムツ交換したり、寝かしつけたり。泣いたら抱っこしてあやしたりして、その合間に寝て……ずーっと朝まで同じことの繰り返し」
「……勉強してる暇ないじゃん」
受験生なのに、と言いかけて、押し黙った。
加瀬美月の成績が落ちた理由、常に寝ている理由。……やっとわかった。
「今は勉強時間より、睡眠時間が欲しい」
疲れ果てた瞳でたすくを見つめる加瀬美月を見ていると――こんな子供に育児を押し付けて、母親は、父親は、いったい何をしてるんだよ、と強く言葉にして批判したい気持ちになった。
でも、言わない。
自分の親を否定されることは誰だって嫌に違いない。それこそ、余計なお世話というやつだ。家庭にはさまざまな事情がある。
「……抱っこしてれば、泣かないの?」
「うん、揺れてれば勝手に寝るよ」
「じゃあ私が抱っこしてるよ。今寝たら? まだ雨やみそうにないし」
「えっ? 浅海さんの帰る時間遅くなっちゃわない?」
「大丈夫、家近いから」
「でも、悪いよ……」
加瀬美月はミルクを飲み終えたたすくを器用に肩にもたれかけさせて、トントンと背中を叩く。
すぐにケフッと小さなげっぷをしたたすくは、満足そうな顔をしていた。
「あ、そうだその前にオムツ交換しないと」
「えっ、そんな頻繁にオムツ替えるの? 十二時間吸収! ってパッケージに書いてあるのに」
オムツのパッケージを指さして尋ねる。すると加瀬美月がからかうように目を細めた。
「濡れたオムツずっと付けてたら嫌じゃない? 女の子なら、辛い気持ちわかるでしょ?」
確かに。
なにも言い返せなくなってしまった私は、加瀬美月が、たすくが着ている薄緑色の恐竜が描かれたつなぎ服(のちに「ロンパース」と言うのだと教えてもらった)の脚の間のボタンを外して、お腹まで捲り上げるのを黙って見ていた。
でもいざオムツを外そうとテープに手をかけた時、私は視線をあさっての方向へ向けた。
なんだか、勝手に見てはいけないような気がした。
気にしすぎだとは思うけど、一応、たすくは男の子だし……。
オムツを交換してもらったたすくは、にこりと嬉しそうに私に向かって微笑んだ。
「……ねえ、どうやって抱っこすればいいのか教えて」
仕切り直してそう尋ねると、加瀬美月は少しだけ申し訳なさそうに眉尻を下げて私を見つめた。
「本当にいいの?」
「うん」
「こうやって、支えながら横抱きで……」
抱き上げたたすくは、想像していたより割とずっしりとした重みがあった。でもなんだかくたくたとしてて、温かい。
これが人間一人のいのちの重み。手足は細く、容易く折れてしまいそうで、少し怖い。
「浅海さん、腕疲れたらすぐ寝かせていいからね」
「ううん、大丈夫。軽いから」
「ずっと抱っこしてると疲れてくるよ。もう七キロ近くあるんだから」
万が一、落としでもしたら死んでしまうのでは。責任感も、七キロと同時に両腕にのしかかる。
「いいから、早く寝なよ」
少しだけびびってしまったことに悟られないように強めに言うと、遠慮よりも眠気が勝ったのか、彼女は小さく頷いてソファに横になった。
背もたれにかけていたブランケットをかけると、ゆっくりと瞳を閉じる。
「……ありがとう。今日一日で、浅海さんの印象すごく変わった。本当に優しいんだね」
目を瞑りながらそう言う彼女を見つめる。視線が釘付けになり、私は加瀬美月から目を離せない。
「……まーね、私、優等生だから」
「ふふ……また言ってる。浅海さん、優等生に見えないんだけどなぁ……」
ぎこちなくゆらゆら左右に揺れながら、青白い彼女の肌、それから首筋を見つめた。
冷静になって考えてみると、いったいどういう状況なんだろう、これ。
雨は一向に弱まらない。
バタバタと窓ガラスを叩きつける雨の音に包まれながら、気付けば加瀬美月も、たすくも、静かに寝入っていた。
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