第6話「札幌赴任、波乱の空」

札幌支店の空は、東京とは違う冷たい青をしていた。


只野はスーツの襟を正しながら、支店長の北沢の後を歩いていた。

向かう先は、札幌支店が長年付き合ってきた協力会社㈱北辰自動車販売の社長室。


社長・大河原剛は、業界でも知られた“こわもて”で、気に入らなければ契約を切ることも辞さない人物だった。


支店長の額には、すでに薄く汗が滲んでいた。

只野はその背中を見ながら、心の中で静かに息を整えた。

重厚な木製の扉が開くと、部屋の奥に座る男が目に入った。


大河原剛


がっしりとした体格に、鋭い眼光。机の上には煙草の灰皿と、分厚い契約書が無造作に置かれている。

その手前のデスクには、若い女性が一人。髪を後ろでまとめ、淡いベージュのニットに黒のスラックス。落ち着いた雰囲気を纏いながらも、どこか緊張した面持ちでパソコンに向かっている。


「……おい、真理子。お茶出してやれよ。客だぞ」


大河原が横柄に言い放つ。女性は一瞬だけ眉を動かしたが、すぐに立ち上がり、丁寧に頭を下げた。


「かしこまりました」


彼女の名は、大河原真理子。社長の娘であり、事務所の経理と総務を一手に担う存在だった。


只野は、彼女の所作に目を留めながらも、すぐに社長の前に立ち、一礼した。


「……で、あんたが長野から来たっていう、只野ってやつか」


大河原の声は低く、威圧感に満ちていた。只野は一礼し、静かに言葉を返す。


「はい。只野です。札幌支店で、御社との関係をさらに深めたいと思っています」


その瞬間、只野の意識の奥に、静かな“声”が響いた。

――納期遅延率、昨年度は12%。他社平均より8%高い。そこを突いて、改善提案に繋げられる。


それは、誰にも聞こえない声。

只野自身にも“誰”の声かは分からない。

ただ、赴任してからずっと、彼の思考の奥底に寄り添うように存在していた“もう一人の自分”のような存在だった。

只野は、資料に目を落としながら言葉を続ける。


「御社の昨年度の納期実績を拝見しました。12%の遅延率は、業界平均よりも高い傾向です。我々は、そこに対して具体的な改善策を提案できます」


支店長が驚いたように只野を見た。そんな分析は、社内でも共有されていなかったはずだ。


大河原の目が細くなる。


「……なるほど。調べてきたか。口だけじゃないようだな」


只野は、社長の反応を見ながら、心の中で静かに問いかける。


――次は何を示すべきだろう。


すると、また“声”が返ってくる。


――御社の他メーカーとの取引履歴。価格競争ではなく、納品精度と柔軟対応を強みにできる。


只野は頷き、次の資料を提示した。


「我々は、価格だけでなく、納品精度と柔軟な対応力を強みにしています。御社の現場に合わせた提案が可能です」


大河原はしばらく沈黙した後、椅子にもたれた。


「……面白い。支店長よりよっぽど話が早いな。いいだろう。話くらいは聞いてやる」


只野は深く一礼した。支店長は安堵の息を漏らす。


その背後で、誰にも見えない“存在”が、静かに画面を切り替えていた。

コピオ――只野の思考の奥に寄り添い、言葉にならない直感を形にする、

見えない相棒。

彼は、誰にも見えないまま、只野の挑戦を支えていた。


―社長室の空気が、わずかに緩んだ。


只野は、大河原の反応を見ながら、次の資料を静かに差し出した。

そこには、北辰自動車販売が過去3年間に取引した主要メーカーとの納品履歴と、対応トラブルの記録がまとめられていた。


「御社が過去に取引されたA社、B社、C社への納品履歴を拝見しました。特にA社との取引では、納品遅延が3度続き、現場対応に混乱が生じたと記録されています」


大河原の目が鋭くなる。


「……それは、うちの社内資料だぞ。どこで見た?」


只野は、冷静に答えた。


「御社の現場担当者と、札幌支店の整備部門との共有記録です。現場の声を拾うことが、提案の第一歩だと考えています」


大河原は、しばらく沈黙した後、煙草を灰皿に押し付けた。


「……で、うちに何を提案するつもりだ?」


只野は、資料の次のページを開いた。


「我々は、納品精度の向上に加え、現場対応の即応体制を整えています。具体的には、御社の整備スケジュールに合わせた“納品前点検”の導入と、トラブル時の“即時代替車両提供”を提案します」


大河原の眉が動いた。


「代替車両?それは、うちの負担じゃないのか?」


「いいえ。初期契約の中に“緊急対応枠”を設けることで、コストを抑えつつ、御社の業務に支障を出さない仕組みを設計できます。札幌支店では、すでに他の協力会社で試験導入を始めています」


支店長の北沢が驚いたように只野を見た。そんな話は、彼にも初耳だった。


「只野くん、それは……」


只野は、北沢の言葉を遮ることなく、静かに続けた。


「御社の現場は、スピードと信頼が命です。価格競争ではなく、“止まらない仕組み”を提供することが、我々の責任だと思っています」


大河原は、椅子にもたれたまま、じっと只野を見つめた。


「……お前、ただの営業じゃないな。現場を見てる。数字だけじゃなく、空気を読んでる」


只野は、少しだけ微笑んだ。


「営業は、空気で動く仕事です。御社の空気を、少しでも軽くできるなら、それが僕の役割です」


大河原は、しばらく沈黙した後、資料を閉じた。


「……いいだろう。提案書、正式に出してくれ。検討してやる」

只野は深く一礼した。


その瞬間、社長室の空気が変わった。重たかった空気が、少しだけ動き出したような感覚。

その背後で、真理子が静かに資料を整理していた。彼女の目が、ほんのわずかに只野を追っていた。

そして、北沢が立ち上がり、満面の笑みで言った。


「よし、只野くん。今夜は歓迎会だ。うちの連中と、馴染みの店で盛り上がろう。もちろん、社長もよく使う店だ」


大河原は、ニヤリと笑った。


「俺の名前出せば、何でも通る店だ。好きにやれ」


只野は、その言葉に微かに違和感を覚えながらも、静かに頷いた。

――札幌支店の空は、冷たい青をしていた。

その青の奥に、まだ誰も知らない波乱の幕が、静かに揺れて

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