第13話 再生される過去
『ご購入ありがとうございました』。
その、どこまでも無機質で、他人行儀な文字列が、私の網膜の上でじっとりと滲んでいた。購入完了を知らせる間の抜けた電子音の残響が、まだ耳の奥で、不快な耳鳴りのように反響している。私は、何をしてしまったのだろう。マウスを握る手は、汗でじっとりと湿り、まるで自分の身体の一部ではないかのように、冷たく、そして重い。私は、親友の陵辱記録を、金で買ったのだ。その、取り返しのつかない事実が、巨大な鉛の塊となって、私の胃の腑へと、ずしりと沈み込んでいく。
画面には、購入した動画のダウンロードリンクと、『今すぐ再生』という悪魔的な誘惑の言葉が並んで表示されていた。ダウンロードのプログレスバーが、青い侵食のように、じりじりと右へと伸びていく。その、パーセンテージが一つ、また一つと増えていく様は、まるで、私の人生の破滅までの、無慈悲なカウントダウンのように見えた。もう、後戻りはできない。私は、自らこの地獄への扉を開け、その入場券まで買ってしまったのだから。
ダウンロードが完了するまでの、数分間。その、永遠のようにも感じられる時間の中で、私は、ほとんど無意識に、ある準備を始めていた。机の隅に置いてあったヘッドホンを、手に取る。それは、外部の音を遮断し、音楽の世界に没入するために、少しだけ奮発して買った、お気に入りの品だった。だが、今から私がしようとしているのは、そんな清らかな行為とは、あまりにもかけ離れている。これは、儀式だった。私の部屋という、ありふれた日常空間の音を、完全に遮断する。隣の部屋で眠る家族の息遣いも、窓の外を通り過ぎる車の音も、すべてをシャットアウトする。これから私が覗き見る、親友の失墜の記録。その、一音たりとも、聞き漏らさないために。そして、この背徳的な行為を、誰にも知られず、私だけの、完全な秘密にするために。
ヘッドホンを、ゆっくりと、両耳に装着する。ふわり、と柔らかなイヤーパッドが耳を包み込み、世界が、急に、水の中に沈んだかのような、深い静寂に包まれた。聞こえるのは、自分の、浅く、荒い呼吸の音と、狂ったように打ち鳴らされる、心臓の鼓動だけ。
私は、震える指で、マウスを動かした。カーソルが、『今すぐ再生』の文字の上で、まるで怯えるように、小さく揺れる。一瞬の、本当に、ほんの一瞬の、ためらい。そして、私は、そのアイコンを、強く、クリックした。
画面が、暗転する。
数秒の静寂の後、ノイズ混じりの映像が、私の目の前に現れた。
そこは、会議室か、あるいは安っぽい事務所の一室のような場所だった。殺風景な白い壁を背景に、パイプ椅子に座らされた、一人の少女。銀色のマスクで顔の上半分は隠されているが、顎のラインで切り揃えられた、艶のある黒髪のボブと、その下に覗く、形の良い薄い唇は、紛れもなく、如月怜のものだった。彼女は、私の知らない、趣味の悪いチェック柄の制服を着せられていた。
画面の外から、品定めをするような、無神経な男の声が聞こえてくる。
『じゃあ、千尋ちゃん、だっけ? まずは、どうして、これに出ようと思ったのか、聞かせてもらえるかな?』
その問いかけに、画面の中の怜は、少しの間、黙っていた。そして、ゆっくりと、あの、私が聞き慣れた、平坦で、一切の感情を排した声で、語り始めた。ヘッドホンから聞こえるその声は、少しだけ安っぽく反響していて、それが、この状況の非現実感を、より一層際立たせていた。
「動機は、知的好奇心です」
その一言を聞いた瞬間、私の喉は、カラカラに渇ききっていた。背筋を、氷のように冷たい汗が、一筋、つう、と伝っていくのがわかった。
「オーガズムという生理現象について、以前から、学術的な興味を抱いていました。しかし、文献上の知識だけでは不十分であり、自身の身体を用いた実験でも、有意なデータは得られませんでした。よって、その分野において、最も効率的な方法論を蓄積されている、専門家の方々の技術を拝借するのが、合理的であると判断しました」
同じだ。あの日の午後、私の部屋で、私が聞いた言葉と、一言一句、同じ。怜は、私に語ったのと、全く同じ論理を、今、見知らぬ男たちの前で、淡々と、淀みなく、繰り返している。その事実が、私に、強烈な吐き気と、そして、身を焼くほどの嫉妬をもたらした。私だけの、秘密の会話だと思っていたのに。私だけが、彼女の狂気を理解しているのだと思っていたのに。
親友が、モノのように、商品として扱われていることへの、強烈な嫌悪感。そして、それを、こうして、ヘッドホン越しに、一人、息を潜めて覗き見ている自分自身への、激しい自己嫌悪。だが、その二つの巨大な負の感情の、そのさらに奥深くで、どす黒く、粘ついた、背徳的な興奮が、確かに芽生えているのを、私は、もう、否定することができなかった。
男が、呆れたように、あるいは面白がるように、笑う声が聞こえた。
『なるほどねえ……。じゃあ、その、君の言う、実験、早速、始めてみようか』
画面が、一度、暗転した。インタビューは、終わった。これから、本編が、始まるのだ。私は、固唾を飲んで、これから再生される、親友の過去を、ただ、待つことしかできなかった。
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