第24話 再会、そして探り合い


 夏が、来た。茹だるような暑さがアスファルトを揺らめかせ、空には巨大な入道雲がそびえ立つ。私の心の中のどす黒い計画とは裏腹に、世界は残酷なほど生命力に満ち溢れていた。そしてついに運命の日がやってきた。怜からの『今、駅に着いた』という、あまりにも簡潔なメッセージ。私の長い、長い狩りの始まりを告げる、静かな号砲だった。


 それから十分後、部屋の静寂を破るように、インターホンの乾いた電子音が鳴り響いた。来た。その音は、まるでスターターピストルのように、私の全身の神経を瞬時に覚醒させた。心臓が期待と興奮で、大きく一度だけ、しかし、深く、強く、跳ねた。私は逸る気持ちを必死で抑えつけ、できるだけ普段通りの緩慢な動作を意識した。一歩、また一歩と、玄関へと向かう。床板を踏む自分の足音が、やけに大きく聞こえた。ドアノブに手をかける。ひんやりとした金属の感触。その冷たさが、私の、燃えるように熱い手のひらには、むしろ心地よかった。


「やあ月乃。久しぶりだな」


 そこに立っていたのは、数ヶ月ぶりに見る、如月怜だった。以前と何も変わらないように見えた。艶のある黒髪のボブを、夏の生ぬるい風が優しく揺らしている。高校時代に着ていた制服ではなく、白いシンプルなブラウスと、黒いパンツという、大人びた服装。その精悍で中性的な顔立ちは、相変わらず感情というものを一切映し出してはいない。黒曜石のような瞳が、私を静かに、そして深く、捉えた。


「怜こそ久しぶり。よく来てくれたね、さあ上がって」


 私は完璧な笑顔を、その顔に貼り付けていた。声が上ずっていないか、指先が震えていないか。その一つ一つを、慎重に、確認する。私は怜を部屋へと招き入れた。私のこの、完璧に準備された実験室へと。


 怜は私の部屋を見回し、少しだけ意外そうな顔をした。

「少し片付いたな。以前はもっと、物で溢れていたように記憶しているが」

「まあ、大学生にもなったしね」

 私は当たり障りのない嘘をついた。本当は違う。この部屋にあるすべての物は、怜をここに誘い込むためだけに配置したのだ。すべては計算され尽くされている。あなたの知的好奇心を刺激するであろう、テーブルの上の専門書の数々。あなたの警戒心を解くための、柔らかな間接照明。すべてはあなたを狩るための、精巧に作られた罠。


 私は怜にコーヒーを淹れて、差し出した。怜がそのマグカップを受け取る。その瞬間、私は計画通りごく自然な動きを装った。そして彼女の指先に、自分の指をそっと、意図的に触れさせた。


 怜の肩がほんの僅かに、微かに強張った。それは注意深く観察していなければ、決して気づくことのないレベルの、電気的な反応だった。


 見つけた。


 私の腹の底で、捕食者の冷たい歓喜が渦を巻いた。変わらないように見えて、やはり変わったのだ。あの経験は怜の無意識の領域に、確かに消せない傷跡を残している。見知らぬ誰かに不意に身体を触れられることへの、防御的な警戒心。その小さな綻びこそが、私がこれからこじ開けていくべき突破口だった。


 私たちはローテーブルを挟んで、向き合った。表面上は穏やかな、久しぶりに再会した親友同士の談笑だ。しかしその水面下では、激しい、音のない心理戦が始まっていた。


 私は怜のすべてを観察していた。コーヒーを飲む薄い唇の、その微かな湿り具合。足を組み替える、無駄のない筋肉の動き。瞬きの回数とその間隔。そのすべてを記憶し、分析する。そして常に、私の頭の中では、二人の怜が比較されていた。目の前にいる冷静沈着な如月怜と、私の脳裏に焼き付いて離れないあのビデオの中の彼女とを。涙と涎に濡れて、理性も何もかも失って絶叫していた、あの如月怜とを。


 この静かで理知的な少女が、あの獣のように喘いでいた女と同一人物なのだ。そのあまりにも倒錯した事実に、私の身体の奥がうずくように熱くなる。この秘密を知っているのは、世界で私だけなのだという、歪んだ優越感が私を満たした。


 怜の変わらないシャンプーの香りが、ふわりと鼻腔をくすぐった。その懐かしいはずの香りが、今の私には獲物の匂いにしか感じられなかった。久しぶりに聞く怜の抑揚のない声。その一つ一つの言葉の裏に、私は彼女が隠しているであろう心の傷を、その輪郭を探していた。


 探り合いはまだ始まったばかりだ。私は焦らない。時間はまだ、たっぷりあるのだから。私はゆっくりと、そして確実に、この怜という名の美しい獲物を、私の望む場所へと追い詰めていく。

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