3話 逆転
静岡 山鳴小学校元教師
「轟…凛太ですか…これはまた、懐かしい名前が出てきましたね」
十年前に教師を引退した、元山鳴小学校教師。
「覚えてますとも。小学生に、握力が劣ると思ってませんでしたから」
「十七年前だったかな。小学三年の頃、轟君の担任になってね。あの頃は教室でやってましたね。握力測定」
「私はその時、六十キロはありましたね。小学生に負けるわけないと、思ってました」
「前の三年生の平均は、十キロ前後でした。ですが、轟君は、平均を上げるに至りませんでした」
「轟君が握っても、数値は出ませんでした。その測定器は、三キロ以下は出ないので、友達には弄られているようでしたが、私は測定器が壊れたと思い、新しいのと取り換えようと、教室を出たんです」
「そのときだったかなぁ、気づいたのは。測定器を見てみると、明らかにへこんでたんです。ぐにゃぐにゃに」
「気づきました。強すぎたんだなと。もちろん、壊れてるので取り替えましたよ」
「お?来たか」
凛太が声を上げ、リング下を見る。
「おぉ!龍一だ!新星龍一だ!」
観客が龍一に群がり、ワイワイ騒ぎだす。
龍一は、なんとか振り切ったあと、リング場に上がってくる。
「人気者だな。新星さん」
馬鹿にしたような言い方だった。
しかし、龍一は至って落ち着いていた。
それを見て、元々笑っていた凛太の口角が、さらに上に上がっていった。
「いいな。ただの力自慢ではないな」
凛太と龍一の間に、審判が挟まってくる。
あの真面目な審判だ。
「離れて」
審判の合図で、二人が離れ、睨みあいながら構える。
「始めぇ!」
開始の合図が、会場に響く。
それと同時に、凛太が走り出す。
そして、凛太が右腕を、龍一の腹に向かって振り上げる。
龍一は咄嗟に、腹に両腕を固める。
数瞬後、凛太のアッパーは、龍一の腕に激突した。
すごい力である。
腕でしっかりとガードをしたのに、腹に衝撃が伝わって、龍一がひるんでいた。
「らぁ!」
それを見逃さず、凛太はひるんだ龍一を、滅多打ちにしていた。
左ジャブ、右カーフ、中段回し蹴り、右ショートアッパー、後ろ回し蹴り。
龍一はその猛攻を、一撃一撃、ガードはできたものの、やはり衝撃は伝わってくる。
右腕の、真っすぐなテレフォンパンチが、龍一に襲い掛かってくる。
凛太の体重、おそらく九十キロ程度を乗せた、ぶん殴り。
凛太は、これで勝負を終わらせる気だろう。
しかし、終わらせようとしたのが、失敗であった。
龍一の動体視力は、ひるんだ状態でも、ガードができるほど。
テレフォンパンチを、食らうはずがなかった。
龍一はまず、テレフォンパンチを右に躱し、その後左手で凛太の顔面を打ち、右足を振り上げ、凛太の首に回転を合わせてぶつけた。
凛太の体は、大きく揺らぎ、地面に倒れた。
「おお!」
予想外の反撃に、観客たちは歓声を上げる。
「くそっ…」
凛太はぐらつきながらも、根性だけで立ち上がった。
「うおお!」
凛太が突っかかっていくが、龍一は冷静に、左ジャブを顔面にお見舞いする。
凛太の体が再びぐらつき、倒れるかと思われた瞬間。
ガシッと、龍一の左手首を掴んだのだ。
凛太の狙いは、これだったのだろう。
わざと冷静を欠いていると思わせ、相手が攻撃してくれるのを待ち、攻撃してきたら掴む。
凛太の握力は、凛太自身も知らない。
握力測定器で、測れなかったからだ。
しかし、解ることが一つだけある。
潰すには十分だということ。
凛太の拳に、万力の力が加えられる。
一気に、龍一の顔が青ざめる。
恐怖からくるものと、一気に血流の動きが変わったことによる現象であった。
骨の奥底の芯から、ミシミシと、古びた板材のような音が響く。
龍一は、咄嗟に身を退こうとする。
抜けない。
それどころか、足さえ動かない。
動かなかった理由は、二つあった。
一、龍一の退く力よりも、凛太の握力が上回ったから。
二、手首の動脈をせき止められ、足に血流が十分にいかず、力が込められなかったから。
轟凛太、時牧戦録九勝無敗。
その中の三試合、決め手は、首絞め。
頸動脈をせきとめることで、相手を失神させてきたのである。
通常の首締めは、呼吸を止めることで、酸素を少なくし、血を脳に行かせず、失神させる。
しかし、凛太の首締めは、頸動脈を直接締め、脳への血流を止める技であった。
「龍一ィ…。終わらせてやるぜ…」
凛太は笑いながら、左手の指を、おもむろに鳴らす。
察したかのように、龍一の左足が、凛太の右ふくらはぎを叩く。
「悪あがきだよ」
凛太の左腕が、龍一の首、頸動脈を捉える。
意識が遠のく。
しかし、距離は十分。
龍一の空いた右腕が、凛太の首に向かって飛んでゆく。
龍一の手の形は、正拳ではなかった。
中指から小指までは、正拳と変わらないが、人差し指が、第二関節のところでたたまれていた。
拳の名は、中国拳法の型の一つ、
龍一の、たたまれた人差し指は、人体の最大の弱点、喉を突いていた。
「おげっ」
凛太がえづき、龍一の手と喉から、両手を離してしまう。
凛太は、下がって距離を取ろうとする。
これが間違いであった。
龍一の足が浮き、凛太の首を蹴りつけたのだ。
凛太は距離を取ろうとし、龍一の蹴りの間合いまで、下がっていたのである。
喉への直接的な打撃二連発、耐える人間はそういないだろう。
凛太はブラックアウトしたかのように、地面にストンと落ちていた。
「勝負あり!」
審判の声で、試合が終わった。
勝者、霞原龍一。
リングの外、歓声を上げる観客にはなれ、数人の闘技者が、龍一を見ていた。
「面白い相手だな。全力をぶつけてみたい」
白い髪の、若い男が呟く。
身長は百八十、体重は九十だろうか。
街中に歩いていそうな、そんな男であった。
時牧戦録、十三勝無敗。
「ほほう。彼が、次の俺の対戦相手予定者か。」
百八十センチ、百二十キロといったところか。
黒い丸刈り、無精ひげを生やし、Yシャツからは、一目で強いと思わせるような、太い腕がはみ出ていた。
時牧戦録、十一勝一敗。
胸ポケットから、写真を取り出し、龍一に見せる。
写真には、男の顔が映っていた。
男は髪が黒いが、顔立ちや、鼻の形から見て外人だろう。
さらに、眉は吊り上がり、鋭い眼光をしていた。
そして、実年齢は二十代だが、三十といっても信じそうな程、雄々しく凛々しい顔だった。
「これって…」
龍一が聞く。
一緒に取り出した煙草を咥えながら、総一郎が答える。
「次の対戦相手、
ミサエル・ジャルマー、元ヘビー級チャンピオン。
ボクシングでチャンピオンになった後、すぐに引退。
二年間消息不明の、伝説的なボクサーであり、格闘技関係者なら、だれでも知っているほど、驚異的なスピードでチャンプになった男。
時牧戦録、二勝無敗。
「いわゆるルーキーだが、実力は本物だ」
龍一は、リングの上に立っていた。
しかし、対する相手は、まだ居なかった。
「遅いな…」
腕時計を確認し、煙草を咥えながら、総一郎はつぶやく。
龍一が到着してから、三十分は待っている。
アップを終えた後だったが、落ち着いてしまっている。
観客も冷め始めている。
そんな時、階段から靴の音がした。
龍一は 階段に背を向けていたため、振り返って確認をした。
「えっ」
龍一の目には、汗を垂らしながら、全身をジャージで着込んだ男が立っていた。
おそらくジャージの下には、ハーフパンツだけを履いているのであろう。
しかし、龍一が驚いたのは、汗だくなことでも、遅刻をしたことでも、ジャージを着ていることでもなかった。
龍一の目に真っ先に飛び込んできたのは、男の顔であった。
ミサエルの顔は、外人と思える顔立ち、吊り上がった眉、鋭い目、雄々しく凛々しい顔立ち。
だが、男の顔は、それとはまったく違った。
剃ったかのような細い眉、静かな目、頬の辺りは細く、とてもヘビー級には見えず、落ち着いた青年のような顔であった。
そんな青年が、リングロープに手をかけ、リング場に飛び乗り、龍一の顔に視線を送る。
すると、青年は微笑み、ジャージを脱ぎ、観客たちの方へ投げ込む。
「あんた…誰だ?」
龍一が恐る恐る質問する。
青年は再び微笑み、深く息を吸う。
「ミサエル・ジャルマー」
聞いた名だ。
この男がミサエル?
どう見ても違う。
そもそも、外人には見えないし、ヘビー級にも見えなかった。
「嘘だろ…?」
龍一の漏らした言葉に、ミサエルは答える。
「引退してから、痩せたからね」
痩せた程度ではなかった。
明らかに人が違う。
しかし、すぐに分かる事となる。
この男がミサエルだということが。
体格や顔が変わっても、解る判断基準。
「龍一選手?準備はいいですか?」
考えを巡らせていた龍一の脳に、外から声が入ってくる。
「はい…」
応えたものの、正直もう少し考えたかった。
が、戦いとなると、龍一の顔が変わる。
審判は、四試合目の倉木戦で担当した、赤いオールバックの男、
「始め!」
猛が腕を振り上げた瞬間、その時だったのだ、龍一が理解したのは。
ヒットマンスタイル。
右腕は顔の横。
しかし、左腕は体の前方に、脱力した状態で垂らしている。
完全スピード特化の構えである。
そして、左腕が下に伸び切っている。
ミサエル特有の、ヒットマンスタイルであった。
ミサエルということはわかった。
しかし、なぜこのような体格なのか。
多く見積もっても、ウェルター級ぐらいだろう。
そこまで体重が落ちている理由は、何なのか。
ボクシング引退後、二年間でここまで絞ったということなのか。
その理由は、ボクシング引退から、時牧加入までの二年間にあった。
ミサエルはボクシング引退後、ヘビー級のまま、日本で暴力団に入り、力を発揮しようとしていた。
ミサエルは、一人で一つの組を潰すという功績を成し遂げた。
しかし、次の戦い。
猛獣狩りと呼ばれる男、
その後、調整の末、ウェルター級まで落ちたのである。
だが、実力が落ちたわけではなかった。
時牧に入り、一か月程度で、二勝まで上がったのである。
「あんた…本当にミサエルなんだな」
龍一が笑いながら言う。
「あぁ」
ミサエルはそれだけ答え、龍一に向かって、ヒットマンスタイルのまま走ってくる。
風を切る音。
フリッカージャブが放たれ、龍一の顔面に当たる。
「っ…」
ミサエルのフリッカージャブは止まることを知らず、龍一に向かって、連発され続ける。
フリッカージャブは速く、龍一の動体視力でも、避けるのがやっとだった。
龍一は考えていた。
どう抵抗すればいいのか、わからなかったのだ。
下手に動けば、ジャブの雨の餌食になる。
しかし、動かなければ、いずれ当たる。
考えた結果、でた結論は…。
「うおぉ!」
観客が、驚愕の声を上げる。
龍一はわざと前進し、ジャブ途中の拳に、頭突きをしたのである。
加速途中のジャブが止められた。
これがどういう意味か。
ジャブは基本、当たった瞬間に戻すことで、ようやく連発ができる。
それが途中で止められると、もう一度ジャブを打つのに、幾瞬かの隙ができる。
龍一は、それを狙ったのだ。
今宵初、快挙。
龍一の右アッパーが、ミサエルの顎を貫いた。
「かっ…」
ミサエルの動きが、再び停止する。
そこに、顔面右ストレート。
そして、顎に向かっての左ジャブ。
ミサエルの意識は、遠く彼方へ。
しかし、ここで立ち上がるのが、ミサエル・ジャルマー。
ミサエルは、鍛えた足腰のみで立ち、数秒の間で意識を取り戻した。
「龍一。面白いな」
ミサエルが語り掛けてくる。
「あぁ」
それに龍一が応える。
数秒の時が流れた。
観客は固唾を飲み、龍一とミサエルは、深く深呼吸していた。
そして、龍一の足が、地面を蹴る。
龍一の初撃、右ジャブ。
ミサエルの左手で、受け止められる。
左手を離し、龍一の体が一瞬止まった隙に。
ミサエルの初撃、右ストレート。
龍一の顎に直撃。
かに思われたが、龍一は右に回転し、ストレートの威力は半減。
そして、回転力をつけたまま。
再び、左アッパー炸裂。
ミサエルの足が、ほんの少しだけ震える。
しかし、ミサエルの意地か、左腕を龍一に向かって振り下ろす。
龍一はそれを見たうえで、逆に足を延ばし、ミサエルの顔面に頭突きを放つ。
ミサエルの鼻から、血が噴き出る。
だが、ミサエルはまだ倒れない。
更に、ミサエルの右腕が、龍一の腹に放たれる。
それと同時に、龍一が踏み込む。
決着の時。
ゴチャ。
血が空を舞う。
放たれたのは。
三度、アッパー炸裂。
仰向けで、リング場に倒れる。
「勝負あり!」
3話 逆転 終
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