第2話 まーね、優等生ですから
放課後、昼から降り出した雨のせいで遊んで帰る気にもなれず帰路につくと、自宅の最寄駅に着いた頃には空はさらに分厚い雲に覆われていて薄暗く、雨足も強まっていた。
雨は好きじゃない。
湿気のせいで髪型が思ったように決まらないし、ローファーの踵から跳ねた泥が紺色のソックスにシミを作るからだ。
ふくらはぎについた泥が乾いたときの、肌が引き攣るような感覚も嫌すぎる。
あーあ、雨の中、歩いて帰るのだるいなぁ。濡れるの本当やだ。
どうせもう帰るだけなんだけどさ。
いつもだったら家まで最短距離を行くんだけど、普段私が通る裏路地は、舗装がでこぼこしていて大きな水たまりが出来る場所がある。
少し遠回りだけれど、今日は大通りを帰るのが吉と見た。
パン、とお気に入りの傘を広げて、駅を出て歩き出す。バタバタと大きな雨粒が容赦なく傘を叩きつけた。
大通りの交差点の歩行者信号が赤になり、足を止める。
ここは交通量が多いので、一度信号が赤になるとめちゃくちゃ長い。いっそ歩道橋でも作ってくれたらいいのにと通るたびにいつも思う。
溜息をつきつつ何気なく反対側をみると、私と同じ制服を着た女子高生が傘をさして立っているのが見えた。
紺色のブレザー。
ネクタイの色は青、私と同じ三年生だ。
膝小僧がギリギリ見える丈の、チェックのプリーツスカートに、足元はローカットのオールスター。
片手には黄緑色の縦長の袋を持っていて、胸元には大きな黒いリュックを前に抱えている。
なんでリュックを前に抱えてるんだろう。そう思って目を凝らすと、すぐにそれがリュックではないと気付いた。
抱っこ紐だ。短くて小さな足が、にょっきりと両側から飛び出している。
あれは……赤ちゃん?
「……え、まじ……?」
思わずその女子高生の顔を見て、驚いた私は咄嗟に傘で自分の顔を隠した。
大丈夫、まだ、私には気付いていないはずだ。
心臓が、バクバクと急激に鼓動を速めていく。
どうか、私の見間違いであって欲しい。
そう思うけど、ずっと見つめてきたあの顔を、私が見間違うはずがない。
まさか、加瀬美月……?
真希に教えてもらったあの噂が頭をよぎった。加瀬美月にコドモがいるって噂。
本当だったの?
いやでも、そんなわけない。
だって彼女は一度も学校を休んだことなんてないんだから。
それに痩せ型だから、万が一にもお腹がでてたら絶対にすぐわかる。
だったらあの子は、誰の子……?
恐る恐る、少しだけ傘を持ちあげる。
交差点の向こう側に佇んでいたのは、やっぱり……青白い顔をして俯いている加瀬美月その人だった。
目を凝らして、彼女を観察してみる。
彼女が手に持つ黄緑色の大きな袋には赤ちゃんの写真がプリントされている。どうやら紙オムツのようだった。
傘を持つ方の肘にも、大きなビニール袋を二つ提げていて、細い腕に食い込んで痛々しい。
少し行ったところの角にドラッグストアがあるから、もしかしてそこで買い物してきたのだろうか。
遠くから見てみても、俯いていてなんだか疲れ果てているように感じる。
うーん……。
華の女子高生がしていい顔じゃない気がする。無表情で通勤電車に揺られている早朝のサラリーマンぐらい、顔に生気がない。
歩行者信号が青になる。
向こう側から加瀬美月が、ゆっくりとした歩みで近づいて来る。
歩き方が少しぎこちない。
細身の身体で、赤ちゃんを抱えて、その買い物の量はちょっと多すぎじゃ無いの? と突っ込みたくなる。
横断歩道の真ん中に差し掛かる。
すれ違いそうになったとき、加瀬美月が少しだけよろけて――私は、咄嗟に腕を摑んで支えていた。
「大丈夫?」
「あ……
驚いたように見開かれた、猫みたいな大きい瞳とバチリと目が合う。
あ、やっとだ。
やっと私のことを見た。
「……雨だし、この荷物の量、一人じゃ重くて大変でしょ。家、近いの? 家まで持つよ」
抱っこ紐でその胸に抱えた赤ちゃんには敢えて触れずに言う。
一瞬困ったような顔をしたのを無視して、私は彼女が手に持つ買い物袋を奪い取った。
「浅海さん、大丈夫だよ。うちね、すぐ近くだから」
「近くなら尚更遠慮することないじゃん。私の家も近いんだ、だから大丈夫。ほら行こ、もう信号赤になっちゃう」
チカチカと信号が点滅して音が鳴って、私は横断歩道を途中で折り返し、来た道を戻った。
買い物袋を奪われた加瀬美月は、困惑気味に私の後をただ続く。
横断歩道を渡り切った時、ぎりぎりで信号が赤になり、私は彼女を振り返った。
「家、どっち?」
「……浅海さん、優しいね。ありがとう」
「まーね、優等生ですから」
長い茶髪の毛先を巻いて、両耳にはピアス、着崩した制服の私はどこからどう見ても優等生のスタイルでは無いのだけど、加瀬美月は特に突っ込むわけでもなくただ苦笑いした。
愛想笑い、めっちゃ下手じゃん。でもかわいい。
「……それよりさ、加瀬さん私の名前知ってたんだ。驚いた」
同じクラスだから私の名前を知っててもおかしくないけれど、まさか加瀬美月に「浅海さん」とちゃんと苗字で呼ばれる日が来るとは思っていなかった。
「知ってるよ、浅海さんすごく目立つもん。でも、話すのは初めてだよね」
「……そうだっけ」
ううん、初めてじゃない。
入学式の日に話したよ、ほんのちょっとだけね。
あなたは忘れているかもしれないけれど。
口には出さずに心の中でつぶやいて、私は加瀬美月と歩調を合わせて歩き出した。
手のひらに刺さるビニール袋の重み。こんなにたくさんの買い物を、どうして一人で?
聞きたいことは山ほどある。でも、聞かれたくないことだってあるだろう。そう思うから、私はただ黙って足を進める。
「……浅海さん、何も聞かないんだね」
顔色を窺うように私を見る瞳。
敵か味方かわからないって顔してる。
警戒心の強い猫みたい。背中がぶわーっと総毛立ってるのが見える気がする。
別に取って食ったりしないのに、私のこと怖いのかな?
それもそうか。私、自分で言うのもなんだけど、結構見た目派手な方だしなぁ。身長も高い方だから、威圧感あるのかも。
「……逆に、聞いていいの?」
「うん。いいよ、聞いて。誤解される方が嫌だから」
覚悟を決めたような眼差しに、少しだけ肩の力が抜ける。
私は、彼女の胸元ですやすやと静かに寝ている赤ちゃんに視線を向けた。
ぷくぷくの、雪見だいふくみたいにまん丸なほっぺ。幸せそうな顔でよく寝てる。
長いまつ毛は、やっぱり加瀬美月にどことなく似ている気がする。
私の視線が赤ちゃんに向いたのに気付いて、微かに彼女が息を呑んだのがわかった。
私は自分よりも低い位置にある彼女の黒い瞳を覗き込む。
「……何もこんな雨の日に、こんなに大量に買い込まなくてもよかったんじゃない? 今日、特売日だったの?」
予想していた質問と違って面食らったのか、加瀬美月は驚いたように目を見開いた。
そんなに意外かな。
でも、聞かないよ。あなたが言いたくないことなら。
誰に言いふらすつもりもない。
だって私には敵意なんて、微塵もないから。
ずっと、その目で私を見て欲しかった。
一方的に見つめているだけだった加瀬美月が今、私の隣にいて、会話ができている。
その事実だけで、私は猛烈に浮かれている。
だってこのまま、何の接点もないまま時が過ぎ、卒業するんだと思ってた。
諦めてた。ただ密やかに、でも、ずっと想ってた。
誰にも言えない私の秘密。
この子との恋を、密かに想像する私。
この秘密は絶対に誰にも言わないまま、本当の気持ちを閉じ込めたまま、この初恋は枯れて、しぼんでいくんだと思ってた。
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