第9話 ピアノ

 ――二日酔い。

 まだ酒の匂いが体から抜けていない気がする。満員電車の中、隣の男性の嫌悪を感じた。

 (ごめんなさい。ごめんなさい……)


 友哉からラインだ。

『優香ちゃん、出勤してる? よろしく言っといてね』

 まだ、会社に着いてないっての。

『はいはい』

 僕は、適当に返信した。


 席に着き、支度しようとした時、里見さんが歩いてきた。

「昨日はお疲れ様」

 と僕がいうと、彼女はこう言った。

「昨日はごめんなさい。でも楽しかったです。話があるので、ランチご一緒しませんか」

「お、いいよ」

「今日は私に奢らせてくださいね」

 そう言って微笑んで自分の席に戻って行った。


 午前中、仕事しながら、友哉にラインを入れた。

 『里見さんにさ、お前のライン教えていいか? 前回会った時、交換しなかったろ。僕もまだ知らないけどね』

 昼前に友哉から返信が来た。

 『もち。よろくおねが』

 忙しいからか、カタコトだ。

 

 ◇

 

 ――昼休み。

 里見さんと歩いてランチできそうなお店を数件まわったが、どこも混んでいる。

 すると、回転がいいからなのかラーメン店が並んでいなかった。

「ラーメンでもいい?」

 と僕が聞くと、里見さんは、どこでもいいよ。と言った。

 席に着き、落ち着いたところで、里見さんが言った。

「今夜、親戚が経営するバーで演奏するんだけど、聴きに来ませんか?」

「えっ! 里見さんバンドかなんかやってるの!?」

 僕はつい、大きめの声で聞いてしまった。

「バンドではないけど……。たまに人が足りない時に、ピアノ弾きに行ってる」

「おー! それは、是非聴いてみたいな」

 里見さんは、少しはにかんだ表情で、ありがとう。と言った。

「あ、そだ。ラインと電話番号の交換してもいい?」

「あ……うん」

 と言いながら、里見さんはスマホを取り出した。

「友哉にもいいかい?」

「うんうん」

 僕が登録に手間取っていると、彼女がすっと手を伸ばす。

「私、やり方知ってるよ」 

 ささっと、彼女がラインも電話番号登録もしてくれた。

「ありがとう。友哉には僕から伝えておくね」

 彼女はニコッと微笑んだ。

 そのとき、ラーメンが来た。

「あー、やばい。昼休み終わりそ」

 僕は急いですするが、彼女はマイペースに食べていた。

 僕は、会議はないから遅れてもなんとかごまかせる。

「里見さんは遅れても大丈夫?」

 と、僕が聞くと、

「うん」

 と、微笑んだ。

 その笑顔が可愛らしく感じた。

 

 僕は、意外と音楽が好きで、どのジャンルも興味があってよく聞いている。

 (里見さん、どんな曲を弾くのだろう)

 かなり興味があり、定時後が待ち遠しかった。

 

 ◇

 

 ――やっと仕事が終わり、里見さんがビルの入り口で待っていてくれた。

「行きましょう。隣の駅なの」

「時間は大丈夫?」

「全然余裕」

 里見さんは何故かピースして答えた。


 隣の駅から歩いてすぐのお店だった。

 半地下で、ビルの入り口に下へ続く階段がある。

 おしゃれで落ち着いた雰囲気だ。

 店に入ると、奥に小さめのステージとピアノ、カウンターにはお酒がずらっと並んでいた。

「好きなとこ、座って」

 里見さんは、カウンターの店員さんと話をした後、奥に消えて行った。


 店員の女性が注文をとってくれた。僕は何を飲んだらいいのかわからないので、おまかせで頼んだ。

 十五分くらいしただろうか。ドレスに着替えた里見さんがピアノの椅子に座る。

 僕は目を見張って見つめた。


 ――まるでピアニストという雰囲気。

 せっかくなので、僕はピアノの近くのテーブルの椅子に座った。

 彼女が鍵盤に触れた瞬間、空気が変わった。

 柔らかな音色がこぼれ落ちる。ドビュッシー《月の光》。

 ――これが、里見さん。

 普段の彼女とは違う姿に、思わず息をのんだ。


 うっとりとする音色に酔いしれる。まだお酒飲んでいないのに。

 店員さんがカクテルを持ってきてくれた。ライムが入った炭酸のカクテル。うまい。最高の音楽に最高のカクテルなんて、贅沢だな――。

 次の曲はジャズだ。聞いたことある気がするけど、曲名はわからない。

 その次は、《星に願いを》だ。なんとなく、里見さんらしい選曲。

 お酒がなくなったので、カウンターに頼みに行った。

 バーテンダーの男性に声をかけられた。

「君、優香ちゃんの仕事仲間なんだって? 俺は、従兄弟のタク」

「よろしくです」

 今度は、ショパンの《ノクターン》が流れ始めた。

「僕は、昨日まで、里見さんがピアニストと知りませんでした」

 と言いながら、僕は頭を掻いた。

「彼女小さい頃からやってるからねえ、一時期プロ目指してたみたい」

 そう言って、タクさんが、カクテルを僕の前に置いた。

「うまいわけだ……」

 僕は納得した。カウンターの席から彼女を眺めた。

 凛として美しい。僕は酔いしれた。どっちに……?

 そして、彼女の出番が終わった。僕はたくさん拍手を贈った。


 彼女が着替えて戻ってきた。

「お疲れ様」

「ありがとう」

 彼女は照れ笑いした。

 僕は素直に言った。

「とってもかっこよかったよ」

「かっこ……!?」

「ま、まあ、ありがと」

 どうしても素直に言えなかった。美しかったと。

「また、誘ってよ」

 僕が頼むと、彼女は、

「仕方ないなあ」

 と偉そうに言って、二人で笑った。


 彼女の笑顔には、僕の姿を感じなかった。

 (……やっぱり今度は違うんだ)

 そう思うと、胸がすっと楽になった。

 けれど同時に、どこか引っかかるものも残った。

 言葉にできないその違和感を、僕は無理やり押し込めた。

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