第12話 記録された言葉
どれくらいの時間、そうしていたのだろう。私は、画面に映る、親友の身体に穿たれた小さな一点から、目を離せずにいた。そのほくろは、もはや単なる色素の沈着ではなかった。それは、私の淡い記憶と、おぞましい現実とを結びつける、呪われた烙印そのものだった。世界から、すべての音が消え去り、私の意識は、モニターの光が照らし出す、その一点だけに収斂していく。全身の血が沸騰し、逆流するような感覚の後には、奇妙なほどの静寂と、氷のような冷たさが、私の身体を支配していた。
恐怖は、その極致を通り越すと、人を無感動にさせるのかもしれない。もう、涙も出なかった。悲鳴を上げる気力すら湧いてこない。ただ、受け入れるしかなかった。怜は、ここにいる。私の知らない場所で、私の知らない誰かに、その身を委ねてしまったのだ、と。
やがて、その一点を見つめ続けることに耐えられなくなった私の視線は、逃げ場所を探すように、画像の横に添えられた、無機質なテキストのブロックへと彷徨い落ちた。それは、この「商品」の魅力を、買い手に伝えるための、扇情的な言葉で飾り立てられた説明文だった。私の指は、まるで自分の意志とは関係なく、マウスのホイールを回し、その文章をゆっくりとスクロールさせていた。一行、また一行と、その無慈悲な言葉の羅列が、私の目の中に飛び込んでくる。
まず目に留まったのは、出演した女性に与えられた、仮の名だった。
『file.07 千尋(ちひろ)』
千尋。その、どこにでもありそうな名前には、何の手がかりもなかった。だが、怜が、この倒錯した世界でその名を名乗っていたのかと思うと、まるで怜という存在そのものが、見知らぬ誰かに上書きされてしまったかのような、言いようのない喪失感に襲われた。
さらに、読み進めていく。そこには、オーディション時の様子を記録した、ディレクターと思しき人物のコメントが添えられていた。
『……面接時、「そもそも、出演されている女優の方々は、本当に感じているのでしょうか。オーガズムという現象は、多分に心理的な要因が作用するため、演技と実際の生理現象を切り分けるのは、客観的なデータ分析の上で非常に困難な課題です」と、真顔で問いかけてきた、近年稀に見る逸材。その知的な問いかけと裏腹に、自身の身体は……』
その一文を読んだ瞬間、私の背筋を、冷たい電流のようなものが駆け抜けた。脳内で、怜の、あの抑揚のない、常に冷静な声が、一言一句違わずに再生される。そうだ、怜なら、絶対にそう言う。自分がこれから陵辱されるかもしれないという状況の、その土壇場ですら、彼女はきっと、あくまで科学者として、冷静な問いを発するだろう。その、あまりにも怜らしいエピソードは、もはや疑うことすら許さない、決定的な証拠となって、私の胸に突き刺さった。
そして、その後に続く文章が、私に追い打ちをかけた。
『……自身の身体は、まるで精巧に作られた人形のように、一切の反応を示さなかった。我々の持つあらゆる技術を以てしても、彼女の鉄壁の無反応を崩すことは困難を極めた。だが、我々はついに、彼女の唯一の弱点を発見し、その人形を、嬌声と共に「人間」へと変えることに成功した。これは、我々の勝利の記録である……』
人形のように、無反応。その言葉は、あの日の記憶を、鮮明に蘇らせた。私の部屋のベッドの上で、祖父の電動マッサージ器を当てられながら、微動だにしなかった怜の姿。あの時、私が感じた、分厚い氷の壁のような、絶対的な無反応。プロを名乗る男たちでさえも、怜を相手に、私と同じ絶望を味わっていたのだ。その事実は、歪んだ共感と共に、私の中に、新たな感情の渦を巻き起こした。
疑いは、もうない。すべてが、確信に変わった。そして、その確信は、私の思考を、正常な判断ができない領域へと追いやった。恐怖や悲しみは、いつしか麻痺し、その代わりに、すべてを知らなければならない、という、強迫観念にも似た、狂おしいほどの欲望が、私の全身を支配し始めていた。
見てはいけない。だけど、見なければならない。
この目で、怜に何が起きたのか、そのすべてを、一瞬たりとも見逃さずに、記録しなければならない。
もはや、自分の行動を客観視することなどできなかった。私は、何かに憑かれたように、画面の右上にある、『動画を購入』という、けばけばしいピンク色のボタンに、カーソルを合わせた。震える指で、クリックする。決済画面へと遷移する。クレジットカードの情報入力画面。私は、財布からカードを取り出すと、そこに刻印された16桁の数字と、有効期限を、まるでプログラムを打ち込む機械のように、無心でキーボードに叩き込んでいった。
カチリ、カチリ、と、マウスのクリック音が、静まり返った部屋に響く。
最後の、『購入を確定する』というボタンを押した。
次の瞬間、画面に、『ご購入ありがとうございました』という無機質な文字列が表示されるのと同時に、決済完了を知らせる、間の抜けた電子音が、私のパソコンから、短く鳴り響いた。
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