第21話 観察者の終わり


 どれくらいの時間、そうしていたのだろうか。

 私の身体は、激しい嵐が過ぎ去った後の、根こそぎにされた倒木のように、硬い椅子の背もたれにぐったりと、そのすべてを預けていた。指一本、動かす気力もない。オーガズムの、甘く、そして、暴力的なまでの余韻が、まだ、身体の芯に、痺れるような熱となって、燻り続けている。画面は、すでに、エンドロールも終わり、メーカーの、品のないロゴを映し出したまま、静止していた。ヘッドホンの中は、とっくに無音だった。だが、私の耳の奥では、まだ、怜の、あの、魂を引き裂くような、断末魔の絶叫が、何度も、何度も、狂ったレコードのように、反響していた。


 私は、ゆっくりと、自分の身体から、ヘッドホンを外した。

 途端に、しん、と静まり返った、アパートの一室の、冷たい空気が、私の肌を、撫でた。窓の外は、もう、白み始めている。夜が、終わる。私の、長く、そして、あまりにも、濃密だった、夜が。東の空が、死体の唇のような、薄紫色に染まり始めている。その、夜明けの光景が、今は、ひどく、不吉なものに見えた。


 虚脱感。全身の、隅々の、細胞の、一つ一つから、生命力が、抜け落ちていくような、深い、深い、虚脱感。私は、机の上に、突っ伏した。プラスチックの、冷たい天板が、絶頂の熱で火照った私の頬に、心地よかった。数時間前、私が淹れたはずの、コーヒーの、冷え切って、酸化し、酸っぱくなった、その、苦い香りが、鼻をついた。その、あまりにも、日常的な匂いが、先程まで、私が体験していた、非日常的な狂宴との、あまりに巨大な断絶を、私に、容赦なく、突きつけてきた。


 怜は、壊れた。そして、私は、その光景を、見て、イッたのだ。

 その、どうしようもない事実が、じわじわと、麻痺していた私の思考に、冷たい水のように、染み込んできた。罪悪感? 後悔? そんな、まっとうな感情は、もはや、どこにも見当たらなかった。私の心を支配していたのは、ただ、ひたすらに、空っぽな、虚無感だけだった。


 私は、ゆっくりと、顔を上げた。そして、まるで、何かに、導かれるように、マウスを、再び、握った。指が、勝手に、動く。ブラウザの、『戻る』ボタンを、クリックする。動画の、詳細ページ。そして、私は、その、ページの下部にある、レビュー欄へと、視線を、落とした。そこには、無機質な文字列が、墓石のように、ずらりと、並んでいた。この、地獄の記録を、私以外の、誰かが、金で買い、そして、『消費』した、その、残骸が。


 私は、その、一つ一つの、言葉を、まるで、呪文でも読むかのように、ゆっくりと、目で、なぞっていった。


『★★★★☆ 新人JD千尋ちゃん、最高でした。最初は人形みたいでどうなるかと思ったけど、後半の壊れっぷりは、まさに本物。涙と絶叫に、興奮を禁じ得ない。次回作にも期待』


 その、軽薄な賛辞。壊れっぷり、という、無神経な言葉。次回作。この男は、怜の、あの魂の叫びを、ただの、エンターテインメントとして、消費したのだ。その事実に、私の、空っぽだったはずの、胸の奥で、何かが、ちり、と、焦げ付いた。


『★★★☆☆ 身体は細くて良い。ただ、もう少し、演技に、色気が欲しいかな。まあ、素人っぽさが、逆に、そそる層もいるんだろうけど』


 演技。この男は、怜の、あの、本物の絶叫を、演技だと言った。怜の、プライドも、理性も、すべてを、かなぐり捨てた、あの、剥き出しの姿を、三ツ星で、評価したのだ。ふつふつと、腹の底から、黒い、熱いものが、込み上げてくるのを感じた。


『★★★★★ ウーマナイザーで陥落するシーンは、歴史に残る名場面。あの、プライドの高そうな人形が、快楽の前に屈服する様は、金を払う価値、大いに有り』


 その、最後の、一文を、読んだ、瞬間だった。

 私の、虚無感に支配されていたはずの、心の中で、何かが、ぷつり、と、切れた。


 不快感。いや、違う。そんな、生ぬるい言葉ではない。これは、憎悪だ。そして、独占欲だ。


 お前たちに、怜の、何がわかる。

 お前たちは、ただ、画面の向こうで、人形が、壊れるのを、見ていただけだ。だが、私は、違う。私は、怜の、すべてを、知っている。彼女が、どんな思いで、そこにいたのかを、私だけが、理解している。あの、絶叫は。あの、涙は。あの、陥落の瞬間は。お前たちのような、消費者なんかのものじゃない。


 あれは、私の、ものだ。


 怜の、あの姿を、知っているのは、私だけで、いい。

 怜を、壊していいのも、私だけだ。


 その、狂った、しかし、あまりにも、明確な、所有欲が、私の、空っぽになったはずの、心の中に、どす黒い、確固たる、鋼鉄の柱となって、打ち立てられた。怜を、こんな目に遭わせた、画面の中の男たちへの、憎悪。そして、同じように、怜を、消費し、その、破壊を、愉しんでしまった、自分自身への、激しい、自己嫌悪。その、二つの、巨大な感情が、捻じれて、混ざり合って、私の中に、新たな、そして、恐ろしい、決意を、生み出していた。


 もう、観察者でいるのは、終わりだ。

 画面の、こちら側で、ただ、見ているのは、もう、ごめんだ。

 冷めたコーヒーの、苦い後味が、私の、口の中に、決意の味となって、広がっていた。

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