第18話 陥落の瞬間
混沌が、怜の身体を、そして、その精神を、完全に支配した。
それまでの、かろうじて規則性を持っていた刺激の波は、完全にその姿を消した。代わりに、怜の身体を襲ったのは、一切の予測を許さない、暴力的なまでの刺激の奔流だった。短く、鋭く、神経を焼き切るようなパルス。長く、深く、意識の根こそぎ吸い上げるような波動。不意に訪れる、心臓が凍り付くかのような静寂と、その直後に、すべてを破壊するかの如く叩きつけられる、激しい振動の嵐。怜の、あの驚異的なまでの分析能力と適応能力は、この、無秩序という名の、神の悪戯のような絶対的な暴力の前では、あまりにも、無力だった。
彼女の理性が、音を立てて、削り取られていくのが、画面越しにでもはっきりとわかった。それは、硬い岩が、荒れ狂う滝壺の水に、少しずつ、しかし、確実に、その形を失っていく様に似ていた。自分の身体に何が起きているのか、それを分析しようとする思考そのものが、次から次へと押し寄せる、感覚情報の津波によって、押し流されていく。観察者としての、最後のプライドを、強制的に剥奪されていく。彼女は、もはや、ただの、刺激に反応するだけの、か弱い肉の塊へと、堕とされようとしていた。
その、精神の崩壊は、彼女の身体に、明確な、そして、取り返しのつかない兆候として現れ始めた。
それまで、血が滲むほどに、固く、固く結ばれていた、薄い唇。その、最後の理性の砦が、ほんの、僅かに、決壊したのだ。は、ぅ、と、喘ぎとも、悲鳴ともつかない、熱い吐息が、その隙間から、か細く、しかし、はっきりと漏れ出る。それは、彼女が、もはや、自分自身の身体を、制御しきれていないことの、何よりの証拠だった。
私は、その瞬間を、見逃さなかった。ヘッドホンの中で、その、か細い吐息の音を聞いた瞬間、私の背筋を、ぞくり、とした、甘美で、残酷な戦慄が駆け抜けた。もっと。もっと、聞かせて。怜の、誰も知らない、本当の、声を。
機械の、無慈悲な攻撃は、その頂点へと、容赦なく向かっていた。ランダムな刺激の波は、より激しく、より速く、怜の身体の、たった一点に、その破壊のエネルギーを、悪意を持って集中させていく。怜の身体は、もはや、痙攣というレベルではなかった。拘束された手足が、革のベルトを引きちぎらんばかりに、激しく暴れ、しなやかな身体は、台座の上で、まるで陸に打ち上げられた魚のように、苦しげに、ただ、ひたすらに、跳ね続けている。
そして、ついに。
怜の身体が、それまでとは全く違う、巨大な、抗いがたい力によって、完全に、支配された。
彼女の背中が、まるで硬い弓のように、大きく、限界を超えて、美しく、しなった。拘束されていなければ、そのまま、天を突くほどの、凄まじい反りだった。その、極限まで引き絞られた身体の、すべての筋肉が、ぷつり、と、見えない糸が切れたかのように、一斉に、硬直する。
「……あ、ぅ……っく……ぁああッ!」
マスクの下の、その開かれた唇から、今まで、私が聞いたこともないような、くぐもった、獣のような呻き声が、はっきりと、ほとばしり出た。
人生で、初めての、オーガズム。
私は、画面に釘付けになり、息を止めていた。時間が、永遠に引き伸ばされたかのように感じる。怜の、その絶頂の表情を、網膜に焼き付ける。マスクに隠されていない、その白い喉が、ごくり、と大きく動き、きつく閉じられた瞼が、ぷるぷると、蝶の羽のように、小刻みに震えているのが見えた。
怜が、イッた。
その、絶対的な事実が、私の脳に叩きつけられた瞬間、私の全身から、ふっ、と、すべての力が抜け落ちていくのを感じた。張り詰めていた緊張の糸が、ぷつりと、音を立てて、切れた。そして、その、深い、深い、虚脱感と、全く同時に。私の心の、最も深い場所から、おぞましいまでの、強烈な征服感が、熱いマグマのように、湧き上がってきた。
怜が、堕ちた。
私の知らない、快感に。私の知らない、男たちの手によって。
その事実は、私の、狩人としての勝利感を、ほんの少しだけ、苦い嫉妬の色で染め上げた。だが、今は、それさえもが、この、倒錯的な興奮を、さらに掻き立てる、絶妙なスパイスでしかなかった。
絶頂の嵐が過ぎ去った後、怜の身体は、まるで糸の切れた操り人形のように、ぐったりと、台座の上へと崩れ落ちた。その身体は、ぴく、ぴくと、まだ、絶頂の余韻に、小さな、愛おしい痙攣を続けている。ヘッドホンからは、は、は、は、と、荒く、しかし、どこか規則正しい、彼女の、生まれ変わったかのような呼吸の音だけが、静かに、そして、生々しく、響き渡っていた。
要塞は、陥落した。
私は、その歴史的な瞬間を、ただ一人、この暗いアパートの一室で、すべて、最初から、最後まで、見届けてしまったのだ。
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