三階の呪縛

をはち

三階の呪縛

服部明美、35歳、独身のOL。


彼女は防犯意識の高さを自負していた。


東京の喧騒から少し離れた、閑静な住宅街にあるオートロック付きマンションの三階に住む。


彼女にとって三階は理想の階数だった。


二階では侵入の危険が潜み、高層階では火災時の脱出が難しい。


だが、三階なら違う。


「飛び降りても、怪我で済む。命までは奪われない」


そう断言する彼女の持論は、会社でもたびたび話題に上った。


「高い階に住むなんて、火事のリスクを考えていない証拠。低階層で押し入られるのも論外。三階が最適なのよ。すべて計算済み」と、


明美は同僚に力説していた。


彼女のこれまでの住まいも、常に三階。


偶然ではない。


彼女の信念だった。


ある晩、いつものようにベランダの窓から外を眺めると、奇妙なものが目に入った。


マンションの外壁に、一本の細長い棒が突き立っている。


外壁塗装の話は聞いていないが、工事用の足場か何かだろうと、明美は気にも留めなかった。


だが、数日が過ぎてもその棒はそこにあり続けた。


管理会社からの連絡もない。


次第に、彼女の視線はその棒に引き寄せられるようになった。


昼間はただの鉄の棒に見えるが、夜になると、暗闇に溶け込むその姿が、どこか不気味だった。


ある夜、疲れ果てて帰宅した明美は、いつもの癖でベランダを覗いた。


月明かりに照らされた棒に、何か異様なものが映った。


目を凝らすと、それは人間だった。


棒をよじ登り、こちらをじっと見つめる影。


男だ。


暗闇の中で、目だけが異様に光っているように見えた。


明美の心臓が凍りついた。


恐怖に体が硬直し、彼女は反射的に窓から飛びのいた。


その瞬間、玄関のインターホンが鳴り響いた。


けたたましい音が、静寂を切り裂く。


「管理人です。開けてください」


低く落ち着いた声。


震える手でモニターを確認すると、確かに管理人らしい男が立っていた。


明美はドア越しに、ベランダの不審者のことを訴えた。


「他の住人からも連絡がありました。見回り中です。確認させてください」。


その言葉に安堵し、彼女はチェーンロックを外し、ドアを開けた。


男は部屋に入るなり、ベランダの窓へと向かった。


素早く窓を閉め、カーテンを引く。


その動作はあまりにも手慣れていた。


明美の背筋に冷たいものが走る。


男が振り返った瞬間、彼女は気づいた。


管理人の制服など着ていない。目の前に立つのは、見ず知らずの男だった。


瘦せこけた顔に、鋭い目。


口元に浮かぶ薄笑いが、彼女の心を締め付けた。


男は玄関のドアにチェーンロックをかけ、ゆっくりと明美に近づいた。


「ほら、逃げてみろよ。三階なら大丈夫なんだろ? お前、ずっとそう言ってたよな」


その声は、まるで彼女の過去の言葉を嘲笑うようだった。


「何年もこの部屋に居座りやがって。お前の言う通りだよ。三階は最高だ。


警察に踏み込まれても、飛び降りりゃ逃げられる。隠し場所にも最適だ」


男の言葉に、明美の頭は混乱した。


この男は誰だ? なぜ私のことを知っている?


男は部屋の奥、押し入れへと向かった。


慣れた手つきでベニヤ板を外すと、そこには隠しスペースが現れた。


中には、キラキラと光る貴金属の山。


男はニヤリと笑った。


「刑務所にいる間に、金の値段が跳ね上がった。こいつを取りに来ただけだ。


お前がここに住んでくれてたおかげで、誰も気づかなかった。感謝するぜ」


明美の足は震え、声すら出なかった。


男が一歩近づく。


「でもな、絶対安全なんてねえんだよ。防犯意識が高い? 笑わせんな。俺が警察に捕まったのも、三階だったからだ」


その言葉が、彼女の心に突き刺さった。


男の目が、暗闇の中で異様に輝いた。


まるで獲物を前にした獣のようだった。


次の瞬間、部屋の電気が消えた。


暗闇の中、男の笑い声だけが響く。


「三階、いい場所だよな。逃げても、隠れても、結局はこうなる」


明美の悲鳴は、誰にも届かなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

三階の呪縛 をはち @kaginoo8

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ