第8話「味方か敵か」
社宅の玄関を静かに開けた。靴を脱ぐ音すら重く、体の芯まで疲れが染み込んでいた。歓迎会の喧騒がまだ耳に残っている。
リビングの机の上には、家族写真が置かれていた。
妻・玲子と、小学一年生の双子の娘たちが並んで笑っている。
玲子の穏やかな微笑み、娘たちの無邪気な笑顔——その写真だけが、只野の心を癒してくれる。
「可愛くてしょうがないな…」
とつぶやきながら、只野は布団に入った。
翌朝、目覚めた只野は、いつものように手帳を開いた。だが、そこに記されていた予定に目を疑う。
「北辰自動車社長との商談」
そんな予定は入れていない。だが、字は自分のものだった。
重い足取りで北辰自動車へ向かう。
社長室の扉を開けると、そこには重厚な革張りの椅子に座る社長がいた。
鋭い目つき、無駄のない動き。只野は一礼し、席に着く。
「炉端 たかはし、よく利用していただいてますね」
社長の口元に笑みが浮かぶ。只野は驚いた。歓迎会の居酒屋が、北辰自動車販売の経営だったとは。
「うちの会社を最優先にしてもらわないと困るよ。北沢支店長もそうしてる」
社長の言葉は、圧力そのものだった。事務員の真理子が無表情でお茶を差し出す。彼女の目は、何かを訴えているようだった。
「午前中だけど、炉端 たかはしで一杯やろうか」
社長の提案に、只野は戸惑いながらも席を外し、北沢支店長に連絡を取る。
「喜んで行きます」と返事が来た。
社長室を出る直前、社長が席を外した隙に、真理子がそっとメモを渡してきた。
「北沢支店長に連絡して参加しないようにしたほうがいいですよ」
だが、もう連絡してしまった後だった。
炉端 たかはしに到着した北沢支店長は、社長のご機嫌を取るように振る舞う。社長が到着すると、わざと北沢をバカにする話を始める。
「支店長、あの時のミス、まだ覚えてるか?」
酔った北沢支店長は感情的になり、ついにビールを社長にかけてしまう。
社長は激怒し、席を立って帰ってしまう。只野は必死に謝るが、社長は冷たく言い放つ。
「君の責任だ。会社としても考えさせてもらう」
夜の社宅。
只野はスーツのまま、ソファに沈み込んだ。体は疲れているのに、頭は妙に冴えていた。歓迎会の喧騒、社長の圧力、北沢支店長のビール事件——すべてが脳内でぐるぐると回っている。
ふと、無意識にテレビのリモコンに手を伸ばす。画面が点き、刑事ドラマの終盤が映し出された。
画面の中では、詐欺師が自作自演で事件を起こし、第三者に罪をなすりつけようとしていた。だが、刑事の執念で真相が暴かれ、詐欺師は逮捕される。
「自分で仕掛けておいて、他人に罪をかぶせるなんて…」
只野はつぶやいた。だがその瞬間、頭の奥で何かが弾けた。
——あれは芝居だったのか?
居酒屋での一件。社長の挑発、北沢支店長の過剰な反応、そしてビールをかけるという決定的な行動。あまりにも出来すぎていた。まるで台本があるかのように。
そして、真理子から渡されたメモ。
「北沢支店長に連絡して参加しないようにしたほうがいいですよ」
——彼女は何かを知っていた。いや、確実に知っていた。
只野はテレビを消し、静かに布団に入った。コピオの声が耳元で囁く。
「気づいたね。あのドラマ、君のために流したんだ。ヒントだよ。社長と支店長は、ぐるかもしれない」
只野は目を閉じながら、心の中で問いかけた。
——味方か、敵か。どちらなのか、見極めなければならない。
翌朝。社宅の駐車場で北沢支店長とすれ違った。彼はいつも通りの笑顔で
「おはようございます」
と挨拶してきた。まるで昨夜の騒動などなかったかのように。
只野はその笑顔に違和感を覚えた。あれほど感情的になった人間が、一晩で何事もなかったような顔をできるだろうか?
その時、本社から支店に連絡が入る、電話をかわると、それは「本社 吉田営業部長」だった。
「只野君、昨日の件で連絡があった。北辰自動車の社長が激怒していてね。君が場を乱したと、かなり強く言ってきてる」
只野は言葉を失った。
「私が…ですか?支店長がビールをかけたのに?」
「社長は、君が支店長を煽ったと言ってる。責任は君にあると」
電話を切った後、只野はすぐに北沢支店長のもとへ向かった。彼は社用車の前でコーヒーを飲んでいた。
「昨日のことですが、営業部長から連絡がありました。社長が私に怒っていると」
北沢支店長は眉をひそめた。
「え?そうなんですか?いやあ…酔ってたから、あまり覚えてなくて…」
「支店長がビールをかけたのに、私が怒らせたことになっているんです。どういうことですか?」
「いやあ…本当に、記憶が曖昧で…すみません」
その態度は、明らかにごまかしている。只野は確信した。北沢支店長は、社長と共謀していた。あの居酒屋での一件は、只野に責任を押し付けるための演出だったのだ。
コピオの声が再び響く。
「君は今、境界線の上に立っている。味方か敵か。真理子が鍵を握っている。彼女に接触すれば、真実が見える」
只野は深く息を吸い込んだ。このままでは終われない。自分の名誉、そして会社の未来のために、動かなければならない。
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