第22話 欲望の自覚


 夜が、明けた。東の空が、古い傷口のように鈍く痛々しい灰色の光に染まっていく。私はいつの間にか、床に座り込み冷たい壁にその身を預けていた。目の前には今はもう、ただの黒いプラスチックの塊と化したノートパソコンが沈黙している。その光を失った画面は、まるで私の魂の空っぽになった深淵を覗き込む、冥府の鏡のように思えた。


 身体はまだ、燃え尽きた炭のように熱く、そして脆い。指一本動かすことさえ億劫だった。だが私の頭の中は、あの嵐のような夜が嘘だったかのように、驚くほど静かで、そして冷徹に冴え渡っていた。絶頂の暴力的なまでの奔流が、私の脳の中から今までのありとあらゆる言い訳を洗い流した。迷いや葛藤、そして生ぬるい罪悪感を、根こそぎ消し去ってしまったかのようだった。


 私は壁に手をつき、ゆっくりと立ち上がった。足が生まれたての小鹿のように、頼りなくふらつく。自分の部屋が、まるで自分の部屋ではないかのように、見慣れないよそよそしい空間に感じられた。ベッドの隅には、中学時代に怜がくれたクマのぬいぐるみがある。壁には好きだったバンドの色褪せたポスターが貼られている。それらすべてが、かつての平凡で臆病だった水野月乃という少女の、無価値な抜け殻に見えた。


 私はそのおぼつかない足取りで、洗面所の鏡の前に立った。そこに映っていたのは、私の知らない女だった。肌は長時間のモニターの光を浴び続けたせいで、陶器のように蒼白かった。唇は無意識に何度も噛み締めていたため、血が滲み熟れた果実のように赤く腫れ上がっている。そして何よりも、その瞳が違った。そこにはもう、かつてのような優しげな少女の面影はなかった。大きく見開かれた瞳の奥で、飢えた獣のような熱を帯びた暗い光が、鬼火のように燃えている。


 私は鏡の中の女と、じっと見つめ合った。そしてはっきりと、自分自身に言い聞かせるように自覚した。私は怜が壊れていく姿を見て、性的興奮を覚えるのだと。あの気高く美しい私の親友が、私の知らない快感によって理性もプライドも剥奪される。ただ喘ぐ肉の塊へと堕ちていくその光景が、私の身体の最も深い場所を歓喜させるのだと。


 そして、もう一つ。その神聖な破壊の儀式を、私以外の何者かが行うことが許せないのだと。あのAVの名も知らぬ男たち。レビューを書き込んだ顔も見えない消費者たち。彼らが怜に触れ、怜を語り、怜を消費した。その事実が私の腹の底を、どす黒い嫉妬の炎で今もなお焼き尽くしている。


 今まで私を苛んできた、自分自身の歪んだ性癖への戸惑いや罪悪感は、もうどこにもなかった。それらは昨夜の、あまりにも強烈なオーガズムの炎の中で、完全に焼き尽くされ灰と化してしまったのだ。残ったのはただ、純粋で揺るぎない一つの欲望だけだった。


「……私の、手で」


 掠れた声が、私の唇から漏れた。

「画面越しなんかじゃない。あの男たちなんかじゃない。私のこの手で、怜を壊したい」


 それはもはや、漠然とした願望ではなかった。それは私の残りの人生のすべてを捧げても、必ず成し遂げなければならない確固たる意志へと変わっていた。


 あの男たちは所詮、素人だった。彼らはただ暴力的な機械の力で、怜の身体の表面をこじ開けたに過ぎない。だが私は違う。私は怜のすべてを知っている。彼女の心の一番脆い場所を。彼女のプライドがどこにあるのかを。彼女の理性が何をよすがにしているのかを。私ならもっと上手くやれる。もっと深く、そしてもっと完全に。怜の魂の一番奥の聖域まで、この手で到達し粉々に砕いてやることができる。


 その確信が生まれた瞬間、私の身体の奥の奥から、地熱のようにじわりと熱い力が湧き上がってきた。全能感。そうだ、私は何でもできる。怜のことなら、私がすべてをコントロールできるのだ。


 私は机の上のノートパソコンを、ゆっくりと閉じた。パタン、という乾いた音が静かな部屋に響き渡る。それは一つの時代の終わりを告げる、断頭台の音のようだった。


 観察の時間は、終わった。

 真っ黒になった画面に、再びあの見知らぬ女の顔が映り込んでいる。紅潮し、獲物をその射程に完全に捉えた、捕食者の顔が。


 これから始まるのは、狩りの時間だ。

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