第7話「冷たい祝杯」

すすきのの裏通り。


ネオンの光が濡れたアスファルトに滲み、夜の冷気が肌を刺す。 只野は、北沢支店長に連れられ、居酒屋「炉端 たかはし」の暖簾をくぐった。

店内は、木の温もりが残る古風な造り。


個室の障子を開けると、すでに四人の社員が席に着いていた。 阿部、今井、藤原、そして新人事務員の清水。 全員、只野にとっては初対面だった。


「只野くん、こっちこっち」


阿部が手を振る。 只野が軽く頭を下げて席に向かうと、清水がふわりと微笑んだ。


「お疲れさまです、只野課長。寒かったでしょう?」


彼女は、さりげなく只野の前に温かいおしぼりを差し出した。 その仕草は、どこか母性的で、張り詰めた空気の中に一瞬だけ柔らかさをもたらした。


「ありがとうございます」


只野は、少し驚いたように礼を言った。

乾杯の音頭は、もちろん北沢支店長。


「只野くんの札幌着任を祝して、乾杯!」


グラスが鳴り合う。だが、空気はどこか重かった。 誰もが笑顔を作っていたが、目は笑っていなかった。

阿部が静かに話しかける。


「只野くん、昼間の北辰自動車販売社長室での話、支店長から聞いたよ。よくあそこまで踏み込んだね」


只野が言葉を探していると、阿部が少し視線を落としながら呟いた。


「……北辰の社長、昔は俺の担当だったんだ。現場の効率を上げるために、支店側の運用を見直そうって提案したら、激怒された。“外部の人間が口出すな”ってね。結局、俺は出入り禁止になった。北沢さんにも迷惑かけた。……それ以来、俺はあそこに行ってない」


今井が、阿部の言葉に乗るように言った。


「そのあと、近藤課長が担当になった。覚えてるか?イエスマンだった人」


藤原が、そっと口を開いた。


「……支店長に逆らわず、何でも“はい”って言ってた人ですよね。現場の声は一切拾わず、支店長の顔色ばかり見てた」


阿部が、苦い顔で頷いた。


「結局、北辰との関係は悪化する一方で、数字も落ちて、近藤は本社に飛ばされた。いや、実質左遷だな」


今井が低く呟いた。


「支店長の“盾”になって潰されたんだよ。……これが、札幌支店の現実だよ」


只野が目を向けると、今井はグラスを傾けながら続けた。


「北沢さんは、酒が入ると変わる。今夜も、そろそろ始まるぞ」


その言葉通り、北沢はすでに三杯目の焼酎を空け、顔が赤くなっていた。


「おい、只野。お前、昼間のあれ、勝手なことすんなよ。俺の立場、考えたことあるか?」


只野は、静かに答えた。


「関係を深めるために、必要な提案だと思いました」


「必要?お前が必要だと思ったら、勝手にやっていいのか?俺の許可は?」


場が凍りつく。藤原が、そっと只野に耳打ちした。


「……いつもこうなんです。酒が入ると、誰にでも怒鳴る。僕も何度か……」


阿部が間に入る。 「支店長、今日は歓迎会ですから。少し落ち着いて」


「阿部、お前もか?俺のやり方に文句あるのか?この支店、誰が回してると思ってる!」


只野は、グラスを置いた。

「支店長、僕は敵ではありません。札幌支店のために動いているだけです」


「だったら俺の指示に従え。余計なことはするな」


北沢支店長は、五杯目の焼酎を空けたあと、ふらりと席を立った。


「ちょっとトイレ……」 そう言い残して、足元をふらつかせながら個室を出ていった。

その瞬間、空気が変わった。 誰もが息を吐き、沈黙がほどけた。

藤原が、意を決して口を開いた。


「只野さん、僕たち、変えたいんです。この空気。支店長の顔色を伺って仕事するの、もう限界なんです」


只野は、藤原の目を見た。そこには、怯えと、わずかな希望が混ざっていた。


「僕に、何ができますか?」


阿部が、ゆっくりと答えた。


「まずは、支店長に“見せる”ことだ。現場がどう動いているか、数字だけじゃない、空気を。あんたなら、できるかもしれない」


そのとき、清水が静かに只野の隣に座り直した。 彼女は、声を潜めて言った。


「課長……無理しないでくださいね。私たち、ずっと我慢してきました。でも、課長が来てくれて、少しだけ、希望が見えた気がするんです」


只野は、彼女の言葉に一瞬言葉を失った。 清水の目は、藤原と同じように、怯えと希望が混ざっていた。 だが、彼女の声には、どこか芯の強さがあった。


「……ありがとうございます。僕も、諦めるつもりはありません」


清水は、そっと笑った。 「じゃあ、私も諦めません。課長が頑張るなら、私も支えます」


障子の向こうで、足音が聞こえた。 北沢支店長が戻ってくる気配だった。 空気が、再び張り詰める。

只野は、グラスを持ち直しながら、静かに心を決めた。 この支店の空気を、変える。 そのために、まずは“見せる”ことから始めよう。


すすきのの夜道。ネオンが濡れた路面に滲み、風は冷たく頬を刺す。 只野は、居酒屋「炉端 たかはし」の個室を後にし、ゆっくりと歩いていた。

酔いは回っていない。むしろ、頭は冴えていた。


心の奥に沈んだ重たいもの――それは、今夜の支店長の言動と、部下たちの表情だった。

阿部の静かな諦め。今井の警戒。藤原の切実な訴え。そして、清水の優しい励まし。

そのすべてが、只野の胸に残っていた。

ふと、堀内部長との会話を思い出した。


「札幌支店には、見えない“空気の壁”がある。数字では測れない。だが、確実に人を押し潰している。只野くん、君なら見えるはずだ」


只野は、静かに呟いた。 「……見えました。堀内部長。壁の正体は、支店長です」


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