第25話 第二の実験


 探り合いの時間は終わった。怜のあのほんの僅かな身体の強張り。その確かな手応えを、私は狩人としての揺るぎない確信に変えていた。表面上の会話は当たり障りのない、大学生活の報告に終始していた。だが私の意識は常に、その一点に集中していた。いつ切り出すべきか。どのタイミングで、本題へと入るべきか。


 怜がテーブルの上に積んでおいた、専門書の一冊を手に取った。私がこの日のために購入した、最新の認知科学の論文集だ。怜の黒曜石のような瞳が、その難解な目次を滑るように追っていく。その真剣な横顔。獲物が罠に興味を示した、その瞬間を私は見逃さなかった。今だ。


「その本は面白いでしょう。特に身体性認知に関する、新しい仮説のページがあって」


 私はできるだけ自然な口調を装い、そう切り出した。


「感情や思考といった高次の精神活動はね、実は身体的な感覚情報に強く依存しているという話なの。昔の心身二元論とは、全く逆のアプローチよ」


 怜は私の言葉に、顔を上げた。その瞳にかすかな、興味の色が宿る。

 「ああエンボディメントの概念だな。私も今、注目している分野だ。特に内受容感覚と自己意識の形成には、その相関関係に未解明な部分が多い」


 食いついた。私の心臓が静かに、そして確かに高鳴った。だが私の声はあくまで落ち着いていた。ポーカーフェイス。それはこの心理戦における、絶対のルールだ。


 「内受容感覚か。面白いわよね。自分の心臓の鼓動とか、呼吸のリズムとか、そういう身体の内側の情報が、自分の感情を作り出しているなんて。じゃあ、その感覚を意図的に操作できたら、感情もコントロールできるってことなのかな」

 私はさらに一歩、踏み込んでみる。怜の知的好奇心という、唯一の弱点を的確に突くために。


 怜は少し考える素振りを見せた後、私の問いに答えた。

 「理論上は可能だろう。だが、そのためには、外部からの刺激に対して、身体がどのように反応し、それがどのような主観的体験、つまりクオリアを生成するのか、そのメカニズムを正確に把握する必要がある。極めて、再現性の高い、客観的なデータが必要不可欠だ」


 怜の言葉を聞きながら、私の頭の中は歓喜に打ち震えていた。完璧だ。怜は自ら、私に、最高の口実を与えてくれている。私はゆっくりと、しかし確実に会話の舵を目的の方向へと切っていく。認知科学という知的なオブラートを、慎重に使いながら。その核心部分にある、猥雑なテーマへと。


 「身体の反応、といえばさ……」


 私はそこで一度言葉を切った。そしてコーヒーカップを、一口すする。喉がカラカラに渇いていた。


 「……あの後、怜は自分で試してみたりした?」


 その言葉を口にした瞬間、部屋の空気が凍り付いたかのようだった。私の問いが何を意味しているのか、怜が理解できないはずはなかった。高校最後のあの嵐のような一日の記憶。AV。オーガズム。そして私の、惨めな失敗。


 怜は何も答えなかった。ただその黒い瞳で、私をじっと見つめ返してくる。その瞳の奥の色を、私は読み取ることができなかった。だがその沈黙そのものが、雄弁な答えだった。


 やがて怜はふいと、視線を逸らした。そしてほとんど聞こえないくらいの、小さな声でぽつりと呟いた。


「……データが不足していて、再現性がない」


 その言葉を聞いた瞬間、私の腹の底で勝利を確信した獰猛な獣が、咆哮を上げた。やはり怜は試していたのだ。そしてまたしても、失敗したのだ。そしてその失敗の理由を、彼女はあくまで「データの不足」と「再現性の欠如」という科学的な言葉で定義している。彼女はまだあの日の延長線上にいる。


 これ以上ない、好機だった。

 私は立ち上がると、怜の隣にゆっくりと座った。そして以前の臆病だった私とは全く違う、絶対的な自信を持って彼女の耳元で囁いた。


「―――私が、手伝ってあげる」


 怜の肩が、びく、と震えた。


「完璧なデータを、取ろうよ。怜」

 私は続ける。怜の、その理路整然とした、科学者の脳に、直接語りかけるように。

「怜の探求は、科学的に見ても、方法論に、根本的な欠陥があったのよ。被験者が、自分自身で、観測者も兼ねるなんて、それは、客観的なデータとは言えない。主観が、入り込む余地が、あまりにも、大きすぎるわ」

 怜の目が、見開かれる。私の言葉が、彼女の、論理の、まさに、その中心を、貫いたのだ。


「再現性の高いデータを取るためには、厳密な、コントロールが必要よ。刺激を与える側と、それを受容し、反応を観測される側。その役割を、完全に、分離しなくちゃ。そして、刺激を与える側は、被験者のことを、誰よりも、深く、理解している人間であるべきだわ。そうでしょう?」


 「手伝う」という親友としての優しさ。「データ」という怜が決して抗うことのできない、科学的な大義名分。私は彼女を完全に追い詰めていた。エアコンの低いモーター音だけが支配する、部屋の静寂。その中で私の悪魔の提案が、ゆっくりと響き渡っていた。

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