第26話 信頼という名の罠
私の言葉が、静寂の中にゆっくりと溶けていく。
それはただの提案ではなかった。それは怜の心の最も無防備な部分を、狙い澄まして放たれた毒の矢だった。親友としての優しさ。科学者としての論理。その二つの抗いがたい魅力を、巧みに編み込んだ甘美な罠。
怜は何も言わなかった。
ただその黒曜石のような瞳で、私をじっと見つめている。その瞳はもはや、親友に向けるそれではない。それは未知の現象を分析する、科学者の目だった。潜在的な脅威となりうるものを。彼女の天才的な頭脳が今、猛烈な速度で回転しているのが手に取るようにわかった。私の言葉の裏にある意図。私の表情の裏にある感情。そのすべてをスキャンし、解析し、リスクを計算しているのだ。
部屋の空気が張り詰めていた。エアコンの低いモーター音だけが、まるでこの異常な対峙のBGMであるかのように、単調なリズムを刻み続けている。私の心臓は高鳴っていた。だがそれはもはや、私の心臓の音ではなかった。それは獲物が罠にかかるかかからないか、その最後の瞬間を息を殺して見守る、狩人の心臓の音だった。
一秒が一分のように長い。
やがて怜のその分析的な視線に、ほんの僅かな揺らぎが生じた。それは躊躇だった。マスクのように完璧だった彼女のポーカーフェイスに、初めて生じた亀裂。その瞳の奥で何かがせめぎ合っている。AVのあの屈辱的な記憶。身体を支配される恐怖。そのトラウマが彼女の足を、必死に引き留めようとしている。
だがそれと同時に。
彼女の魂の根幹を成す、もう一つの巨大な力が彼女を前へと押し出そうとしていた。知りたいという渇望。解き明かしたいという本能。未知の現象への、抑えがたい探究心。
私は、その天秤がどちらに傾くか、固唾をのんで見守った。そして最後の一押しをするために、静かにはっきりと、言葉を紡いだ。
「考えてみて怜。あなたの探求は科学的に見ても、方法論に根本的な欠陥があったのよ。被験者が自分自身で、観測者も兼ねるなんて客観的なデータとは言えないわ。主観が入り込む余地が、あまりにも大きすぎる」
怜の目が、見開かれる。私の言葉が彼女の論理の、まさにその中心を貫いたのだ。
「再現性の高いデータを取るためには、厳密なコントロールが必要よ。刺激を与える側とそれを受容し、反応を観測される側。その役割を完全に分離しなくちゃ。そして刺激を与える側は、被験者のことを誰よりも深く理解している人間であるべきだわ。そうでしょう?」
私の言葉は怜の科学者としてのプライドをくすぐった。そして同時に、親友としての信頼に訴えかけていた。
そしてその天秤を最終的に傾かせたのは、私という存在だった。
怜にとって唯一無二の親友である、水野月乃。彼女が絶対に裏切るはずのない、たった一人の人間。その長年積み重ねてきた信頼という名の重りが、怜の理性の天秤にどすんと載せられたのだ。
怜はゆっくりと、頷いた。
その小さな、小さな上下動。
それは私にとって、世界がひっくり返るほどの重みを持っていた。
「……わかった」
掠れた、しかし凛とした声だった。
「月乃が被験者である私を、客観的に観察するというその条件であるならば。……その提案を受け入れよう」
怜はそう言った。あくまで科学者として、より優れた実験環境を選択したのだと。自分自身に、そう言い聞かせるように。
その言葉を聞いた瞬間、私の心の奥の奥で、何かが歓喜の叫びを上げた。
計画通り。すべては、私の筋書き通りだ。
怜のその絶対的な信頼。それを私は今、まさに裏切ろうとしている。その神をも恐れぬ背徳的な行為に、私の全身がぞくぞくと打ち震えた。罪_悪感?そんなものはもうどこにもない。あるのはただ怜を完全に手中に収めたという、悪魔的な満足感だけだった。
怜が頷いたその瞬間から。この部屋の空気は確かに変わった。
それはもはや親友同士が過ごす、穏やかな空間ではない。
ここはこれから始まる、倒錯的な実験の舞台。
支配する者とされる者。
狩人と獲物。
その新たな関係性が今、この瞬間に確かに産声を上げたのだ。
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